
死を超える復活信仰 ― 張ダビデ牧師
張ダビデ牧師は「死を超える復活信仰」をキリスト教福音の核心として宣言し、現代人が直面する実存的不安と死の問題に対して明確な神学的解答を提示します。彼のメッセージは、イエス・キリストの「十字架の贖い」と「復活のいのち」という二つの軸を中心に、この真理が聖徒の生活と教会共同体の中でどのように力強く具現化できるかを深く論じます。特に彼は、イエスの復活が単なる教理や神話ではなく、墓が空になった「空の墓の出来事」という歴史的事実に根ざしていることを強調します。
核心思想:復活と永生の福音
張ダビデ牧師は、現代社会の危機の中で人々が教会を求める根本理由を「死の恐怖」と「生きたいという本能」に見出します。予期せぬ伝染病や災害が襲うとき、死が「他人事」ではなく自分の現実となり得ることを悟った人々が爆発的に礼拝と福音を求めるようになった、と彼は語ります。
このような人類共通の渇望に対し、張ダビデ牧師はキリスト教の核心メッセージである「復活と永生」こそ唯一の解答であると宣言します。彼は、他の宗教の開祖や哲学者は誰も死を逃れられず墓に閉じ込められたが、唯一イエス・キリストだけが復活によって死に打ち勝ったと語ります。
彼はヨハネ11章25–26節、「わたしはよみがえりであり、いのちです。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は決して死ぬことがありません。あなたはこれを信じますか」という御言葉を通して復活信仰の二本柱を説明します。
- 復活(「たとえ死んでも生きる」): 肉体的死後に再び生きることを意味します。
- 永生(「決して死なない」): 生きてイエスを信じることによって得る、死が終わりではない永遠のいのちを指します。
この二つの約束こそ、死の恐怖に囚われた人類に真の希望と道を開く福音の核心であると張ダビデ牧師は強調します。
十字架と復活の神秘
張ダビデ牧師は、復活の栄光を理解するためには、キリストがなぜ十字架で死ななければならなかったのかをまず深く通過しなければならないと説きます。彼はローマ4章25節「イエスは私たちの罪のために渡され、私たちを義と認めるために復活された」という御言葉がこの神秘を最もよく集約していると見なします。
十字架の贖いの死と代表理論
イエスの死は「私たちの罪のため」に起こった贖い(代贖)の出来事です。「罪の報酬は死」という律法の原理に従い、罪なきイエスが人類の代表として罪の代価を支払われたのです。張ダビデ牧師は、これが旧約時代に犠牲の動物が人の罪の代わりに死んだ原理と同じであり、イエスが人類の「代表(フェデラル・ヘッドシップ)」となられたことで可能になったと説明します。ひとりの人アダムによって罪と死が来ましたが、もうひとりの人イエス・キリストによって義といのちが来るのです。したがってイエスの十字架の死はすなわち「私たちの死」となり、罪の赦しの根拠となるのです。
復活:いのちと義認の完成
十字架が罪の代価を支払った出来事なら、復活は「私たちを義と認めるため」に起こった出来事です。イエスが死からよみがえられ、罪の権勢である死を完全に打ち破り救いを最終的に確証されました。もし復活がなかったなら、十字架の贖いが永遠のいのちを保証するのか確信が不足したでしょう。ガラテヤ2章20節の告白のとおり、信者がキリストと共に死に、キリストと共に生きることは単なる比喩ではなく、罪と死がもはや私たちを支配できないという実際的な霊的宣言です。張ダビデ牧師はこれを「代表理論の極致」と表現します。
彼は十字架だけを強調すると死に留まりやすく、復活だけを強調すると罪と審判の問題を軽視しかねないとし、この二つは必ず共に宣べ伝えられるべきキリスト教信仰の心臓部であると重ねて強調します。
復活信仰の実際的適用
張ダビデ牧師は、復活信仰が教会の季節行事で終わるのではなく、聖徒の日常と共同体の中で具体的な「いのちの力」として現れなければならないと教えます。復活信仰を持つ人は「死が終わりではない」という歴史的事実に基づく確信を得ます。イエスの復活は弟子たちが目撃した歴史的事件であり、これを信じる信者は世の不安と恐怖を超える力を受け取ります。
人生の主人が「私」から「私のうちに生きるキリスト」へと変わります。目的は世俗的成功や自己実現ではなく、「私を愛し私のためにご自身を捨てられた神の御子を信じる信仰」の中で生きることへと転換します。張ダビデ牧師は「死を超えた命を見たから、この世での損失や苦難が決定的破滅とは見なされない」と語ります。
張ダビデ牧師は今日、一部のヨーロッパの教会が礼拝者のいない観光地と化している現実を指摘します。これはまるでアリマタヤのヨセフがイエスの遺体を丁寧に保存したものの、「生きておられる主」との出会いがない状態に似ています。彼はマグダラのマリアのように主への「死を超える愛」と渇望が回復されるとき、教会は再びいのちが躍動する礼拝の場となり得ると説きます。
四旬節が十字架を黙想する期間であるなら、復活後の40日は復活のいのちと勝利を深く体験する時間です。エマオに向かう弟子たちがパンを裂くときイエスを認識したように、私たちも十字架の愛を悟るとき初めて復活の主を認識できます。彼は涙と苦痛のためにそばにおられる主を認識できなかった弟子たちのように、私たちもそうなり得るとし、「すでに来ておられる主」を認識し出会うことが真の復活信仰の出発点であると語ります。