新しい人を身に着けなさい。-張ダビデ牧師

1. 「新しい人を身に着けよ」という命令と罪の本質

チャン・ダビデ牧師がエペソ人への手紙4章を講解した際、その焦点はまさにパウロが勧めた「新しい人を身に着けよ」(エペソ4:24)という言葉であった。これは、イエス・キリストを信じる者であるなら、以前の古い生き方、すなわち「欺きの欲望によって滅びへと向かう、かつての習慣に従う古い人」(エペソ4:22)を脱ぎ捨て、新たにされた心によって神に倣い、義と真理における聖さで造られた存在として生きるべきだ、という意味である。この勧めは新約聖書の随所に登場し、特にパウロの書簡で顕著に示されている。たとえばコリントの信徒への手紙二5章17節には「だから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」とあり、キリストにあって霊的に生まれ変わった者の変化を強調する。ここで言う「新しく造られた者」になることが「新生(born again)」であり、「新しい人」として生きることは、私たちの実存や倫理的な歩みにまで影響を及ぼす具体的な変革を意味する。

しかし聖書が語る「新しい人」になるには、まず罪の問題と取り組まずにはいられない。イエスはヨハネによる福音書16章8節で、聖霊が来られるとき、罪と義と裁きについて世の誤りを指摘されると述べられた。その直後のヨハネ16章9節では「罪についてとは、彼らがわたしを信じないことである」と言い、イエス・キリストを信じないことこそ罪の核心であると教えている。このようにイエスが別れの説教で、簡潔ながら本質的な定義を示したなら、パウロは複数の書簡を通して罪の具体的な様相と人間の堕落性をより詳細に扱っている。ローマ1:29-31、コリントの信徒への手紙一 6:9-10、ガラテヤ 5:19-21、コロサイ 3:8-9、テモテへの手紙一1:9-10などには、罪の多様なかたちやリストが列挙されており、それがいかに深く人間を汚染しているかを幅広く示している。

人間は罪の力に囚われ、自分中心の人生を歩みがちである。この暗い人間の実存は、創世記からはっきり示されているが、私たちの日常においても、その悪の現実を見いだすのは難しいことではない。罪とは神に対しての不従順であり、同時に他者との関係にも破壊的な結果をもたらす。こうした文脈において、チャン・ダビデ牧師は福音を伝える宣教活動の中で「罪を正確に知らないと、恵みの大きさを決して正しく悟れない」という趣旨のメッセージをたびたび語ってきた。罪の深刻さを理解してはじめて、なぜ神の大いなる愛と救いが必要なのかを痛感し、その恵みに完全にすがることで「新しい人」としての生き方に踏み出せるという論旨である。

パウロが「新しい人を身に着けよ」と言うとき、それは私たちの人格や倫理、行動全体にわたる転換を要求する。多くの人はイエス・キリストを心で信じ、口で告白して(ローマ10:9-10)救いに与るが、現実の生き方が変わらないという経験をしばしばする。これは罪の根が深く、人間的な欲や古い習慣が簡単には消え去らないためである。だからこそエペソ4章は「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着ける」という抽象的なスローガンにとどまらず、その変化を具体的な倫理的実践へと展開している。まず最初に挙げられるのが、偽りを捨てて真実を語ることである(エペソ4:25)。次に「怒っても罪を犯してはならない」(エペソ4:26)ということ、さらに「盗みをしてはならない」、「汚い言葉を口にしてはならない」、「聖霊を悲しませてはならない」、「あらゆる悪意や憤り、怒り、叫び、そしりを捨てよ」、「互いに親切にし、憐れみの心で赦し合いなさい」などと続く(エペソ4:28-32)。

このようにパウロの教えは、罪が単に「イエスを信じない不信仰」で終わるのではなく、具体的な生活の中に表れる悪い行いや、言葉による破壊、情欲や欲望、暴力や偽善などへと、人全体の堕落として拡大していくのだと警告する。そして同時に、私たちは「新しい人」とされたのだから、そうした罪の実を捨て去り、真実と愛、親切と赦し、聖さと敬虔の実を結ぶべきだと励ましている。

