迫害の中に咲いた福音 – 張ダビデ牧師

張ダビデ牧師が使徒の働き8章1–5節を中心に説教・講義した内容をもとに、本稿では本文が語る初代教会の歴史と福音の伝播、そしてその精神を現代教会がどのように受け継ぎ、適用できるかについて神学的・実践的考察を試みる。また、張ダビデ牧師が強調してきた「真の福音」と「歴史を貫く神の国」の視点を軸に、患難の中でも前進していく福音の力と、教会の新しい時代的パラダイムを提示したい。 1. 初代教会の迫害、散らされること、そして福音の拡大 使徒の働き8章1–5節は、初代教会が経験した激しい迫害と、それによって教会が散らされる場面を証言している。特に使徒の働き7章で石打ちの刑により殉教したステパノの死後、教会共同体に対する大規模な弾圧が始まった。ステパノが死ぬや否や、多くの聖徒たちは激しい恐怖を抱き、エルサレム教会を対象にした過酷な迫害が起こる。そこには「使徒たち以外はみな散らされた」というほど、教会共同体は各地域へと散っていかざるを得なかった。さらに、その過程でサウロ(後のパウロ)が教会を滅ぼそうと、家々を捜し回り、男女を引き立てて牢に入れるということまでも起こった(使徒8:3)。当時迫害を受けた聖徒たちは、大洪水に流されたかのように、ばらばらに散らされるしかなかったのである。 しかし使徒の働き8章は、この「散らされること」が決して福音の後退や失敗を意味しなかったことを明確に示している。聖徒たちは各地に逃れるように身を潜めても、そこで彼らは「御言葉の福音を伝え」た(使徒8:4)。人間的に見れば「悲しみと恐れに打ちひしがれた魂たち」の移動であったが、神の視点からすれば、この出来事は福音の地境を広げる火種となったのだ。エルサレムとユダヤ地方を越え、サマリアにまで至る福音伝播が本格化し、この過程を通じて神の国はさらに広い地域へと伸びていった。 この箇所は、イエスの大宣教命令(Great Commission)をあらためて思い起こさせる。イエスは昇天の際に「あらゆる国の人々を弟子とし、父と子と聖霊の名によってバプテスマを施し、あなたがたに命じたすべてのことを守るように教えなさい」(マタイ28:19–20)と言われたが、使徒の働き1章8節ではさらに具体的に「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となる」と明言される。初代教会の聖徒たちは、エルサレム教会が成長し、ある程度根づいた時点で、自分たちが本格的に地の果てへ出て行かなければならないという明確な使命を与えられていたにもかかわらず、しばらくは一か所にとどまって安住していた可能性が高い。ところが、ステパノの殉教と迫害によって、彼らは否応なく散らされることとなり、その結果、福音伝播の視野はエルサレムを越えて拡大されたのである。 この場面を教会史研究者たちは「サタンの逆説的失敗」と呼ぶことがある。悪しき勢力が教会を弾圧して福音を阻もうとしたが、その弾圧そのものがむしろ福音を広範囲に拡散させる結果をもたらしたからである。人間の恐れや悲劇が、神の摂理のうちでかえって救いの歴史を進展させる鍵となったのだ。これは初代教会の時代だけでなく、教会史全体を通じて何度も現れたパターンである。教会が苦難に遭うほど、福音はさらに遠くへ拡がり、聖霊の力に支えられた聖徒たちは、散らされた先で新しい教会を建て、福音を伝えた。 このような歴史的パターンは、今日においても大きな示唆を与える。迫害の程度や形は変わったが、教会が世の中で経験する困難や迫害は今なお存在する。同時に教会内部にも、歪んだ思想や福音を曇らせる異端的流れ、あるいは偏狭な教権主義や物質的・人間的欲望などが入り込むときがある。初代教会の時代には、仮現説(ドケティズム、Docetism)やグノーシス主義(Gnosticism)などの誤った思想が信徒たちを惑わせた。グノーシス主義者たちは「救いに至るには、自分の内にある神的なパーティクル(particle)を発達させ、完全な境地に到達しなければならない」と主張し、恵みと信仰による救いの福音を揺るがした。このような内部的挑戦と外部的迫害の中でも、初代教会は最終的に「正しい福音」を守り抜き、かえって全世界へと伸びていく原動力を見いだしたのである。 張ダビデ牧師は、こうした初代教会の姿に注目しながら、「教会が世から患難を受けることはあっても、真の福音伝播の使命が消えることはない」と強調してきた。牧師によると、神は教会が栄光のうちに働くこともできるが、苦難のうちにも驚くべき方法で福音を展開される。聖霊は、否応なく散らされる状況にあってさえ、各人の心に共におられ、その教会共同体が散らされた場所で新しい歴史と出会うように導かれる。そういう意味で「迫害や患難が、決して福音伝播の原動力を失わせることはない」という信念を持ち、宣教現場における挑戦や逆境を「新たな機会」と解釈し受けとめる教会論を提示している。 実際、使徒の働き8章4節、「その散らされた人たちは、御言葉を伝えながら巡り歩いた」という一節は、「散らされること」が「消えること」ではなく「拡大」であったことを明確に示している。人間の目には敗北のように見えるかもしれないが、神はこの広範な移動と再配置を通じて、さらに多くの人に福音を証しするようになさった。当時サマリア地方は、ユダヤ人が汚れた地とみなす地域であり、社会的・宗教的にユダヤと葛藤してきた歴史があった。しかしピリポがサマリアの町へ下って「キリストを人々に宣べ伝え」(使徒8:5)たとき、そこでも多くの人々が福音を受け入れ、イエスを主と告白した(使徒8:5以下)。この出来事は、地理的・文化的境界を超える福音の力を証ししている。 現代の教会も同様に、世界が急激に変化し、予期しない試練が押し寄せる時——たとえば世界的に猛威を振るったコロナ禍のような患難の時代——礼拝の形態や教会の活動が大きく制限されることがある。だが、教会が「迫害」であれ「患難」であれ、何らかの形で経験する困難を神の壮大な目的の中で見つめるならば、それは最終的に新しい形態の福音伝播と教会共同体形成へとつながりうる。 張ダビデ牧師は「教会が患難に遭って粉々に散らされるような状況にあっても、聖霊がおられる教会は決して倒れない」という確信をたびたび強調する。聖霊は人を集めてくださるだけでなく、散らすこともされる方であり、「見える教会(visible church)」と「見えない教会(invisible church)」の両方を包含される。現代教会が礼拝堂の建物や制度的枠にとどまらず、時代の変化に応じて福音をインターネットやメディアを通じて伝え、多様な文化的・社会的接点を活用して「見えない教会」を広げていく必要があるというのだ。これは初代教会の時代、聖霊が散らされた者たちと共におられ、彼らが行く先々で新しく生まれる教会を誕生させた原理と通じている。 使徒の働き8章から確認できるもう一つの重要な事実は、教会が「患難でもなければ動かない」姿があるという点についての反省である。もし迫害がなかったとすれば、安心に浸ってエルサレム教会だけに留まり続けたかもしれない。ところが神は、迫害という極端な状況を通じて聖徒たちを世界の隅々へ送り出される。この点について張ダビデ牧師は「もし私たちが喜びの歌を口ずさみつつ自発的に散らされていくなら、どんなに素晴らしいことか」とよく力説する。つまり、追い立てられるのではなく、福音の緊急性と神の国への熱情に突き動かされて自発的に出て行く「従順の子ども」となるべきだというのである。マタイの福音書21章28–30節でイエスがお話しされた二人の息子のたとえのように、口先だけで行かない息子ではなく、行動に移す者となってこそ、教会は一時的な患難にも揺るがない。 患難のときにやむを得ず身を避けるように福音を携えていくのではなく、ふだんから既に「いつ、どこにでも遣わされる準備ができている」状態であるべきだというメッセージである。パウロもまた後年、ローマ皇帝の迫害下にあってもひたすら手紙を書き教会を牧し、獄中にあってさえ福音を伝え続けた(ピリピ1:12–14)。