十字架の贖いの神秘 – 張ダビデ牧師

1. ローマ書3章25節の意味と贖いの神秘 ローマ書3章25節は「このキリストを神は、その血によって信仰により和解のいけにえとして立てられました。それは、神が長く忍耐してこられた中で、以前に犯された罪を見過ごしてこられたことによって、ご自身の義を示されるためです」という内容を語っています。この短い一節の中には、キリスト教神学が長い年月をかけて議論し、熟考してきた贖い(贖罪)の核心的教理が凝縮されています。使徒パウロは、イエス・キリストの死と流された血によって、人間が罪と死の支配から自由にされると宣言します。しかし、「二千年前のある日、カルバリの丘で流されたイエス・キリストの血が、なぜ今日の私の罪を清め、赦す力となり得るのか?」という問いは、信者にとってさえ時に受け入れ難い神秘でもあります。ましてやイエス・キリストを信じない人々にとっては、その疑問はいっそう大きいに違いありません。人間の理性によって正確に測り知ることが難しい「贖いの神秘」がまさにここにあるのです。 張ダビデ牧師はこの問いに対し、キリスト教の贖罪教理は、人間のあらゆる罪を一瞬にして洗い清める超越的かつ永遠的な力に関係しているのだと強調してきました。キリストが十字架で死なれたことによって、人間が犯したすべての罪、そしてこれから犯す罪さえも覆われたという教えは、表面的にはやや非合理的に感じられるかもしれません。しかし福音は「神の恵みによる救い」を語っており、その恵みこそが人間の知性や感情を超えて歴史すると聖書が証言しています。パウロの教えもまた、「律法の行い」ではなく「キリストの犠牲とその血」による信仰を通じて義とされる、という点に焦点を当てています。 実際、「神が長く忍耐してこられる中で以前の罪を見過ごしてこられた」という言葉は、一見すると神の裁きと義が保留されたかのように見えますが、究極的にはキリストの死において神の義(義)と愛が同時に現れたことを意味します。ここで重要なのは、神の「忍耐」と「怒り」が矛盾するという意味ではなく、罪に対する正しい裁きが必ず行われねばならない一方で、その裁きの刑罰を罪人ではなくイエスご自身が受けられたという点です。これはまさに「刑罰代償論(Penal Substitution Theory)」の基礎となり、同時に神の愛の大きさを示す出来事でもあります。 しかし、人々はこの愛を単純に頭で理解するというよりも、心で受け止める体験の中で真の変化を経験するものです。その意味で、「イエス・キリストの自己犠牲的な愛の物語が私たちを深く感動させ、変化させる」と主張する「道徳感化説(Moral Influence Theory)」も、信仰の実際の体験を説明する上で意義があります。同時に、キリスト教史上最も古い形態の贖罪論といわれる「勝利者キリスト(Christus Victor)」、すなわち「古典的贖罪論(Classical Theory of Atonement)」は、サタンと罪の権勢を打ち破って人類を解放したキリストの勝利を強調し、贖罪の出来事が宇宙的な規模で起こった霊的戦いの勝利であることを宣言します。 このように、贖罪教理に関するさまざまな視点は、それぞれに異なる焦点を合わせつつも、すべてイエス・キリストの死と復活を通して人間が救われるという福音の本質を志向しています。張ダビデ牧師もまた、福音の真髄を語る際に、神の無条件の愛を説きながらも、罪を滅ぼし私たちを自由にしてくださったイエス・キリストの血潮の力を豊かに教えます。そしてその際、「神の怒り」と呼ばれる側面を否定するのではなく、聖書がはっきりと怒りや裁きを言及していることを直視しつつ、その裁きを超える恵みがどのように作用するかを説教します。 パウロが「神の怒り」について語るローマ書5章9節と10節では、「それで今や、私たちはキリストの血によって義と認められたのですから、いっそう彼によって神の怒りから救われることになります。