「新しい人」という表現は、福音書でイエスが「新たに生まれること」(ヨハネ3:3-5)を強調された言葉ともつながっている。ニコデモとの対話でイエスは「だれでも新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と語った。これは肉体的な生まれ直しではなく、霊的な再誕生、すなわち神のいのちによって再び生まれることを意味する。したがって、この新生(born again)はすべて神の恵みと聖霊の働きによって成し遂げられるものであって、自分の力や功績によって得られるものではない。パウロはエペソ2章で「あなたがたは恵みによって、信仰を通して救われたのです。これはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です」(エペソ2:8)と説明している。

とはいえ、新生後も私たちの内には罪の残滓がなお活動しており、日常の中で古い人を絶えず脱ぎ捨て、新しい人を着続ける訓練が必要となる。ガラテヤ5:24で「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、その情と欲とともに十字架につけてしまったのです」と宣言されるが、この言葉もすべてが一瞬で解決するのではなく、継続的な自己否定の決断を要求している。実際、信仰者の歩みの中で日々自分を十字架に付けなければ、古い習慣や罪の性質が顔をもたげるからである。

パウロが語る「新しい人」の生き方は、単に罪を犯さないという消極的状態だけを指していない。パウロはエペソの信徒たちに、「むしろ善を行って徳を建てなさい」(エペソ4:28,29要旨)と積極的に勧める。これはイエス・キリストを通して示された神の愛と正義に倣い、いまや光の子どもとして(エペソ5:8)世を生きよという具体的な呼びかけである。否定的なものを取り除くだけで終わるのではなく、その空いた場所を神の善で満たすべきだというメッセージだ。

ここで注目すべきは、「真理である神を知った者なら、偽りを捨てなければならない」という論理である(エペソ4:25)。大小のうそで自分や他者を欺くことこそ罪の代表的な特徴であり、十戒の第9戒が「隣人に対して偽りの証言をしてはならない」(出エジプト20:16)とされているのも同じ文脈である。チャン・ダビデ牧師は、説教や著作を通じて、今日のメディア環境や社会的風潮が虚偽や誇張、フェイク情報であふれていることをたびたび指摘し、クリスチャンは真実を語り、正しいことだけに堅く立つべきだと強調してきた。なぜなら教会共同体が真理の上にしっかり立っていなければ、この世において光と塩であるべき教会の使命が大きく損なわれる可能性が高いからである。

結局、「新しい人を身に着けよ」というエペソ書の命令は、私たちの根本的な罪の性質を解決する福音の力にしっかりととどまり、そこから生活全体を変革せよという意味である。罪は単に不信仰やいくつかの悪行にとどまらず、人格全体、社会生活、人間関係、さらに霊的な領域にも影響を及ぼす。したがって福音による救いとは、その罪の根を取り除きつつ、同時に聖霊の助けによって義と聖を追い求める方向へと導くものである。パウロはエペソの信徒たちに救いの教理を十分に説いた後、それにふさわしい生活倫理を教えているが、それがまさに「新しい人を身に着けよ」という言葉で要約される核心的メッセージなのだ。

ではなぜ、罪を継続的に脱ぎ捨てねばならないのか。その最も根源的な理由は、神が聖なる方であるからである(レビ19:2、ペトロの手紙一1:16)。神が聖なる方である以上、その民も聖であるべきであり、これは旧新約を貫く宣言である。新約時代にはイエスが「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全でありなさい」(マタイ5:48)と言われた。神は私たちを御自分のかたちに似せて創造し、堕落した後も見捨てることなく救ってくださった。その神に仕え、キリストに属して生きるのであれば、当然、偽りや悪を捨てて真理と善を行うのがふさわしい姿である。ヨハネの手紙一1章5節以下で使徒ヨハネは「神は光であって、闇は少しもない」と宣言し、私たちも光の中へと歩むように促している。