初代教会のこのような姿は、時を経ても変わらない福音伝播の原型質といえる。 さらに、教会が文化的・地域的特性に応じて多様な形で建てられるべきだという点も注目に値する。当時サマリアに下ったピリポの働きは、エルサレム神殿を中心とする伝統的ユダヤ教慣習とは異なる、新たな文化的文脈へ福音を植えた事例である。これと同様に、パウロはガラテヤ、エペソ、コリントなど、それぞれ異なる都市・文化圏に教会を建てる際、その地に合ったアプローチで福音を伝えた。ローマ書12章、コリント第一12章、エペソ4章などでも、教会の多様性の中の一致が強調されており、各地域教会がキリストのからだとして機能しつつも、その形や構造は画一的ではない姿が示される。 張ダビデ牧師は、ポール・ティリッヒ(Paul Tillich)の名言「宗教は文化の本質であり、文化は宗教の形式である(As religion is the substance of culture, culture is the form of religion)」をしばしば引用し、「福音という本質は決して変わらないが、それを包む文化という衣装は時代や場所に応じて変わりうる」と解釈する。今のように急激にデジタル化が進む時代には、SNS、ストリーミング、オンライン・コミュニティ、ビデオ会議などさまざまなメディアが「福音を包む衣装」となりうる。福音そのものを変質させることは決して許されないが、伝播の形態や教会共同体の組織の仕方は、いくらでも異なる形を適用できるというわけだ。初代教会が使徒の働き8章以降、徐々にユダヤ・サマリアを越えて小アジアやローマに至るまで、各地域の特性を反映して福音を伝えたように、現代教会も新しいメディアや方法、さまざまな文化領域を積極的に活用すべきだと牧師は主張する。 さらに、現代教会が直面するもう一つの課題は、「個人の救い」と「歴史の救い」とを共にバランスよく見つめることである。聖書全体が証しする大きな主題は、創造、堕落(罪)、救い、そして神の国の回復である。ヨハネの黙示録21章で、すべての涙をぬぐい、死もなく、悲しみも叫びもない世界が約束される神の言葉は、「失われたエデンの園を回復するプロセス」を最終的に示している。このように壮大な歴史観をもって聖書を理解するとき、個人が救われることだけでなく、この地上の歴史に神の国が到来することを同時に夢見るようになる。 張ダビデ牧師は、このような歴史意識が現代教会でさらに強調されるべきだと語る。初代教会の弟子たちがイエスに「イスラエルの王国を再興してくださるのはこの時ですか」と尋ねたとき(使徒1:6)、イエスは「時や期は父のご自身の権威において定められている」と答えつつも、「地の果てにまでわたしの証人となれ」と命じられた。この地の歴史の中に福音が成長し、神の国は究極的に完成するという希望のうちで、教会は絶えず次世代を起こし、全世界のあらゆる民族に福音を伝えることに専念すべきである。単に教会堂の中にとどまったり、教勢拡大だけを追求するのではなく、歴史の大きな流れの中で「魂の救い」と「神の国の拡大」という目標に向かって走る共同体であるべきだというメッセージが、使徒の働き8章にも示されているのだ。 要するに、初代教会はステパノの殉教を契機に吹き荒れた大規模迫害によって聖徒たちが四方に散らされたが、この散らされることこそがかえって福音伝播への決定的な扉を開くことになった。神は反対や迫害を通してさえ、そのご計画を進めていかれ、聖霊の力によって散らされた聖徒たちの口と足、そして生活をとおして、新たな地域に福音の種が蒔かれたのである。教会は強制的に追いやられるのではなく、自発的従順と正しい歴史理解をもって喜んで「地の果て」へと進むべきである。これこそが使徒の働き8章1–5節に描かれる初代教会の姿であり、また張ダビデ牧師が常に強調してきた福音伝播の精神でもある。 2. 現代教会の挑戦、新たな福音伝播の形 使徒の働き8章を通して確認した初代教会のダイナミズムと聖霊の御業は、今日の教会にも依然として有効である。問題は、時代がまったく異なる局面へ突入しているという点だ。教会が建った1世紀の地中海世界と比べ、現代の人類は技術、文化、経済、政治、社会のあらゆる側面で想像を絶する変化を経験してきた。コロナ禍を経て、多くの教会は従来の礼拝形態や集会方式を維持できなくなり、急速にオンライン礼拝や非対面の集いを試みざるを得なくなった。ある地域では集まれない期間が長引き、教会員が教会を離れたり、信仰を失うケースも少なくなかった。一方で、「対面礼拝」に固執しすぎて社会的批判を浴びた例もある。こうした激変する環境の中で、教会がどう福音伝播の使命を引き継いでいくのかが大きな課題となった。 張ダビデ牧師は、長年にわたり世界各国で宣教と牧会活動を重ねる中で、「教会は建物から出て、人々の実際の生活領域の中へ、そしてメディアの場へと、さらに深く入り込むべきだ」と主張している。かつては「美しい足」を持って遠い国へ直接行かなければ(ローマ10:15)福音を伝えられなかったが、現代では「メディア」がその足の役割を代替しうるからだ。インターネットやSNS、モバイル端末の発達によって、教会は人が直接来なくても福音を伝えられる強力な道具を手にした。大切なのは「どのようなメッセージを、どう伝えるか」であり、そのメッセージの核はいつでもイエス・キリストの十字架の福音と神の国という不変の真理でなければならない。 実際、張ダビデ牧師は「Moving Forward」というスローガンのように、教会が後退や停滞をせず、常に前進し続けるべきだと強調する。迫害が来れば迫害の中で、患難が来れば患難の中で、平安な時期が来れば平安の中で——どのような状況にあっても教会は決して福音伝播のエンジンを止めるべきではないというのだ。一見すると初代教会のように「散らされる教会」になると弱体化するかのように思われるが、むしろその散らされることこそ「ネットワーク化」された再配置として作用する可能性がある。現代の教会は、SNSやオンライン・プラットフォームを活用して散らされつつも緊密に連結され、ちょうどエルサレム教会がステパノの殉教後に各地域へ広がっていったのと似たかたちで福音を伝えることができるのである。 この「新しい教会の形」は、単に集会をオンラインに移行するだけを意味するのではない。教会運営、弟子訓練、伝道・宣教などのすべての側面で、デジタル環境を教会本来の使命と創造的に結合する必要があるということだ。かつて初代教会が会堂と神殿、そして家庭集会など多様な形を行き来して人々を教えたように、現代教会も礼拝堂、オンライン、家庭、地域コミュニティセンターなど、さまざまな空間を活用して福音を蒔かなければならない。その過程で献金、財政運用、人材育成、聖餐や洗礼といった聖礼典の進め方など、伝統的教会が長く慣れ親しんできた要素をどう再解釈し適用していくかは、非常に神学的かつ実践的な課題となる。 張ダビデ牧師は「教会の本質に対する明確な認識」を強調する。教会の本質、すなわち「キリストのからだであり、聖霊の宮であり、世の中で神の国を証しする共同体」であるという事実をしっかりとつかんでいれば、衣装のような外形的文化形式が変わることを恐れる必要はないというわけだ。彼はこれを次のように要約する。 張ダビデ牧師はこのような原則のもと、「デザイナーやITワーカーを重んじなさい」と強調する。福音伝播の「美しい足」が、いまやITインフラとデジタル・コンテンツになりうるからだ。教会がこの「新しい足」を有効に生かすためには、それをリードする人材が必要であり、そうした人材が実力を発揮してデジタル宣教を活性化させる必要がある。クリスチャンのデザイナー、映像編集者、IT専門家、オンラインマーケターなどが教会の中で自分の才能を奉仕や宣教に結びつければ、世界中どこへでも即座に福音を届けられる窓口を開くことができる。 あわせて、彼は「教会が一つのプラットフォームにならなければならない」とも主張する。