…私たちが神の敵であった時、その御子の死によって神と和解させられたのなら…」と述べられています。これは、罪人である私たちが事実上、神の敵対者の状態にあったことを示唆しています。「敵」とは決して和合できないような敵対関係を意味するのではないでしょうか。しかし、神が怒りだけを注がれていたなら、私たちに望みはありませんでした。けれどもローマ書3章25節と5章9-10節に表される福音の核心は、この敵対関係を回復し、「和解の関係」へと変える主の犠牲、すなわちその血を流されることによる和解なのです。まさにこの点において、「キリストの贖いの御業」は、神の怒りさえもキリストのうちで愛へと転換させる劇的な出来事となるのです。 張ダビデ牧師の説教では、この「神の怒りからの救い」という主題がしばしば取り上げられます。彼は、神の愛を強調するあまり「怒りは必要ない」と言う極端にも、逆に人間の罪を指摘して「神の怒りしか存在しない」と言う極端にも、共に警戒すべきだと力説します。福音はすでに「キリストの血潮」によって罪と死の権威が屈服したと語りつつも、キリストの犠牲が私たちの心を変化させる(道徳感化説)と同時に、罪に対する刑罰が実際に代償された(刑罰代償論)という事実を共に見なければならないからです。そしてそれを通して、罪の鎖が断ち切られた(勝利者キリスト)ことが明確に表されるべきだと説きます。 一方、福音書を見ると、イエスが地上で活動された際、すでに罪の赦しを宣言しておられた場面が頻繁に登場します。マルコの福音書2章では、屋根を破って下ろされてきた中風の人にイエスが「あなたの罪は赦された」とおっしゃったくだりが代表的です。この出来事は当時の宗教指導者たちに大きな衝撃を与えましたが、彼らは「神だけが罪を赦すことができる」という点を強調し、イエスが神を冒瀆していると非難しました。しかしイエスは実際に彼を癒し、罪を赦す権威を示されたことで、ご自分が何者であるかを明らかにされました。この罪の赦しの権威は、究極的には十字架の出来事で完成します。十字架上での死は、イエスの公生涯で繰り返し示されていた罪の赦しの決定的な頂点となり、またその後の復活によって罪と死の権威が無力化されたことが宣言されたのです。 パウロが強調する「神の怒りから救われる」という表現は、罪が決して軽い問題ではないことを教えます。罪は神の聖なるご性質に逆らうものであり、最終的には怒りの対象となるのです。しかしキリストの血によって私たちが義とされたとき、その怒りはもはや私たちに向けられない、これこそ福音の喜ばしい知らせです。これが贖いの本質であり、人間の功績や努力では得られない「全的な恵み」でもあります。だからこそ張ダビデ牧師は、この点を強調する度に「神は怒られるが、同時にその怒りをご自身で担われる。だからこそ私たちは限りなく感謝すべきである」と説教します。 このように見ると、ローマ書3章25節はパウロ神学の精髄が凝縮された節と言っても過言ではありません。キリストの死とその血潮の効力が私たちに及ぶ過程は、理性で完全に把握しがたい部分がありますが、パウロは私たちが信仰によってこの事実を受け入れるとき、義とされるのだとはっきり宣言しています。そして聖書全体がこの宣言を支えています。旧約の祭司制度もまた「血を流すことなしには罪の赦しはない」(ヘブライ9:22)という原理に基づいており、イエス・キリストが真のいけにえとしてご自分をささげられることによって、すべての儀式的犠牲が最終的に完成した、というのがキリスト教の伝統的教えです。 結局、「二千年前のキリストの十字架の死が、なぜ私の過去・現在・未来の罪までも清めるのか?」という問いに対する答えは、人間的な時間ではなく、「神の永遠のうちでの出来事」という視点の中に見いだせます。張ダビデ牧師もこれを説教するとき、私たちは歴史の瞬間の中で時間の制約を受けますが、神は昨日も今日も永遠に変わることなく働かれ(ヘブライ13:8)、キリストの犠牲はすべての時代、すべての人々に同じように効力をもたらすのだと強調します。