この光と闇の対比は、罪と義、虚偽と真実、死と命、悪魔と神という二つの王国の対立を象徴するとすれば、クリスチャンは光の世界へ移された者だ(コロサイ1:13)。ゆえに私たちは生活のあらゆる領域において、このアイデンティティにふさわしい生き方をせねばならない。そうしなければ、古い人の姿を保ったまま、外面だけ新しい人のふりをする偽善に陥りやすい。パウロがしばしば教会内の問題を指摘したのも、その内部に依然として偽りや分裂、盗みや淫乱など古い生き方の名残が消えずに残っていたからである。しかし真理を悟った者たちなら、その古い習慣や罪を「ことごとく脱ぎ捨てて」(エペソ4:22)、ただ神に倣って造られた新しい人間性へと歩む必要がある。

チャン・ダビデ牧師もまた、説教や著書で「聖さ」や「聖潔」が単なる外面的な行動規範の順守にとどまらず、人間の心の奥底に巣くう不信と罪の性質そのものが、イエス・キリストの血潮と聖霊の力によって新しくされることだ、と繰り返し強調している。人間は意志力が強ければ罪に打ち勝てると勘違いしがちだが、聖書は人間の力だけでは罪を完全に断ち切ることはできない、と宣言する。キリストの功績と聖霊の内住があってこそ、根本的な変化が可能なのだ。

したがってエペソ4章で「新しい人を身に着けよ」という命令は、一面では罪を徹底して捨てよという警告であり、他面では聖霊のくださる力の中で、私たちが聖と義の道を歩むことができるという希望の宣言である。これこそが私たちの信仰生活の土台であり、同時に救われた共同体がこの世において示すべき姿でもある。


2. 怒りと舌の問題:「怒っても罪を犯してはならない」

エペソ4章の具体的な勧めの中で、多くの人々の目を引くのが「怒っても罪を犯してはならず、日が暮れるまで憤りを持ち続けるな」(エペソ4:26)という一節である。元来、山上の説教では「怒るな」という強い教えが示されているが、ここでパウロは、人が生きる中で「怒らざるを得ない正当な状況」もありうると認めている。ただし怒りそのものが罪なのではなく、怒りを誤って取り扱うとき、それが罪に発展し、破滅的な結果をもたらす可能性を強く警告しているのである。

怒りには時に「義憤」と呼ばれるものがある。神殿を汚す商人たちを追い出されたとき、イエスは神の聖さが踏みにじられる状況に対して怒りを表明された(マタイ21:12-13、ヨハネ2:15-16参照)。これは罪や不正に対する聖なる憤りであり、もし私たちが世の悪や不正を目の当たりにして何の痛みや憤りも感じないなら、それはむしろ霊的に麻痺している状態と言えるかもしれない。問題は、このように「正当」あるいは「義なる」理由で始まった怒りでも、コントロールを誤ればすぐに罪の扉を開いてしまう危険が大きいという点である。

聖書は、怒りを正しく処理できずに滅びへと至った数々の人物を通して、私たちに警鐘を鳴らしている。その代表的な例がカインである(創世記4:1-16)。神がアベルのささげ物を受け入れ、自分のささげ物を受け入れられなかったことに対して、カインは激しい怒りを抱いた。しかし神はカインに「あなたが怒るのは正しいことか。罪は戸口に潜んでいる。だが、それを支配しなさい」(創世記4:6-7要旨)と警告する。カインはこれを無視し、結局、弟アベルを野で殺すという惨い罪に陥ってしまう。これは人類初の殺人事件となり、カインは苛酷な呪いと放浪の道を歩むことになった。すなわち、怒りを制御できないとき、罪の結果がどれほど悲劇的となるかを端的に示す例である。

もうひとつの例として旧約の預言者ヨナを挙げることができる。ヨナ書4章によると、ニネベの民が神の警告に耳を傾けて悔い改めると、ヨナはむしろ激しく怒り、「私は憤って死にたいほどです」(ヨナ4:9)と言う。彼の怒りは全く正当ではない、筋違いの怒りであった。ニネベが悔い改めて滅びを免れたなら、預言者としては本来喜ぶべきなのに、彼はむしろ彼らの滅亡を望んで怒っていたのである。神は虫を用いてとうごまを枯らし、ヨナを戒め、「お前がとうごまを惜しむなら、わたしがニネベを惜しむのは当然ではないか」(ヨナ4:10-11要旨)と問われた。これは「その怒りは本当に正当なのか」を見極めようとせず、「自分の思い通りにならない」というだけで怒る利己的な愚かさを示す代表的な事例だ。