初代教会は信徒たちが財産を共有し(使徒2:44–45)、使徒の教えを共に学び(使徒2:42)、互いに助け合い、交わりをもった。今日の教会も、こうした「つながり」と「ケア」の機能をデジタル環境で実装できるようになるべきだ。オンライン・プラットフォームを通じて、信徒たちが御言葉を学び、互いのニュースを共有し、地域社会の困窮者を助け合い、個別相談や祈りの要請をできるように支援する。こうして教会がプラットフォーム化されるなら、物理的空間の制約や距離という壁を乗り越え、はるかに多くの人々に福音を伝えられ、同時に信徒間の交わりを豊かにできる。 さらに、張ダビデ牧師は教会が「神がすべての民族に与えられた救いの歴史の流れの中にある」という「歴史神学的」視点を常に忘れてはならないと説く。これは使徒の働き1章8節に語られた「地の果てにまでわたしの証人となる」という言葉ともつながる。単に地域教会だけを成長させるのではなく、地上のすべての民族と国が福音を聞くことができるよう、教会は絶えず備え、派遣されなければならないというのである。 そのために必要とあれば、教会は各国に合った「現地化された形」で建てられるべきだ。食文化、衣服、言語、インフラ環境などはそれぞれ異なるが、どの地域教会でも福音を伝え共同体を維持するために、その現場状況に合う形で適応する必要がある。これは、初代教会がエルサレム、ユダヤ、サマリア、小アジア、ローマなど、互いに異なる文化圏に合わせて教会モデルを変えたことを想起させるし、パウロがローマ市民権者でありながら同時にユダヤ人のアイデンティティも活用しつつ、幅広く福音を伝えた例を思い起こさせる。 今日ではインターネットが、こうした「多様な文化圏」を一度につなげられる画期的な通路となっている。これによって宣教ははるかに迅速かつ広範に行われうる。たとえば、アフリカのある部族の村に宣教師が直接入っていく前に、オンラインのコンテンツや通訳付きの映像を通じて先に福音を紹介することができる。または、その地の小規模共同体がオンラインで訓練を受け、共に祈りや礼拝をささげることも可能だ。これを体系的に運営するためには、教会が「デジタル宣教センター」や「オンライン・ミッションスクール」のような組織を設け、教職者や宣教師を訓練しなければならない。張ダビデ牧師は、これを「新時代への道を備える教会」と呼び、「まもなく夜明けが来る」という確信のもと、教会が先んじて動くよう促している。 また彼は「終わりの日に福音が地の果てまで宣べ伝えられるプロセス」への積極的な参加の必要性を、絶えず提起する。初代教会以来行われてきた福音拡大がまだ完成していないこと、多様な障害と霊的戦いが残っていることを認めながらも、聖霊は教会を通じて働き続け、神の定めた時が来れば「すべての国の民に対して証しのために、まず福音が宣べ伝えられねばならない」(マルコ13:10)との御言葉のとおり、歴史的使命を担うことになるという見通しを示す。 結局、初代教会が有していた霊的DNA――迫害や患難を恐れず、むしろそれを福音拡大の足がかりとした不屈の信仰、文化や地域の境界を超えて喜んで散らされていった宣教精神、聖霊の導きを絶対的に信頼した従順――が、現代教会にも必要だという結論に至る。張ダビデ牧師は、このDNAを現代的に再解釈し、メディアやIT技術、オンライン・ネットワーク、さらには時代的文化トレンドを積極的に活用して全世界へ出ていく教会の形成を呼びかける。 肝心なのは「正しい福音」と「真の教会論」を堅持することである。いくら最新の技術やプラットフォームを用いても、福音そのものが曖昧になったり真理が歪められたりすれば、教会のいのちは失われる。逆に、福音の核心がしっかり立ち、教会の本質を守りながら、時代の変化に柔軟かつ巧みに対応し、多様な宣教活動を試みるならば、初代教会の「散らされながらも前進する教会」が現代にも力強く再現されうるのだ。 張ダビデ牧師は、教会が「刈り取りの時」を迎えているとよく口にする。多くの人々が精神的・霊的な渇きを覚え、人生の意味を求めてさまよう時代であるからこそ、教会が正確で温かい福音を提示すれば、多くの魂が帰ってくるという確信を持っている。使徒の働き8章8節以下で、ピリポがサマリアで多くの人を癒し福音を伝えたとき、「その町には大きな喜びがあった」と記されているように、このように喜びのない世に喜びがもたらされ、絶望にあるところに希望がもたらされることこそ福音宣教の核心であり結実である。 一方、教会がこのように「散らされる教会」かつ「ネットワーク教会」へと変貌していく過程では、内部的にさまざまな挑戦がついてまわる。既存の制度的教会内部でこうした変化を好意的に見ない向きもあるだろうし、物理的礼拝堂と共同体性を重視する伝統的信徒との衝突が起こるかもしれない。オンラインで聖餐や洗礼を行う問題、職分の任命や牧会的な戒規をどのように行うかなど、神学的議論もまだ十分に整理されているわけではない。それでも、張ダビデ牧師は「福音のため、そして神の国のためにこれらすべての議論を経ながらも、最終的には前進すべきだ」と強調する。 彼はこの状況を「エルサレム教会とサマリア、さらにはアンティオキア教会が直面した試行錯誤の現代版」と呼ぶ。ユダヤ人中心の初代教会が異邦人へ福音を伝えるなかで直面した文化的・神学的・実践的葛藤(使徒10章、ガラテヤ2章など)を思えば、教会の歴史はいつでも自己刷新と拡大を通して成長してきた。教会はキリストが再臨されるその時まで「完成された姿」で留まることはなく、不断に自らを改革し、福音の地平を広げていかなければならないのである。 結論として、使徒の働き8章1–5節に示される初代教会の「散らされつつ福音が拡大する」姿は、現代教会が進むべき道を照らす力強い灯火である。そしてその道にはいつも聖霊の御力が伴い、神は神の歴史を導いておられる。教会が聖霊に従って集まるときには集まり、散らされるときには散らされる。これを現代に適用するとき、「見えない(invisible)教会」と「見える(visible)教会」が同時に作動する時代的教会論が可能となる。また、個人の救いだけでなく歴史の救いを夢見る大きな視野の中で、この世の流れを聖書的視点から捉え、神の摂理に合わせてあらゆる国々へと進む「メディア時代の宣教」が大きく花開きうる。 張ダビデ牧師の提示する方向性は、要するに「状況に縛られず、むしろ状況を逆手にとって福音拡大を成し遂げよ」というメッセージに集約される。これは初代教会が迫害を「前進のきっかけ」としたように、現代教会も疫病や社会的制約、文化的偏見や不信の中であろうとも、なお「Moving Forward」し続けなければならないという意味である。聖霊は今も生きておられ、教会を通じて働かれ、失われた魂を捜し求める神なる御父の御心をすべての民族と列邦に示してくださる。教会はその招きに応え——散らされようとも集まろうとも、オンラインであろうとオフラインであろうと——絶えず福音を語り分かち合うべきなのだ。 … Read more

高価な恵み – 張ダビデ牧師