そしてこれが「信仰によって起こる」出来事であるため、すべての人間はただ恵み(Sola Gratia)によって罪の赦しを得られるのだと繰り返し語ります。 2. 三つの主要な贖い(贖罪)論とその神学的含意 キリスト教の歴史において、「イエス・キリストの十字架の死が、私たちの救いをどのようにもたらすのか?」という点については、さまざまな理論が提示されてきました。最も一般的な分類としては、第一に「勝利者キリスト(Christus Victor)」、第二に「刑罰代償論(Penal Substitution Theory)」、第三に「道徳感化説(Moral Influence Theory)」という三つの類型が代表的です。これら三つの理論はいずれもキリスト教の贖罪教理を説明しようとする試みであり、それぞれが異なる観点を強調するものの、どれか一つがすべてを代替したり、他を完全に排除したりするわけではありません。多くの神学者や牧師たちは、「この三つが調和を成すとき、十字架の贖いがさらに立体的で豊かに理解される」としばしば語ります。張ダビデ牧師もこのような統合的視点を取り、教会がこれら三つの側面をバランスよく宣教する必要があると強調しています。 まず、勝利者キリスト(Christus Victor)は最も古典的な贖罪論として「贖いの代価論(Ransom Theory)」、あるいは「劇的贖罪論(Dramatic Theory of Atonement)」とも呼ばれます。初代教会の時代からこの理論はキリスト教信仰告白の基盤にあり、それゆえ「古典的贖罪論(Classical Theory)」という名称が付されています。その核心は、人間が罪の権威、サタンの支配下に隷属していたが、キリストがご自分のいのちを代価(ransom)として支払い、人間を解放されたという概念です。すなわち「人の子が来たのは、仕えられるためではなく仕えるためであり、多くの人の代わりに自分のいのちを『身代金』としてささげるためである」(マルコ10:45)というイエスの言葉を根拠に、キリストがサタンとの霊的戦いで勝利することによって、人間を奴隷状態から救い出したという解釈です。 この視点は、宇宙的規模で起こった巨大な「霊的ドラマ」を想定します。神に背き、罪に陥った人類がサタンの捕虜となり、サタンは人類を人質にとって神に要求を突きつける悪しき存在として描かれます。しかしキリストが十字架で死なれたことによって、人間を「代価を払って買い戻された」構図の中で、サタンは決定的に敗北し、キリストの復活によって罪と死の権威が永遠に打ち破られた、というのが「勝利者キリスト」論の要旨です。張ダビデ牧師はこの観点を説明するとき、「イエスの死は受動的な出来事ではなく、イエスが自ら進んで私たちのためにいのちを差し出し、サタンの手から私たちを救出する能動的な解放の働きだった」と力説します。そしてこの解放の働きこそが「私たちの罪の鎖を断ち切り、死と絶望の谷からいのちと希望へ移される恵みの出来事」であると強調しています。 第二の理論は、宗教改革者たちや正統主義神学で最も広く受け入れられた「刑罰代償論(Penal Substitution Theory)」です。これは「イエス・キリストが罪人に代わって刑罰を受けられた」という点に主眼を置き、他の呼び方では「刑罰代償説」あるいは「満足説」とも言われます。罪に対する神の公正な裁きは必ず実行されねばなりませんが、私たちがそれを受ければ死ぬしかありません。ところがイエスが私たちの身代わり(Substitute)となって十字架で刑罰を負われ、そのことによって神の御前で私たちは満足(satisfaction)を得るに至った、というのが刑罰代償論の核心です。この理論は神の公義と愛を同時に保持する試みとも理解できます。すなわち、罪を見過ごせない神の公義がある一方で、その刑罰を罪人ではなく罪なきイエスが担われたゆえ、私たちは信仰によって義とされ、救いにあずかることができるのです。 