現代社会でも「怒りをコントロールできない」ゆえに苦しむ人々は増えている。特に若者をはじめ、さまざまな年代層で日常の些細なことで暴力を振るったり、極端な言葉や行動を取ったりするケースが少なくない。こうした現象に対して、チャン・ダビデ牧師はさまざまな教育プログラムや説教で、「人間の内面が神の御言葉によって深く治められていなければ、だれでも極端な怒りや絶望に飲み込まれうる」と指摘する。そして、そのような怒りは自己破壊や対人関係の破壊はもちろん、信仰の道全体を深刻に損なうのだと強調している。

したがって、エペソ 4章26節「怒っても罪を犯してはならず、日が暮れるまで憤りを持ち続けるな」という御言葉は、私たちの日常に非常に実際的な教えとなる。怒りが生じるのは、ある意味では自然な人間的感情である。しかし「ただ怒るな」という道徳的訓示だけでは十分でない。パウロは続けて「悪魔に機会を与えてはならない」(エペソ4:27)と言うが、これは怒りの中で人間の心が容易に恨み、憎しみ、暴力、陰謀、偽りなどに走り、結果としてサタンに活躍の余地を与えることを意味している。

怒りが罪へと拡大する主要な経路のひとつが「舌」である。エペソ4章29節では「悪い言葉を一切口から出してはならない。むしろ聞く人に恵みを与える、益になる言葉だけを語れ」と命じている。ヤコブの手紙3章も舌を「不義の世界」と呼び(ヤコブ3:6)、小さな火が大森林を燃やすように、舌がどれほど破壊的な力を持つかを警告している(ヤコブ3:1-12)。舌から出る言葉が相手を生かすこともあれば殺すこともあるというのは、古今変わらぬ真理である。問題は、怒りが高まるとき最初に失敗を犯しやすい領域が言葉だという点にある。激怒した状態でつい放ってしまった言葉が周りの人々に深い傷を与え、その後取り返しのつかない対立へと発展する例は、教会の中でも決して少なくない。

こうした状況において、エペソ4章26-29節の教えは具体的で現実的な指針を与える。第一に、怒りを感じても罪に直結しないよう注意すること。第二に、日が暮れる前にその怒りを解消すること。第三に、言葉で相手を傷つけず、むしろ恵みを与えるような会話へと切り替えること。これこそ信徒が怒りに対処する正しい原則と言える。怒りが芽生え始めたとき、その芽を初期段階で摘むことが重要である。それをしなければ、対立と憎しみがさらに深まって「悪魔に機会を与える」ことになる。「機会を与える」とは、サタンが心に入り込み、怒りをいっそう激化させ、あらゆる否定的感情を煽ることを指す。この段階になると、ついには暴力にまで発展しかねず、さらに霊的な領域に深刻なダメージをもたらす。

怒りを制御する具体的な方法論として、ヘブライ12章2節が提示される場合がある。「信仰の創始者であり完成者であるイエスを見つめよう。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、恥をも厭わずに十字架を忍ばれ、それゆえ神の御座の右に着座されたのである。」イエスは十字架を負われる極度の苦痛と恥辱に耐えられた。全人類の罪を負うという、言葉に言い表せない苦難のただ中でも、イエスは怒りや絶望ではなく、人類への愛と従順を選ばれた。その結果、神の御座の右に着く栄光を得られたのである。私たちがこのイエスを仰ぐとき、怒りの代わりにむしろ忍耐と愛、赦しと耐え忍ぶ道が開かれる。