1.高価な恵みと罪との戦い 高価な恵みと安価な恵みの問題は、キリスト教信仰において非常に重要であり、多くの信者が悩み、あるいはつまずきやすい部分でもある。張ダビデ牧師はこの問題を多面的に強調し、「高価な恵み」が決して「安価な恵み」に成り下がってはならないと強く訴える。高価な恵みとは、キリストが十字架で流された尊い血潮によって私たちに与えられた、文字どおり尊く尊厳ある恵みである。本来、罪のゆえに死の刑罰を受けるしかなかった私たちが、神の御子の犠牲によってただ恵みにより義とされた。このように賜った恵みを、何の代価もないかのように、あるいは日常生活の中で「あって当たり前」と当然視してしまうなら、それは「安価な恵み」になってしまう。つまり、主が流された血潮の尊さを忘れ、その恵みを“ただで得られた当然の結果”程度にみなしてしまうことは、信仰の道を深刻にゆがめ、破壊する罪となるのだ。 張ダビデ牧師は、高価な恵みが安価な恵みへと変貌するときの厚かましさを「致命的な罪」と呼ぶ。主の十字架の苦難がいかに大きな犠牲であったかを理解せず、教会に所属しているという事実や洗礼を受けたという事実だけで安易に救いの確信を語り、イエス・キリストの死と復活を真剣に黙想しなくなってしまえば、やがて私たちの信仰の本質は崩れてしまうだろう。ゲッセマネの園でイエスが汗が血のしずくになるほど祈られた切なる苦悶を私たちが忘れ、十字架上の言い表しがたい肉体的・霊的苦痛を単なる“頭の中の知識”として扱い流してしまうなら、私たちはすぐに安価な恵みに陥る。「高価な恵み」とは、私たちの罪を代赎された十字架の出来事がもたらした、まさに天からの賜物であり、私たちの人生を根本から変える恵みである。キリストが与えてくださったこの賜物は、信者の存在全体を変革し、魂の奥深くから罪を憎み聖なるものを慕い求めるようにさせる。 しかし、実際には「救われた信者」にさらに追い打ちをかける課題がある。それは「救われてもなおうごめく罪の性質(罪性)」の問題だ。張ダビデ牧師はパウロのローマの信徒への手紙6章23節「罪の支払う報酬は死である」を思い起こさせながら、私たちの内にいまだに残る罪の力を決して軽く見てはならないと強調する。イエス・キリストの贖い(救赎)によって法的宣言(義認)を受けていても、この地上を生きるあいだ、私たちの中には依然として悪習や罪に染まった習慣が根強く残っている。そのような罪の痕跡や本性は、私たちの内に絶えず罪を犯すようそそのかし、神から遠ざかろうとささやき続ける。 救われた存在の内に共存する「二つの私」——「救われた私」と「古い習慣にとらわれた私」。この二者は互いに対立し、葛藤を引き起こす。張ダビデ牧師は、この構造を「私」と「私でない私」が共存する、と表現する。両者の葛藤は信仰生活の中で頻繁に起こり、とりわけ自分の人格が以前より向上したかをチェックしようとするとき、「なぜいまだに否定的な感情が湧き上がるのか、なぜ罪の習慣から抜け出せないのか」という自責や混乱に陥る。ここで重要なのは、パウロがローマ書7章で「私は何と惨めな人間でしょう」と告白したように、その嘆きの真意を理解することだ。パウロはすでに救われた神の子でありながら、なお残る罪の本性と格闘する。このような格闘こそ、聖化の過程で必然的に直面する霊的戦いなのである。 結局、「高価な恵み」を受けた者に課せられるもう一つの核心課題は、「救いと聖化のはざまで起こる葛藤を正しく理解し、戦うこと」である。高価な恵みを安価な恵みとしないためには、まず「十字架が自分にとってどういう意味を持つのか?」を深く把握する必要がある。そして「なぜ私は依然として罪を憎む一方で、同時に罪のささやきに耳を傾けようとしてしまうのか?」を自覚すべきである。そうすると、「すでに与えられた救い」と「まだ成就されつつある救い」との間で混乱することが減っていく。救いには最終的完成へと向かうプロセスが確かに存在し、私たちはその道のりで絶えず罪を捨て去る実践をしなければならない。そのとき、パウロの告白のように「私は何と惨めな人間でしょう。この死の体からだれが私を救い出してくれるのでしょう」(ローマ7章)と嘆く一方で、同時にキリスト・イエスにある勝利の確信を得るという二重の瞬間を味わうのだ。 張ダビデ牧師は、この「高価な恵みと罪の習慣との闘争」というテーマについて、救われた後も続く罪との戦いを軽視してはならないと繰り返し訴える。信者という理由だけで自覚が薄れ、「私はすでに救われた」と叫びながら罪の働きを放置するなら、それは高価な恵みを再び安価なものに貶める道である。一方、罪をあまりにも深刻に意識しすぎて「いつも私は罪人なのだからどうしよう」と自己嫌悪に陥ってばかりいるなら、それはイエス・キリストの血潮がもたらす完全な救いの力を疑う結果になる。ゆえに、この二つの極端を避けつつ、常に「高価な恵み」にふさわしく生きようとする真摯な思いが必要なのだ。 ローマ書7章25節に続く8章1節、すなわち「こういうわけで、この私は心では神の律法に仕えながらも、肉では罪の律法に仕えているのです。したがって今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」という一節は、キリスト者が日々黙想すべき要の箇所である。ローマ書7章の嘆きと8章の勝利の宣言が、すぐさま連続している点に注目せよ。7章の嘆きがあるにもかかわらず、8章1節が「こういうわけで(したがって)」と始まることは、現在進行形で罪と格闘している信者であっても、決して救いの確信を失うなという意味に解釈される。神の愛は罪人である私たちに対して永遠に開かれており、救われた信者は決して完全に罪に定められることがない。これこそが、高価な恵みをつかむ要となる宣言である。 このように、「高価な恵み」を受けた者が罪と戦う理由と必要性は明白である。張ダビデ牧師は私たちが信仰の善き戦いをやめてはならないと、エフェソの信徒への手紙6章にある「霊的な全身の武具」を引き合いに出して重ねて強調する。救われた信者としてのアイデンティティをしっかりと握り、罪に立ち向かわねばならない。ある瞬間には、罪がカインのようにアベルを殺したように私たちを押さえつけ、倒すことがあるかもしれない。だがそれでも、神はまたしても私たちに皮の衣を着せるように、キリストの義によって私たちを覆ってくださる。このような繰り返しと恵みの体験——すなわち、倒れながらも回復し、再び歩み始める信仰のプロセスこそ、私たちが絶えず「高価な恵み」をつかみ続けて生きている証拠なのである。 最終的に、この第一小テーマにおいて張ダビデ牧師が強調している中心点は、「十字架は断じて軽いものではなく、私たちに与えられた救いもまた極度の痛みと犠牲の上に築かれた尊いものである」ということである。この恵みを軽々しく扱ってはならず、また過度の罪責感によって救いの喜びを失ってもならない。「高価な恵み」であるがゆえに、私たちは当然のように罪と格闘し、その中で聖霊の力を借りて少しずつ主に似た者へと変えられていく歩みをするのだ。そしてその歩みには絶え間ない罪との戦いが含まれている。しかし、キリストにある者はすでに罪に定められず、ゆえに日々「救いの確実さ」を失わず、同時に「罪との聖なる闘い」を続けて歩むことになるのである。 2.義認と聖化、そして「キリスト・イエスにあること」の意味 張ダビデ牧師は、パウロが強調した義認と聖化の関係を非常に重視する。パウロがローマ書5章から8章にかけて展開している議論は、「すでに」と「まだ」の緊張関係の中で、信者がいかに救いの確信を抱きながらも罪と戦うべきかを示している。義認(justification)とは、イエス・キリストの十字架の贖いを信じることによって、私たちが法廷的に無罪宣言を受けることである。この義認は、まったくもって神の一方的な愛と恵みの結果であって、人間の行いや功績が入り込む余地はない。つまり、私たちが自分で律法を完全に守り抜くことなどできなかった救いを、神が独り子を通して無償で与えてくださった。これこそが「高価な恵み」の核心なのだ。 しかし、義認という状態に入った後も、私たちの実際の生活や人格——すなわち「性質や行動」は依然として完全ではない。聖化(sanctification)は、義認を受けた者が段階的に聖なる姿へと近づいていく過程であり、人生全体にわたって罪を捨て去り、イエス・キリストに似た者となる実践と闘争が含まれる。張ダビデ牧師は、この聖化のプロセスを通る中でしばしば「いったい何が変わったのか。以前と今で自分の実存はあまり変わっていないのでは?」と落胆したり、あるいは「もう罪と戦わなくてもいい。すべて終わった」と勘違いして高慢になったりする二つの極端に陥りやすいと指摘する。 パウロが「私は日々死んでいる」(コリントの信徒への手紙一15章31節)と告白したように、イエスを信じ救われたとしても、私たちは瞬間瞬間で罪に用心し、戦わなければならない。