張ダビデ牧師は、この刑罰代償論が「キリスト教の救いの深遠な神秘を客観的かつ法廷的イメージで説明するのに優れている」と評価しています。イエスが十字架の上で「すべては完了した」(ヨハネ19:30)と語られたとき、それは人間が負っていた刑罰と責任を完全に終わらせたという宣言とも捉えられます。すなわち律法が要求する代価、すなわち罪の対価をイエスの犠牲によってすべて支払われた、という意味です。パウロがローマ書で「その血によって義とされた」と強調するのも、まさにこの「刑罰代償」を通して罪人が罪の報いを免除され、義人として宣言されるという真理を語るものです。こうした理由から、教会史の中でもこの理論は非常に強い支持を得てきました。そして実際、多くの教会の説教や礼拝の中で「イエスの十字架が私たちの罪の代価を支払われた」というメッセージが繰り返し宣言されてきました。 第三の理論である「道徳感化説(Moral Influence Theory)」は、12世紀にピーター・アベラール(Peter Abelard)によって体系的に提示された後、近代から現代にかけてさまざまな形で発展してきました。この理論は、十字架の出来事が人間の心に大きな感化をもたらすと主張します。イエス・キリストが罪人のために自らへりくだり、十字架につけられて死なれた極限の愛の物語は、それを聞く者の心を溶かし、深い悔い改めと変化を起こし、その結果として罪から離れた聖なる生き方へ導くというのです。刑罰代償論が比較的「客観的」かつ「法廷的」なニュアンスを伴うのに対し、道徳感化説は救いの「主観的体験」や「内的変化」により焦点を置きます。 道徳感化説に対する批判も存在します。代表的なものは「神の怒りをどのように説明するのか?」という点です。また「十字架の客観的贖罪の働きがなければ、単なる感動だけで人が新生できるのか?」という疑問も提起されます。それに対して道徳感化説を支持する人々は、「罪人たちが神に立ち帰るのは、ただ法廷的宣言だけによるのではなく、神の愛を徹底的に体感するときに初めて可能となる」と答えます。すなわち「イエス・キリストの犠牲がもたらす深い感動こそが、人間の魂の回復へとつながる」というのです。 張ダビデ牧師は、これら三つの理論のうちどれか一つだけが正しいと主張することはせず、「それぞれが特別な役割を果たし、相互補完的に十字架の豊かな意味を示す」と教えています。イエス・キリストの死は、サタンとの戦いにおける勝利を示す宇宙的事件(Christus Victor)であると同時に、罪に対する刑罰を完全に支払われた代償的犠牲(Penal Substitution)であり、さらに人間の心を捕らえる愛の極致(Moral Influence)であるということです。実際、多くの教会の伝統において、イエスの十字架の贖いを黙想するときに、これら三つの次元をそれぞれ味わうことで、その出来事をより立体的かつ深く捉えられるという証言が少なくありません。 また教会史を振り返ってみても、ある時代は刑罰代償論を中心に十字架の意味を浮き彫りにしてきましたし、初代教会時代にはむしろ勝利者キリストの概念のほうが一般的に受容されていました。近代以降は個人主義や心理学的アプローチが発達したこともあり、道徳感化説が優勢になる傾向を示してきました。こうした歴史を顧みると、教会が決してある一つの理論に固執することなく、福音の核心を守りつつ、状況や時代が抱える問いに応えるために多様な表現を試みてきたことが分かります。 張ダビデ牧師は「イエス・キリストを信じて救われた」という告白は、一面ではサタンの権威からの解放であり、別の面では罪に対する刑罰が代償されたという安心感であり、さらにまた「これほどまでに私を愛してくださるのか!」という悟りの中で変えられる感動的体験を意味すると説教します。これはすなわち、三つの理論が相補的に働くという証言です。