旧約のモーセもまた、怒りによる失敗を経験した代表的な人物である。エジプトの王宮で育ったモーセは、エジプト人の不当な暴力を見て義憤を覚えたが、それを制御できずエジプト人を殺してしまった(出エジプト2:11-15)。これによってモーセの人生は根底から揺さぶられ、逃亡者として荒野に逃れ、長い間羊を飼って心を養う訓練を受ける必要が生じた。その40年に及ぶ訓練の末、民数記12章3節で「モーセという人は、この地上のどんな人よりも非常に柔和であった」と評されるほどの人になった。エジプトの宮廷で培った力や暴力ではなく、柔和によって人々を導く指導者となったのである。結局、イスラエルをエジプトから導き出すという偉大な使命を担えたのは、モーセがこの「柔和」を身に着けたからだと見ることができる。

これらの例を総合してみると、怒りそのものは完全に消せない人間の情動だが、適切な制御と解消をしなければ容易に罪となり、自分自身や周囲を破壊することがわかる。チャン・ダビデ牧師は「怒りをはじめとする感情を押し込めるのではなく、福音の前に正直にさらけ出し、御言葉と祈りをもって自分自身を省みるときこそ、癒やしと回復が始まる」と語ったことがある。問題状況を回避したり、「ただ我慢しろ」という権威的な押さえつけだけではなく、みことばをもって内面を照らし、聖霊の導きの中で怒りの根を抜き取る必要がある、というメッセージである。

パウロはエペソ4章31節で「すべての悪意、憤り、怒り、怒鳴り、そしりなどを、いっさいの悪意と共に捨て去りなさい」と総括的に宣言する。ここで言う悪意(malice)は、蛇の毒のように巧妙かつ執拗に魂を蝕む憎悪でもある。怒鳴るとは騒ぎ立てることであり、そしりは中傷や誹謗を指す。これらは結局すべて、怒りと憎しみから派生する行動である。したがって「それは義憤だから大丈夫」と放置するには、人間の怒りはあまりに危険な感情だと聖書ははっきり語る。

ゆえに教会共同体でも、あるいは家庭や職場でも、対立が生じたとき私たちはエペソ4章の教えを常に思い起こす必要がある。怒りを抱いても罪に陥らず、日没までにできる限り和解や心のわだかまりを解消する。そしてそのためには赦しが不可欠である。その赦しの根拠となるのが「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」(エペソ4:32)という福音の原理である。神の無限大の愛と赦しを受けたのなら、私たちも当然、他者を赦すべきであることを悟らねばならない。

「新しい人を身に着けよ」という命令は、結局怒りの問題、舌の問題においても明確に適用される。パウロは怒りをただ取り除くという消極的命令に留まらず、積極的に「善い言葉を語ってお互いに恵みを与えよ」(エペソ4:29)と促す。私たちが怒りや不平、不満、そしりの言葉を捨て、真理と愛、励ましと称賛の言葉を選ぶとき、聖霊の働く共同体が形成され、そこに神の国が部分的ではあっても表れる。怒りは自然な感情だが、決して正当化されるべきものではなく、なおかつそれが罪に転じるのを放置することもできない。ゆえにパウロの勧めは、極めて現実的であると同時に、霊的にも非常に重要な指針なのである。

結局、「怒っても罪を犯してはならない」という言葉は、私たちがより大きな愛の内にとどまるときにのみ実行可能となる。罪人である私たちのために、すべてを捨て、あらゆる侮辱と苦痛を耐え抜かれたイエス・キリストの十字架を思うとき、私たちは怒りではなく、むしろあわれみと赦し、愛と和解を選ぶ力を得る。これこそが信徒の生の本質であり、新しい人の特徴でもある。イエスを深く黙想しなければ、心に湧き上がる怒りが罪に転じるのを毎回食い止めることはできない。だが聖霊が私たちの心を支配してくださるなら、怒りが戸口を叩くとき、その扉をすぐに閉ざし、愛を選ぶことができる。この愛の実践こそが「新しい人」の実践なのである。