しかし、私たちはすでにイエス・キリストにあって完全な救いの確信を得たのだから、その戦いは決して絶望的なものではない。二重の矛盾のようにも見えるが、実は義認と聖化は二重構造ではなく、コインの裏表のように表裏一体である。義認された者が聖化を成し遂げていくことは、自然な信仰の「成長の軌道」であり、神はこの道を歩む私たちに聖霊の内住と助けを与えてくださった。ゆえに二兎、すなわち「救いの確信(義認)と罪との聖なる闘い(聖化)」を同時につかむことは、決して非現実的な理想論ではない。 張ダビデ牧師はここで、ローマ書7章後半と8章前半を一体として読むよう勧める。ローマ書7章25節「こういうわけで、この私は心では神の律法に仕えながらも、肉では罪の律法に仕えているのです」の直後に続く8章1節「したがって今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」が切り離されて理解されるべきではない。むしろ両方をつなげ、単一のメッセージとして統合的に捉えねばならない。すなわち、「いまだ罪の習慣に引かれる葛藤はあっても、キリスト・イエスにある者は決して罪に定められない」。これがパウロの語る福音の核心なのである。 ここで登場する有名な表現が「キリスト・イエスにある(in Christ Jesus)」である。「キリストにある」とは、単にイエスを尊敬したり、イエスの教えを倫理的に模倣したりするレベルのことではない。むしろヨハネによる福音書15章でイエスが「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝」と語られたように、神秘的な霊的合一(union)を指す。枝がぶどうの木から離れては命を得られないように、信者はキリスト・イエスのうちにとどまることで日々命の供給を受けて生きる。「わたしのうちにとどまりなさい。そうすれば、わたしもあなたがたのうちにとどまる」というイエスの言葉は、単なる比喩ではなく、現実的な信仰生活の構造そのものを表す。もし私たちが主のうちから霊的命を受け取れなくなれば、再び罪の奴隷へと転落しやすくなるだろう。 張ダビデ牧師は、この神秘的な「キリストにある」という概念を体得するには、「愛」という戒めの成就が必要なのだと語る。イエス自身が「わたしが父の愛のうちにいるように、あなたがたもわたしの愛のうちにとどまりなさい」と仰せられ、「わたしの戒めを守るなら、わたしの愛のうちにとどまる」とも言われた。結局のところ、神の愛と私たちの従順が出会うとき、私たちは真に「キリストにとどまる」体験をすることになる。律法による罪定めや罰の論理ではなく、罪人であるにもかかわらず最後まで愛してくださる神のご性質に直接向き合い、受け入れるとき、その愛が私たちの霊的呼吸となる。このように愛によって結ばれた状態を、パウロは「キリストにある(In Christ)」という一言で凝縮している。 「キリスト・イエスにある者が決して罪に定められることがない」という言葉を、一部の律法主義者は誤解し、「それなら好き勝手に生きても大丈夫なのか」と貶めることがある。しかし、パウロの意図はまったく逆である。すでに罪人であったのに赦され自由を得た者が、どうして再び罪の奴隷へと戻れるだろうか、ということなのだ。もし再び罪と妥協する生き方に戻るのであれば、それは前の小テーマで述べた「高価な恵みを安価なものにする罪悪」そのものである。したがって、「罪に定められることがない」という事実を傲慢の根拠ではなく、むしろ罪から解放された新たな人生へと進む原動力とせよ、というのがローマ書8章の文脈である。「霊の法」によって「罪と死の法から解放」されたという宣言(ローマ8章2節)は、もはや罪が王として私たちを支配することはないという意味だ。同時に、これからは聖霊に導かれながら「肉の行いを日々殺す」戦いを継続すべきことを強調している。 このように、義認と聖化、そして「キリスト・イエスにある」ことは、相互に密接に結びついている。救いを得た信者のアイデンティティは、「私はイエスにあり、イエスの血潮によって義とされ、だから罪に対して日ごとに死にながら、より主に似せられていく」という真理によって定義されるのだ。張ダビデ牧師はこの過程を解説するにあたり、私たちは以前と「形の上では似たような問題」を経験しているようでも「本質は変わっている」ことを認識すべきだと付け加える。これを「同形異質」という表現に例えて、救いの前と後とで見た目は同じように見える苦難や罪の誘惑に直面しても、その質(本質)が根本的に異なると強調する。今やそれは罪による苦難ではなく、義なる者の苦難である。キリストとともに味わう苦難、あるいは愛を実践するために受ける痛みへと変わるのだ。 実際、イエスは弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい」と言われ、パウロも「私は日々死んでいる」と述べた。これは毎日の生活の中で徹底的に自己否定とキリスト中心の生き方を実践せよという意味である。しかし、この戦いがまったく喜びのない機械的で苦しいだけのものかというと、そうではない。なぜなら、私たちはすでに「キリストにあって自由を得た」という確信を持っているからである。信者は罪と戦いつつも、同時に救いの大いなる喜びと希望を所有するのだ。 「したがって今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8章1節)は、これらすべてのプロセスを集約的に示す宣言である。すなわち、7章末尾の嘆きがあるにもかかわらず、8章1節でパウロは「したがって」と告げる。罪にまつわる実存的な葛藤は依然として残るが、その葛藤が私たちの救いを奪い去ることは決してできないということだ。救いは全的に神の愛に由来し、その愛はキリストの十字架によって最も明確に現され、さらに復活と聖霊の内住によって確証されている。パウロは結論として「わたしたちの主イエス・キリストによって、神に感謝いたします」(ローマ7章25節)と告白する。そうした霊的感嘆の中で、「キリスト・イエスにある者は決して罪に定められない」と確信をもって宣言するのが、8章1節の「したがって」に込められた深い意味なのである。 結局、張ダビデ牧師が強調しているのは、義認がなければ聖化は不可能であり、聖化のない義認もまた真の意味を失うという点だ。義認によってすでに罪の赦しを得た私たちは、日々聖霊の助けによって罪の習慣を排除する戦いを続けねばならない。そしてその全プロセスを牽引する中心的エネルギーは、ほかならぬ「キリスト・イエスにあることによる愛の結合」である。主との親密な霊的交わり、御言葉を通して内住される聖霊の声、祈りを通じて味わう神の臨在こそ、私たちが罪と戦う根拠となる。 ローマ8章3~4節、「肉によって弱くなっているため、律法にはできなかったことを神はしてくださった。すなわち御子を罪ある肉の形でお遣わしになり、その肉において罪を処罰された……わたしたちが律法の要求を満たして歩むためである」という御言葉は、イエス・キリストの受肉(成肉)と十字架の出来事が、具体的にいかに律法のあらゆる要求を完成させたのかを示している。私たちには到底守れなかった律法をキリストが完全に満たし、キリストを信じる者にはその義が転嫁される。同時に、その義を転嫁された信者は、さらにキリストの生き方を見倣すべきなのだ。これこそが聖化への道である。 さらに張ダビデ牧師は、信者が究極的に目指す到達点を「栄化(glorification)」と呼ぶ。それは最終的に私たちが復活して主とともに栄光を受け継ぐ状態を意味する。しかし、栄化へ至る過程は天から降ってくる“魔法のような瞬間”によって成し遂げられるのではなく、この地上における聖化の戦いを通して段階的に近づいていくものだ。ちょうどノアが箱舟を建造し、大洪水を経験して、新しい世界で新たな始まりを迎えたように、救われた私たちは義認によって「箱舟の状態」に入れられた。