礼拝の場で賛美と御言葉に触れながら、悔い改めや決断を繰り返し経験するというのは、ある意味道徳感化説がいう「私たちの内面で起こる変革」に近いかもしれません。同時にキリストの血潮によって「刑罰は終わった」という教理的理解が私たちに平安を与えます。そして宣べ伝えられる福音は「イエス・キリストがすでに勝利された」という宇宙的な希望を同時に示してくれます。 結局、ローマ書3章25節という一つの短い節の中にも、これほど豊かな贖罪の意味が含まれている事実にクリスチャンたちは大きな気づきを得るのです。パウロが「その血によって信仰により和解のいけにえ」と表現するとき、実のところキリストにおいて成し遂げられた贖罪の業は、一言で簡潔に定義しきれないほど多面的であることを直感させます。キリストの勝ち取られた勝利、私たちが代償を受け取った刑罰、そしてその愛が私たちの内側に生み出す聖なる感動は、結局は同じ一点で交わります。それこそ「神の愛が十字架によって完全に示され、その愛が信じる者を永遠に自由にする」ということなのです。 3. … Read more

十字架救赎的奥秘 – 张大卫牧师

1. 罗马书 3章25节的意义与救赎的奥秘 罗马书 3章25节写道:“神设立耶稣作挽回祭,是凭着耶稣的血,借着人的信,要显明神的义;因为他用忍耐的心,宽容人先时所犯的罪。”在这简短的一节经文中,蕴含了基督教神学长期以来反复探讨与辩论的救赎(赎罪)核心教义。使徒保罗宣告:因着耶稣基督的死和流血,人类得以从罪与死亡的权势中得到自由。然而,对于信徒而言,有时甚至也会产生这样的疑问——“两千年前在各各他山上流的耶稣基督之血,究竟如何能赦免并洁净我今天的罪呢?”对不信者而言,这个疑问更是深刻。因为以人的理性去衡量,这“救赎的奥秘”常常很难被准确解释。 关于这一点,张大卫牧师多次强调,基督教的救赎教义关乎神那超越时空、永恒不变的能力,能够在一瞬间涤荡人的一切罪。基督在十字架上所流的宝血,遮盖了人类过去的罪,甚至未来将要犯的罪;表面上,这教导似乎略显不合乎理性。然而,福音所宣告的,正是“因着神的恩典而得的救恩”,而这恩典超越了人的理性与情感。《圣经》也多处证明,神的恩典在超越人的智慧之外真实地运行。保罗的教导亦聚焦于:不是靠“律法的行为”,而是通过“基督的牺牲和宝血”使我们因信称义。 事实上,“神用忍耐的心,宽容了人先时所犯的罪”,乍看之下,好像神暂时搁置了审判与公义,但最终却在基督的死之中同时彰显出神的义(Justice)与爱。在这里的重点并非“神的恒久忍耐”与“神的忿怒”彼此矛盾,而是:罪理应受到公义的审判,但那审判与刑罚并没有落在罪人身上,而是由耶稣基督自己承担了。这正是“刑罚代赎论”(Penal Substitution Theory)的基础,也同时昭示了神何等伟大的慈爱。 然而,人们常常不是仅仅通过理性来理解这份爱,而是在心灵的领受与体验中经历到真实的改变。在这一点上,“道德感化说”(Moral Influence Theory)所强调的“耶稣基督舍己的爱之故事,让我们在深深的感动中被改变”也不无道理,能相对准确地描述信仰的实际经历。与此同时,在基督教历史中被称为最古老的救赎理论——“得胜者基督论”(Christus Victor)或“古典救赎论”(Classical Theory of Atonement),则侧重于宣告基督粉碎了撒但和罪的权势,释放了整个人类,展现了宇宙层面的属灵争战之胜利。 如此看来,对于救赎教义的诸多视角,虽然侧重点各有不同,但都指向这样一个福音本质:人因耶稣基督的死与复活而得救恩。张大卫牧师在传讲福音真髓时,同样高举神那无条件的慈爱,也大力教导基督的宝血如何灭绝罪,并使我们得自由。同时他并不忽视《圣经》所清楚提及的“神的忿怒”与审判这一面,而是在宣告“超越审判的恩典如何生效”之时,亦正视神忿怒与审判的真实存在。 保罗在罗马书5章9-10节中提到“神的忿怒”:“现在我们既靠着他的血称义,就更要借着他免去神的忿怒……我们作仇敌的时候,且借着神儿子的死,得与神和好……”。这暗示了罪人事实上与神为敌的状态。