3. 実践的倫理と愛の完成:「互いに親切にし、憐れみの心で」

エペソ 4章の終盤(エペソ 4:28-32)でパウロは、「新しい人を身に着けた」信徒が必ず実践すべき倫理を具体的に列挙する。彼は「盗みをしている者は、もう盗むのをやめ、自分の手で骨を惜しまず良い仕事をしなさい」(エペソ4:28要旨)と勧め、その目的を「貧しい人に分け与える物を得るためだ」と語る。つまり、熱心に働いて得た収入を自分だけのために使う利己的な生き方ではなく、弱く貧しい人を助ける“施し”という実を結ぶべきだということである。これは、罪の本質が「奪い、搾取すること」にあるとするなら、新しい人の生き方は「与え、施すこと」に反転する原理を具体的に示している。

十戒で「盗んではならない」(出エジプト 20:15)とある第8戒と「隣人の家を欲しがってはならない」(出エジプト20:17)とある第10戒を拡大解釈すれば、物質だけでなく、隣人が本来得るべき権利や機会を奪う行為も広義の盗みである。教会内外で他者を搾取したり、不正な手段で利益を得たり、あるいは合法的であっても倫理的に不当な利得を追い求める行為はすべて、神の前では盗みと見なされる可能性がある。新しい人へと変えられたキリスト者なら、単に「盗まない」という消極的態度にとどまらず、さらに「ほかの人のために働き、所得を分かち合う生き方」へ踏み出すべきである。パウロが使徒言行録20章で別れの説教をした際、自ら手を使って働き、困窮している人々を助けたと告白したのは(使徒20:33-35)、彼自身がこの原理を身をもって実践した証しといえる。

続く勧めでパウロは「無益な言葉を一切口にしてはならない」と言い、むしろ「聞く人に恵みを与える、徳を高める言葉だけを語りなさい」(エペソ4:29要旨)と説いている。新しい人の特徴は言葉遣いにも表れる。ヤコブ書にあるように、舌は非常に小さな器官だが人生全体を左右する大きな舵のようなもので、小さな火種が大きな山火事を起こすように、その破壊力は大きい(ヤコブ3:1-6)。だからこそ、この舌を用いて「恵みを与える言葉」を伝えることが信徒の当然の倫理的責任であり特権なのだ。聖霊が私たちの内に住んでおられるなら、私たちの口調や言語習慣にも必ず変化が起こるはずである。

パウロはさらに「神の聖霊を悲しませてはならない」(エペソ4:30)と勧告する。聖霊は人格的存在であり、私たちが罪を犯し、悪を行うときに悲しまれる。すでに私たちに保証として与えられ、救いを確信させてくださる方を、私たちが逆らう形で行動すれば、聖霊が悲しむのは当然のことだ。「新しい人」として生きるとは、聖霊とともに歩み、聖霊が喜ばれる方向へ人生を修正していく過程でもある。私たちが悪しき欲望や怒り、偽りや汚い言葉に支配されるとき、聖霊の繊細な御声を無視することになり、結果、霊的成長が阻まれたり後退したりしてしまう。

その結論としてエペソ4章31-32節でパウロは、「捨てるべきこと」と「取るべきこと」とを最終的に対比させて再度まとめている。捨てるべきものは「すべての悪意、憤り、怒り、騒ぎ立てること、中傷」そして「あらゆる悪意」である(エペソ4:31)。私たちが追い求めるべきなのは「互いに親切にし、憐れみの心で赦し合いなさい。神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように」(エペソ4:32)という教えである。この節は「新しい人」の倫理的頂点とも言えよう。実際、キリストが十字架で私たちに示された赦しが基準となるため、これは非常に高い標準であることがわかる。

なぜパウロは互いに赦し合うことを強く主張するのか。それは教会共同体が分裂や争いを起こしたとき、最初に回復すべき徳が赦しだからである。イエスの教えてくださった主の祈りにも「私たちに負い目のある人を私たちが赦したように、私たちの負い目をも赦してください」(マタイ6:12)というくだりがある。自分に罪を犯した隣人を赦さなければ、自分が神に赦しを願うとき、その真実味を伴わなくなる。またイエスはマタイ18章で「一万タラントの借金を赦された下僕」のたとえを通し、神に莫大な借金を帳消しにしていただきながら、仲間のわずかな借金を赦さない姿勢を戒められ、赦しの必要性を繰り返し力説された(マタイ18:21-35)。