そして、聖化の過程を通して罪の汚れを洗い落とし、神が創造された本来の姿に回復されていく。その道の結末が「栄化」であり、結局張ダビデ牧師が示す教訓は「私たちがすでに与えられている救いの本質を忘れず、まだ完成していない霊的な戦いに真剣に取り組もう」という呼びかけでもある。 「イエスにある」ということはまた、信者一人ひとりが個別にイエスに従うだけでなく、キリストの体(教会)に属しているという意味も含む。私たちにはそれぞれ異なる賜物や職務が与えられているが、究極的には皆、頭なるイエス・キリストの体の肢(し)となっている。パウロがコリントの信徒への手紙一12章で語るように、私たちはそれぞれ異なる働きを担いながらも、一つの体を形成すべきなのだ。これは聖化の過程でも同様である。個人的には罪と戦いながらも、教会共同体の中で互いを励まし合い、とりなし合い、愛を実践することで、聖化がより豊かに進められる。張ダビデ牧師は「霊的戦いは決して孤立した自我の力では全うしがたい。主の体である教会の中で、互いの弱さを補い合い、聖霊の賜物を分かち合いながら、ともに成長する必要がある」と力説する。 結局、この第二小テーマから得られる結論は、義認と聖化は決して分離できないということ、そして「キリスト・イエスにある」という意味は、罪人である私たちに対する神の愛が十字架によって完全に顕され、それを受けて私たちがその愛のうちにとどまるときに真の自由と力を得る、ということである。救われた者の内的な矛盾、すなわち絶え間ない罪の誘惑との格闘は、「すでに無償で義とされた者」という救いの確信を揺るがすことはできないと悟るとき、正しいバランスを見いだせる。信者は日々罪を殺しつつも、自分自身を軽々しく罪に定めはしない。自分をみだりに罪に定める瞬間、十字架が成し遂げた救いの力を軽んじることになり、高価な恵みを十分に享受できなくなってしまうのだ。 反対に「すでに救われたのだから」という理由で聖化の戦いを軽視すれば、それもまた福音の真髄を損なう。義認と聖化のはざまで感じる葛藤は、「怠惰」か「自己嫌悪」という二つの落とし穴のあいだで常に起こる。ここで私たちがしっかりとつかむべきなのが「キリスト・イエスにある」ということだ。主にとどまるとき、私たちは絶えずキリストの赦しと愛を体験し、そのお方のご性質を学んでいく。ぶどうの木につながる枝のように、命の養分が絶えず供給されるので、罪と戦う力が与えられ、救いの喜びも失われることがない。 張ダビデ牧師は、この「キリストにある自由と闘い」をバランスよく見つめるように勧めている。これこそ、パウロがローマ書8章後半で到達する頂点、すなわち「だれが私たちをキリストの愛から引き離すことができるでしょうか」(ローマ8章35節)という感動の叫びにつながる。死も生も天使も支配する者も、今あるものも後に来るものも、いかなる被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを切り離すことはできない——というこの荘厳な宣言は、「キリストにある」信者が罪と死、そしてあらゆる罪定めから命を奪われることは決してないという真理を最終的に証明するものである。 私たちがいまなすべきことは、キリストが与えてくださった高価な恵みを軽く扱わず、すでに救われているにもかかわらずいまだに内側で蠢こうとする罪の性質と戦いつつ、義認の恵みのうちで聖化へと絶えず前進し続けることである。要約すると、「高価な恵みは私たちを罪との戦いへと駆り立てる。しかし、その戦いはすでに勝利と確信が保証されている戦いである」ということだ。そして、その出発点から過程、結論に至るまで最も大切なのは、「キリスト・イエスにある(in Christ Jesus)」という事実を忘れないことである。 張ダビデ牧師が繰り返し強調するように、「キリストのうちにある」ことこそが私たち信仰の実存的土台であり、この土台をしっかりつかむとき、たとえ罪の誘惑がいつ襲ってきても、「すでに救われた者」という明確なアイデンティティのもとで大胆に立ち向かうことができる。そのとき、聖霊が私たちを助け、教会共同体が共に祈り、みことばを通して神が私たちの歩む道を照らしてくださる。こうして私たちは聖化の道を最後まで走り抜く。いずれ主の御前に立ち、「栄化」に至るその日、すべてがすでに高価な恵みをくださった十字架と、キリスト・イエスのうちにとどまりつつ日ごとに罪を脱ぎ捨てようと努めた歩みによって成し遂げられると信じる。 まとめると、この本文が伝えようとしている核心のメッセージは大きく二つに要約される。第一に、十字架の犠牲によって与えられた高価な恵みを軽んじてはならないということ。第二に、義認の恵みのうちで聖霊の助けによって罪を治め、聖化へと進みなさいということである。そして、このすべての過程において「キリスト・イエスにある」存在であるという信仰上の事実を、常に心に刻むべきだということだ。どんな罪も、どのような霊的戦いの困難も、神の愛から私たちを引き離すことはできない。「すでに」と「まだ」のあいだで葛藤し揺れるときでさえ、私たちは罪に定められる存在ではないという恵みを手放すことなく、最後まで主に従っていく者となれ——これが張ダビデ牧師の語るメッセージと言えよう。 www.davidjang.org

教会を建て上げるパウロの知恵 – 張ダビデ牧師

Ⅰ. キリストの柔和と寛容をもって敵対者に臨むパウロの姿勢 張ダビデ牧師はコリント人への手紙第二(以下、Ⅱコリント)10章全体を取り上げながら、パウロがコリント教会の中でどのような態度を示したのかを非常に重視して論じている。特に、10章1節から現れるパウロの語調が、これまでのⅡコリントの前半部分と異なっている点に注目し、その背景としてパウロがはっきりとした強い調子の手紙を書いた理由を考察する。ここで私たちは、いわゆる「涙の手紙」と呼ばれる、ⅠコリントとⅡコリントの間に送られたパウロの叱責の手紙を思い起こすことができる。この「涙の手紙」に滲む厳粛な口調、そしてⅡコリント10章で改めて示される断固たる姿勢は、教会の中に入り込んだ偽教師たちをはっきりと指摘し、混乱を収拾するために示された使徒としての権威の発現と見ることができる。 10章1節の「対面しているときはへりくだり、離れているときには大胆であると言われるこのパウロ、私は今、キリストの柔和と寛容によって自らあなたがたに勧める」という言葉について、張ダビデ牧師は当時のパウロの状況を具体的に分析する。パウロは自ら開拓し教えてきたコリント教会からさえ非難を受けていた。一部の人々は、パウロがほかの町や地域にいるときは非常に強い口調で手紙を書くのに、実際に会ってみると謙遜で、大して力がなさそうに見えるとあざけっていた。彼らは当時のギリシア文化圏で重んじられていた「修辞学的技巧」や「雄弁」などを基準に、外見や話しぶり、表面的な資質で人を評価したのである。そこでパウロのことを「文章はうまいが、実際に会うと話し方が下手で、体つきも貧弱で取るに足りない人物だ」と誹謗したわけだ。 張ダビデ牧師は、そうした敵対者に対するパウロの姿勢を高く評価する。Ⅱコリント10章1節に示される「柔和(πραΰτης, praus)」と「寛容(ἐπιεικής, epieikes)」という二つの言葉は、イエス・キリストの心を表す非常に重要な徳目だというのである。実際、イエスご自身がマタイの福音書11章29節で「わたしは心が柔和でへりくだっているから、わたしのくびきを負ってわたしから学びなさい」と語られたように、パウロもまたキリストの柔和と寛容を実践しながら教会を治めようとしていた。ここで「柔和」は謙遜や穏やかさ、優しさを含み、「寛容」は「ゆとりある慎重な態度」を指す。つまり教会内に不和をもたらし、パウロの権威を失墜させようとする偽教師たちがいても、パウロは怒りを爆発させるのではなく、あくまで「キリストの柔和と寛容」をもって彼らに接したのである。