“仇敌”意味着一种似乎绝无和解可能的敌对关系。如果神只是一味倾倒忿怒,我们便毫无盼望。但罗马书3章25节以及5章9-10节所启示的福音核心,在于基督牺牲、流血所带来的和好,化解了这原本无解的敌对。所以,“基督的救赎工作”在这里成为一幕戏剧性事件:竟然将神的忿怒也在基督里转化成了爱。 在张大卫牧师的讲道中,“从神的忿怒中得救”这个主题经常被谈及。他提醒我们,不可因为过分强调神的爱就走向“无需忿怒”的极端,也要避免只指出人的罪、宣称“神只有忿怒”这样的极端。福音已经宣告“因基督的宝血,罪与死的权势都已屈服”,同时也呼应着“基督的牺牲能改变人心”(道德感化说)和“罪的刑罚在实际上已被代赎”(刑罚代赎论)这两方面。当我们理解并宣告这些,便更清晰地显明了罪的锁链已经被斩断(得胜者基督),福音由此更为丰满。 在福音书中,耶稣在世上传道时,已多次宣告罪得赦免。马可福音第2章中记载了耶稣对被人从屋顶坠下、无法行动的瘫痪病人说:“你的罪赦了”。当时的宗教领袖深感震撼,他们强调“唯有神能赦罪”,并指控耶稣亵渎神。然而,耶稣不但治好了这病人,更显明自己拥有赦罪的权柄,也籍此启示了他是谁。最终,罪的赦免在十字架事件中达到巅峰。耶稣在十字架上牺牲,成就了他在传道中已不断展现的罪之赦免,并在他复活之后宣告:罪与死亡的权势已彻底被摧毁。 保罗所说的“我们要从神的忿怒中得救”,提醒人们罪的严重性:罪并非轻描淡写的小错,而是抵挡神的圣洁,理应成为忿怒的对象。然而,因着基督的血我们得以称义,就不再要面对这忿怒了——这便是福音的好消息。这正是救赎的本质,也是人绝无可能凭自己的功劳或努力获得的纯粹“恩典”。因此,每当张大卫牧师讲到此,便再三强调:“神会忿怒,却同时由自己承担那忿怒,好使我们心怀无限感恩。” 如此看来,罗马书3章25节可谓凝缩了保罗神学的精华。基督之死与流血对我们的功效,理性也许无法穷尽,但保罗却清晰地宣告:当我们借着信心领受这事实,就得以称义,而整本《圣经》都在见证这一宣告。旧约祭祀制度也基于“若不流血,罪就不得赦”(来9:22)的原则,而耶稣基督作为真祭物献上自己,彻底完成了一切祭祀礼仪,正是基督教传统所教导的真理所在。 归根结底,对于“耶稣基督在两千年前的十字架之死,如何能洁净我过去、现在、将来的罪”这一问题,答案可在“神永恒的视域”中找到。张大卫牧师在讲道时也常提及:我们活在时间的限制中,但神却超越时空,“昨日、今日、一直到永远,是不改变的”(来13:8)。因此,基督的牺牲对历世历代所有人都具有效力。而正因为这是“藉着信心”领受的救赎,每个人唯独凭恩典(Sola Gratia)才能得蒙赦罪,毫无可夸。 2. 三种主要的救赎(赎罪)理论及其神学含义 基督教历史中,对于“耶稣基督的十字架之死如何成就救恩”这一话题,神学家们提出了多种理论。最常见的分类方式,将其归纳为三大类型:第一,“得胜者基督论”(Christus Victor),第二,“刑罚代赎论”(Penal Substitution Theory),第三,“道德感化说”(Moral Influence Theory)。这三种理论都试图阐明基督教的救赎教义,彼此关注点不同,但并非互斥或能完全取代彼此。许多神学家和牧者都认为:“这三种理论若能彼此调和,将能更全面、更丰富地理解十字架的救赎。”张大卫牧师也是秉持这样的综合视角,并主张教会应平衡宣讲这三个面向。 首先,“得胜者基督论”(Christus Victor)是最古典的救赎理论,又称为“赎价理论”(Ransom Theory)或“戏剧性救赎论”(Dramatic Theory of Atonement)。自初代教会起,此理论即已成为基督信仰告白的核心,因此也被称作“古典救赎论”(Classical Theory)。其要点在于:人类在罪与撒但的权势之下作奴仆,而基督以自己的生命作为赎价(ransom)将人类救出。“因为人子来,并不是要受人的服事,乃是要服事人,并且要舍命作多人的赎价。”(可10:45)正是这一关键经文的依据。