チャン・ダビデ牧師は共同体に関わる問題や教会の紛争解決を論じるとき、しばしばエペソ4章32節を引用し、「赦しは私たちの徳や善性で成し遂げられるのではなく、イエス・キリストの十字架を仰ぐときに初めて可能となる」と説く。人間的観点にとどまるなら「なぜ私が先に赦さなければならないのか。あちらが悪いのに」という思いが湧くが、福音の光のもとでは「私も赦された罪人であり、十字架の愛によって救われた」という自覚が先立つため、赦しを拒否できなくなるということである。これこそ「互いに親切にし、憐れみの心で赦し合う」生き方である。

パウロはただ「赦しは良いことだからしなさい」という当為を説くだけではなく、その根拠を示す。「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように」。キリスト教倫理の特徴は、人間的な善行を超え、根本的に神の行為とご性質に倣うところにある。神がいかに行われたかが私たちの標準なのだ。私たちが愛すべきなのは、神が先に私たちを愛してくださったからであり(ヨハネの手紙一4:19)、私たちが赦すべきなのは、神がキリストにおいて私たちを赦してくださったからである。こうして神の救いと恵みが信徒の行動の根拠であり動力となる。

「新しい人を身に着けよ」という言葉が現実的に難しい理由は、人間が本性上、自分本位で罪深い性質を持っているからだ。しかし福音は、人間の本性の弱さを克服するよう助ける神の力である(ローマ1:16)。聖霊が私たちのうちにとどまるなら、私たちは本来的には不可能な愛と赦し、親切を実践できるようになる。これは信仰生活においてきわめて実際的な部分である。教会の中ではささいな口論や意見の衝突がしばしば起こるが、互いに親切な態度を保てば簡単に解決する争いも、怒りとそしりが介在することで手の施しようのない段階にまで悪化してしまうことが多い。だからこそパウロは「すべての悪意や憤り、怒り」を捨てるように繰り返し強調するのである。

さらに言えば、聖霊の実の中に「愛、寛容、慈愛、善意」が含まれていることを思い出したい(ガラテヤ5:22-23)。怒りや悪意、憎しみは肉のわざだが、親切や憐れみ、赦しと愛は聖霊の実である。新しい人として生きようとする教会共同体は、最終的に聖霊がもたらすこれらの実を豊かに結ぶことを目指す。イエスが「あなたがたが互いに愛し合うなら、それによってすべての人は、あなたがたがわたしの弟子であることを知る」(ヨハネ13:34-35)と言われたことも、この文脈と同じである。教会が世から「確かに神に属する共同体だ」と認められるためには、怒りやいさかいではなく、愛と赦しに満ちている必要があるのだ。

このとき愛を単なる感情のレベルでとらえてはならない。聖書が語る愛(ἀγάπη, アガペ)は、相手のために自己犠牲を惜しまない実践的な献身である。エペソ5章2節でパウロは、「キリストがあなたがたを愛してくださったように、あなたがたも愛のうちを歩みなさい」と述べ、キリストの愛がご自分の身をささげるまでの犠牲の愛であったことを強調している。結局、愛の完成は赦しと自己犠牲の実践であり、これこそが新しい人のアイデンティティを最も鮮明に示す行動といえる。

私たちの生活のなかでこの愛を体現するには、まず罪の問題を解決し、怒りを捨て、偽りを遠ざけるプロセスが必要だ。そして日常の具体的場面で盗みや貪欲、淫らな言葉、そしり、悪意などあらゆる悪を断固として断ち切る。さらに相手を憐れみ、積極的に施しを行い、善い言葉をかけ、互いに赦し合う共同体を築いていく。パウロが言う「互いに親切にし、憐れみの心で赦し合いなさい。神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように」(エペソ4:32)という言葉は、だからこそ教会生活や個人生活、家庭生活のあらゆる領域で適用されるべき核心的徳目なのである。