これは単なる弱々しい態度などではなく、内に強さを秘めた「外柔内剛」の姿勢であると、張ダビデ牧師は説明する。 しかしパウロは、ただ屈辱を黙って受け入れていたわけではなかった。Ⅱコリント10章2~3節に進むと、彼は「大胆に振る舞う用意がある」ことを明確に表明している。当時の教会で彼を誹謗していた者たちは、「パウロとその仲間たちは肉に従って歩んでいる」と、すなわち世俗的な手段で動き、自分の腹を肥やす者たちにすぎない、と侮辱していた。その背景には、8章と9章にわたって取り上げられている献金の話や、ローマ15章27節などに見られるパウロの財政に関する言及があった。パウロは各地の教会から集めた献金をエルサレム教会の困窮する聖徒たちを助けるために用いると主張していたが、敵対者たちは「実際には、自分の私利私欲のために献金を募っているのだ」と非難したのである。 そのような状況の中でも、パウロが柔和と寛容を保ちつつも、敵対者がこれ以上教会を乱し信徒たちを惑わさないように断固たる処置を取ろうとした点を、張ダビデ牧師は強調する。パウロは自分が神と人の前で誠実に生きてきたという確信があるため、そうした非難を恐れなかった。使徒の働き20章33~35節やⅠコリント4章12節などを通じて、彼は自らの生活を語っている。自分の手で働いて生活費を得ており、迫害を受ければ耐え、罵られれば祝福し、だれの金や銀、衣服も欲しがらなかったと胸を張って言えるのだ。こうした生き方があったからこそ、「肉の思いに従って生きてはいなかった」というパウロの主張は説得力を帯びる。張ダビデ牧師は、今日の教会指導者や働き人たちにとっても、このパウロの姿勢は模範となると語る。たとえ策略や誤解が生じても、自分が主の前で正しいと確信できるならば揺るがされることなく、福音のために善い戦いをしつつも、柔和と寛容の姿勢を失わないことが大切だというのである。 特にⅡコリント10章3節以降でパウロは、自分の戦いの目的が「肉に属するもの」ではないことを宣言する。「たとい肉体をもって歩んでいても、わたしたちは肉に従って戦うのではない」と言い、自分が行う戦いはすべて神の教会、キリストの体を建て上げるためのものだと明らかにする。張ダビデ牧師は、ここでパウロの「戦い」が単なる人間的な争いではなく、福音を守り、教会が偽りの教えに染まらないように霊的な戦いをしている姿であることに注目する。結局、パウロの柔和と寛容は、真理を守ろうとする決心とともに行使されるもので、単なる弱腰ではなく、福音のうちにある断固たる姿勢と結びついたバランスの取れた態度であると、張ダビデ牧師は指摘する。このようなパウロの姿はⅡコリント10章において鮮明に示され、それゆえ現代の教会や指導者にとっても重要な手本となり得る、と繰り返し強調される。10章冒頭に言及される柔和と寛容、そしてそれと共に現れる大胆さと使徒的権威は、すぐにパウロの善い戦いと福音の力、さらにキリストにあって真実な誇りと称賛を受ける生き方の指針へとつながっている。 Ⅱ. 肉に従わない善い戦いと福音の力 パウロはⅡコリント10章4~6節で、自分がどのような方法と動機で戦っているのかを明確に示す。「わたしたちの戦いの武器は肉に属するものではなく、神の御前で要塞をも破るほどに強い力をもつものである」と語り、「あらゆる理屈を打ち破り、神の知識に逆らって高くそびえるものをすべて打ち砕く」福音の力を宣言する。張ダビデ牧師は、このときパウロが言う「戦い」とは、単に誰かをねじ伏せたり、個人的な感情を爆発させる行為ではなく、「教会を破壊する偽りの教え、傲慢、利己心、世俗的な基準、人間的な誇り」などを徹底的に拒絶し、キリストの真理によってそれらを打ち崩す霊的戦いであることを強調する。特にこの戦いは、人身攻撃や肉体的力を使うのではなく、「神を知ることに逆らって高ぶるもの」を打ち砕く真理の戦いである点が核心である。 パウロは福音がいかに強力であるかを示しつつ、「あらゆる思いを捕らえてキリストに服従させる」と述べる(Ⅱコリント10:5)。これは、福音が人間の心に巣くうあらゆる悪や傲慢な考えを粉々に打ち砕き、それらの思いを最終的にキリストの御前にひざまずかせるという意味である。張ダビデ牧師はこの箇所を解説しつつ、真の福音の前では人々のもつ誤った理論や高ぶろうとする虚栄や偽りの思考が根本的に崩れざるを得ないことを強調する。パウロはすでにガラテヤ書やローマ書、ピリピ書などで、福音が罪と死の権威を打ち破り、人々をイエス・キリストの恵みへと導く力をもつことを幾度も宣言してきた。そしてⅡコリント10章においても、教会を混乱させるあらゆる誤った理屈や誹謗も、この「福音の武器」をもってすれば十分に崩すことができると明言しているのである。 しかし、この強力さの背景には先述したように柔和と寛容が同時に置かれている、と張ダビデ牧師は言う。福音のもつ力は、敵対者を一刀両断に切り捨てたり、怒りで踏みつぶしたりするためのものではなく、最終的には神の教会を完全に建て上げるために用いられるものなのだ。実際、パウロは10章6節で「あなたがたの従順が十分に成ったときには、従順しない者すべてを罰する用意ができている」と述べ、誤りに対して厳正に処分する意志を示す。しかしその処罰の目的も、相手を滅ぼしたり教会を分裂させたりするためではなく、教会と信徒を偽りから守り、完全に建てるための、すなわち前向きな動機に根ざしたものである。 パウロは「あなたがたは外見だけを見るのか」(Ⅱコリント10:7)と指摘したように、当時のコリントの信徒たちは修辞学や雄弁、外見など世俗的な判断基準にあまりにもとらわれていた。彼らはパウロが直接会うときには話が下手で自信なさそうに見えるとあざけった。しかしパウロは「もしある人が自分はキリストに属する者だと思っているならば、その人は自分がキリストに属しているのと同じようにわたしたちもそうであることを、自分の心の中で改めて考えなさい」(10:7)と言い、「いったい誰が真にキリストに属する者なのか?」を判断する基準が、外面的な条件ではないことを明言する。神がご覧になるのは、人がキリストの御霊にとらえられているか、福音の動機で行動しているか、主のみこころのために全力を尽くしているかどうか、そこなのである。 張ダビデ牧師は、このパウロの言葉を通して、現代の教会が陥りやすい誤りを指摘する。すなわち、教会の成長や外面的な能力、あるいは華麗な話術やリーダーシップスタイルなどで指導者や共同体の霊的状態を判断しようとする傾向である。パウロはそうした世俗的評価によって押しつぶされ、非難を浴びる立場にあったが、福音の強さを握って一歩も退かなかった。そしてこのすべての戦いを通じて、最終的には教会を建て上げるという善い目的を実現していったのである。10章8節で彼が「主が与えてくださった権威は、あなたがたを破壊するためではなく、建て上げるためのものだ」と語る部分がそのことをよく示している。パウロにとって「権威」とは、人を踏みにじったり支配するための道具ではなく、教会の信徒を保護し、指導し、養うための道具だったのである。ゆえに、福音の真理を守るためであれば誰とでも戦うが、その戦いは愛と柔和に基づく善い戦いであるべきだという点が強調される。 10章9~11節に及ぶと、「彼らは言う、『パウロの手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しく、言葉もつまらない』と」といった外部からの誹謗に直面しているパウロの率直な言葉が続く。だがパウロは、手紙であろうと直接会うときであろうと、同じ働きをしているのだと断言する。手紙においても実際の場においても同じ人間であり、コリント教会を建て上げる責任を与えられた使徒であることを忘れないのだ。張ダビデ牧師はここでも、指導者が福音の原理に従って一貫性をもって教会を世話し教える姿勢を保つならば、たとえ非難や誤解があっても揺るがされることなく教会を建て上げ続けることができると語る。 