由此解释:基督借着自己的死与撒但展开属灵争战,最终得胜,释放了被掳的人类,借复活宣告罪与死的权势被永远摧毁。 这种观念把十字架事件视为发生在宇宙层面的“属灵大戏”。因着背离神而堕落犯罪的人类,被撒但掳为囚徒;撒但如同绑架人类要胁神的邪恶之徒。然而,基督在十字架上舍命,好比付出赎金,夺回了人类,撒但因此遭遇决定性的失败。张大卫牧师在讲解此观点时,往往会强调:“耶稣之死绝非被动事件,而是主耶稣甘愿为我们舍命,以此积极拯救我们脱离撒但之手的解放行动。”这正是“斩断罪的枷锁,使我们从死亡与绝望的幽谷转入生命与盼望”的恩典性事件。 第二,“刑罚代赎论”(Penal Substitution Theory)在宗教改革家及正统神学思想中最为普及。它强调“耶稣基督替罪人承担了刑罚”,又被称作“刑罚代偿说”或“赔偿满足说”。神的公义要求对罪的惩罚;若由我们自己承担,只能灭亡。于是,耶稣替我们承担了刑罚,使我们在神面前得到“满足”(satisfaction)并因此称义。这理论力图同时维护神的公义与神的慈爱:在神不能轻忽罪的公义要求下,罪的刑罚确实被实行,却不是落在罪人身上,而是落在那无罪的基督身上;结果,我们凭信心得救。 张大卫牧师评价说:“刑罚代赎论在阐明基督教救恩之深邃奥秘,且以客观且司法性的形象作出解释,颇有独到之处。”当耶稣在十字架上宣告“成了”(约19:30)时,也可被理解为:人类欠下的罪债已经彻底偿清,律法对罪的要求已由耶稣一次性地承担完毕。保罗在罗马书中强调“借他的血称义”,即指出:透过“刑罚代赎”,罪人罪债得以免除,被宣布为义。因而,在教会历史里,刑罚代赎论一直享有强大的支持。实际上,许多教会的讲道与敬拜也频繁宣讲“耶稣的十字架替我们付清了罪价”这一信息。 第三,“道德感化说”(Moral Influence Theory)则是12世纪时由彼得·阿伯拉尔(Peter Abelard)系统提出,并在近现代不断发展变化。它强调十字架事件在人的内心引发的强大感化。耶稣基督愿意为罪人卑微降世、并在十字架上牺牲的最高爱之故事,软化人的心,使人悔改更新,进而带出圣洁的生活。相较于“刑罚代赎论”的客观与司法性倾向,“道德感化说”更注重救恩的“主观经历”与“内心变革”。 对道德感化说也不乏质疑,例如,“如何处理神的忿怒?”、“若缺乏十字架客观的救赎功能,仅凭感动能否使人真正重生?”等等。感化说的支持者则回答:“罪人归向神,不仅是因为一纸司法声明,而更是当罪人切实经历神的爱时,才得以重新转向神。”换言之,“基督牺牲的爱所带来的强烈感动和震撼,会使人的灵魂得到医治与更新。” 张大卫牧师并不主张只拥护其中任何一个理论,而是指出:“三种理论各有其特殊作用,唯有彼此互补,才能更全面地彰显十字架的丰富意义。”也就是说,耶稣基督之死既是宇宙层面与撒但争战的胜利(Christus Victor),也是对罪的刑罚作完美代赎(Penal Substitution),并且是震撼人心的爱之极致(Moral Influence)。实际上,在众多教会传统中,信徒默想耶稣的十字架救赎时,若能同时体认到这三种层面,往往更能深切体会十字架事件的立体性与深度。 此外,教会历史上,不同时代往往有侧重点:有些时期更突出刑罚代赎论,早期教会对“得胜者基督论”更加熟悉,近现代则因个人主义与心理学的兴盛,更关注道德感化说。而回顾这段历史,可发现教会并不拘泥于某一理论,而是在坚守福音核心的前提下,因应不同时代与群体的需要,尝试多元表达。 张大卫牧师讲道时也常提到:“我们认信耶稣基督为救主时,一方面意味着从撒但权势下获得释放,一方面因罪的刑罚被代偿而心中踏实,另一方面则是当我体会到‘他竟然如此爱我!’时,内心被感动而更新。”换言之,这三种理论并非分割运作,而是互相补足,共同见证。当我们在礼拜中藉着诗歌和信息反复经历悔改与决志时,这很符合道德感化说所提的“内心被改变”。与此同时,通过对“基督宝血带来刑罚的结束”这一教理性理解,我们能得平安。而福音的宣告亦给予我们“基督已得胜”的宏大盼望。 … Read more