チャン・ダビデ牧師は、特に「弱い肢体、傷ついた心を持つ人々を憐れみ、仕えることに怠ってはならない」と教会共同体に対して繰り返し強調している。それこそがイエスが示してくださった道であり、福音の力が実際に表れる場だというのである。世は強い者、成功した者、特別な才能をもつ者に目を向けやすいが、教会は孤児ややもめ、打ちひしがれた者、社会的に疎外された者にこそ目を向けて助けるのに力を注ぐべきだ。最終的にエペソ4章が描く「新しい人」の姿は、まさにこうした「親切と憐れみの実践」へと結実していく。

最後に、「捨てるべきもの」を捨て、「取るべきもの」を取るこの過程は、自分の力だけで果たし得ないことをはっきり認識する必要がある。だからこそパウロはローマ8章で、肉に従えば死に至り、霊に従えばいのちと平安に至ると語っている(ローマ8:5-6)。結局、聖霊の働きのうちでのみ、私たちは真に新しい人として生きられ、聖霊を悲しませる言動を退け、互いに憐れみ合い、赦し合う「キリストの共同体」を築くことができる。教会が世から光と塩と見なされる道は、こうした聖霊の実が随所で実際に表されるときである。

エペソ 4章の結びである「互いに親切にし、憐れみの心を持ち、互いに赦し合いなさい」(エペソ4:32)という言葉は、地上の教会が絶えず取り組むべき課題である。信徒一人ひとりが自身の怒りや貪欲、利己心、偽りを十字架に付けなければ、教会は健全な姿で世に仕えることができない。そしてその動力こそ「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように」という福音の真理に基づいている。イエス・キリストが示された聖なる犠牲と赦し、そして神の大いなる愛を思い出すとき、私たちはだれをも排斥したり断罪できないことに気づく。むしろ互いを立ち上がらせ、不足を補い合い、共に聖霊のうちに成長する共同体となる。それこそがパウロの示す「新しい人を身に着けた」生き方であり、キリスト教倫理の核心であり、教会が世に示すべきイエス・キリストの光である。

結局、エペソ4章という一章を通して与えられる教えは、教理と倫理がどれほど緊密に結びついているかを如実に示している。パウロはエペソ書の前半で信徒の救いと教会の奥義について深い教理を扱った後、直ちにその教理が日常の倫理へとつながるべきことを強調する。「新しい人として生きる」とは、単に「身分」が変わるだけでなく、「品性」と「行動」が変わることまでも含むのだ。罪と怒り、偽り、そしりを捨てて、親切と赦し、愛を実行してこそ、初めて「キリストにあって生きる」という言葉の意味が完成するのである。

これはエペソ教会の時代だけでなく、現代を生きる私たちも同じ御言葉の前に立たされている。私たちはみな、新しい被造物として招かれたのだ。「チャン・ダビデ牧師」がこれまでの説教や講演で繰り返し強調してきたように、教会は世からの呼びかけではなく(世の価値観に引きずられるのではなく)、神に選ばれ、聖なる生き方へと召された共同体である。だからこそ、そのアイデンティティにふさわしく生きる責任がある。その責任は重いが、同時に聖霊の力の中でこそ全うできる「恵みの道」でもある。

最終的に私たちが神の愛をさらに深く黙想し、イエス・キリストの十字架を仰ぎ見て、聖霊のうちに自らを絶えず点検するとき、エペソ4章の「新しい人を身に着けよ」という命令が、具体的な現実として身を結ぶ。結果として私たちは怒りや偽りを捨て、善い行いや恵みのある言葉を選択し、とりわけ互いに親切にし、憐れみを示し、赦し合う共同体となる。教会の内外を問わず、だれがこの共同体を見るにしても、「本当に彼らは神の子どもらしい」と感じられるはずだ。そのとき、神の国の姿が部分的にせよ具体的に現れ、福音が力強く証しされる。これこそがパウロがエペソ教会に抱いた夢であり、今日の私たち全員が改めて握るべき希望であり、最終的に教会が担うべき使命なのである。

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