一方で10章12節では、「わたしたちは、ある自分を誇っている者と並ぶことや、彼らと自分を比べるようなことをあえてしない」と述べ、エルサレムから来た偽教師たちが自分自身を高く評価し、外的条件で人々を揺さぶろうとする態度を暴露する。パウロは、彼らが「自分の尺度で自分を量り、自分同士を比べ合っている」こと自体を知恵がないと断じる。張ダビデ牧師は、この箇所において教会内で起こりうるさまざまな争い、特に指導者同士の競争意識や外的な評価基準に基づく対立が、「誇る者は主を誇れ」(10:17)という言葉と正面から衝突する態度だと指摘する。キリストを信じる者は、自分自身を誇るのではなく、神がどのようなお方であり、その方が私たちに与えてくださった権威と恵みがいかに驚くべきものであるかを誇るべきである。エレミヤ書9章24節も「誇る者はこれを誇れ。すなわちわたしを知ることと…」と言っており、「自分の外見や学識、話術など」を誇れとは言わない。パウロがローマ15章20節で「ほかの人が築いた土台の上に建てないように努めてきた」と述べているように、自分の顕示欲のためではなく教会を建て上げる働きであるならば、誰であっても恐れずどこへでも進んでいくこと、これこそが真の宣教的態度であると張ダビデ牧師は改めて思い起こさせる。 Ⅱコリント10章全体を張ダビデ牧師が読み解く要点は、あらゆる争いと葛藤の中でパウロが「キリストの柔和と寛容」を失わず、それと同時に教会を破壊する勢力には明確に対峙するという姿を示したことにある。その戦いは肉欲や世俗的打算によるものではなく、神が教会を建て、拡大するために与えた権威を善用する戦いであった。そしてその戦いの結末は、「偽りと高慢の城壁を打ち壊しキリストに服従させる」というものであり、その過程で労を惜しまなかった者たちには「主からほめられる人」という栄誉が与えられる。そのように、張ダビデ牧師は現代の教会と信徒たちにも、教会内外の争いや誤解に直面するとき、パウロに倣って柔和と寛容を保ちながら、真理のためには善い戦いをいとわない成熟した姿が求められると力説する。柔和と寛容、そして福音の絶対的真理の前での強い対決は決して矛盾するものではなく、むしろ真の成熟に至る道だというのだ。 Ⅲ. 主のうちに誇り、ただ主にほめられる者となれ Ⅱコリント10章の後半部分で、パウロは自分と敵対者たちの「誇り」を鋭く対比する。張ダビデ牧師はこの部分を注意深く解説し、当時教会内で起こった本質的な問題を再度想起させる。教会をかき乱す偽教師たちは、人がすでに築き上げておいた土台の上に入り込んで自分の手柄を誇示し、信徒を自分の陣営に取り込もうとしていた。しかしパウロは「わたしたちは分を越えた誇りはしない。むしろ神がわたしたちに分け与えてくださった計りの範囲に応じて誇るのだ」(10:13)と主張する。ここでいう「分」と「範囲」とは、神がパウロに委ねられた宣教の領域を指す。エルサレム教会で使徒としての権威を公式に認められたペテロやヤコブがユダヤ地方を任されたように、パウロは異邦の地、すなわちコリントやガラテヤ、エペソなどの異邦人都市で福音を伝える特別な召しを与えられていた。ゆえにパウロがコリント教会について誇るのは、自分個人の業績を自慢するのではなく、神が彼に開いてくださった領域において、ただ福音のために労苦したことを語っているにすぎない。 張ダビデ牧師は、「分を越えた」誇りが教会にいかに有害かを強調する。ほかの人が開拓して流した涙の種まきの労苦を軽んじ、その結実を横取りしようとする振る舞いは、共同体を分裂させる原因となる。実際に現代の教会でも、開拓のためあらゆる困難を耐え抜いた人々の献身が軽んじられたり、後任者がその足跡を消そうとするような光景が見受けられる。しかしこれは「他人の労苦をもって分を越えて誇る」愚かな行為であり、まさにパウロが指摘した姿そのものである。むしろ私たちが目指すべき態度は、Ⅱコリント10章15~16節にあるように、「あなたがたの信仰がますます増し加わるにつれて、わたしたちの及ぶ範囲があなたがたの間でさらに大きくなることを願っている」という言葉に示されるように、自らが他人の築いてきた土台の上で自己顕示をせず、まだ福音が伝えられていない未開拓の地へと進んでいこうとする姿勢である。ローマ15章20節でパウロが「ほかの人が築いた土台の上に建てようとはしなかった」と語るのも同じ文脈である。それは他人の労苦を尊重し、まだ福音が伝えられていない地へと足を運ぶ、真の使徒的情熱を体現している。 最終的にパウロは10章17節で「誇る者は主を誇れ」と締めくくる。これはエレミヤ書9章24節「誇る者はこれを誇れ。すなわちわたしを知ることで…」という御言葉の引用であり、その核心は「ただ神とその働きを誇るべきである」というメッセージである。張ダビデ牧師は、この御言葉を通して、信仰者のあらゆる誇りは結局「主が自分にいかなる恵みを施されたのか、わたしがその主にどう仕えているか」に基づくものでなければならないと繰り返し力説する。すなわち、学歴が高いとか、雄弁であるとか、外見が優れているというような世俗的な誇りは何の役にも立たない。そうした誇りは一時的に人の注目を集めるかもしれないが、決して教会を建て上げることはできず、霊的な実を結ぶこともできない。パウロは10章18節で「誉められるべきは自分自身を推薦する人ではなく、主が推薦してくださる人なのである」と宣言し、真に「認められる」ためにはだれの前に目を向けるべきなのかをはっきりと示す。人々の口から出る称賛に酔うことでも、自分自身を高め続けて満足することでもなく、神からのほめ言葉をいただくことこそが本当に価値あることなのである。 張ダビデ牧師はこの御言葉を、現代の教会や信徒たちにも直接的に適用する。たとえ世の基準で見れば弱々しく、人から軽んじられるような条件しか持たない人であっても、神がその人と共におり、その人に使命を与えたのであれば、まことに幸いな者である。パウロのように、外見や話し方が優れていなくても人々にあざけられるようなことがあっても、福音のために献身し、教会と信徒の益のために自らの人生を捧げるならば、神は必ずその人をほめ、用いてくださる。反対に、どれほど派手な外面や学歴、弁舌を誇ったとしても、それを自分の栄光のために使うならば、真のほめ言葉と実を期待するのは難しい。今日、教会の中で対立が起こり、分裂が生じたとき、その根本的な解決策は、この「主を誇り、ただ主にほめられる姿勢」を回復することにある、と張ダビデ牧師は強調する。 そう考えると、Ⅱコリント10章は現代の教会にも深い響きをもたらす。パウロの柔和と寛容、しかし真理のためには妥協しない厳しさ、肉に従うのではなく福音の力で戦う態度、主にあって誇り、人の前ではなく神の前でのほめ言葉を求める生き方などは、教会が争いや誤解によって揺れ動くときにこそ思い起こされるべき指針となる。張ダビデ牧師は、パウロの生き方そのものが福音の説教だったと改めて呼び起こす。パウロが金銭問題や人間関係など現実的な課題で中傷されながらも動じなかったのは、ただ福音のうちに自らの生を差し出すことができたからである。自分が「肉に従って生きていない」という点を実際に示すことができ、「自分に与えられた権威が、人々を破滅に追いやるためではなく建て上げるためのものである」ことをはっきり証言できたのである。この事実は今も、教会の指導者たちに本質的な教訓を与える。教会内で財政問題や権威問題などを巡る対立が生じるたびに、私たちは本当に「キリストの柔和と寛容」を身につけているか、また福音を守るための断固たる態度を貫いているか、そして究極的に自分の誇りは神のなさる御業にあるのか、それとも自分の功績や能力にあるのかを深く点検する必要があるのだ。 まとめると、張ダビデ牧師はⅡコリント10章がもつメッセージを三つの視点に整理して説き明かす。第一に、パウロが敵対者に対して示した態度はイエス・キリストの柔和と寛容でありながら、教会を破壊しようとする勢力にははっきりと対峙するという「外柔内剛」の姿勢だったこと。第二に、パウロの戦いは肉的あるいは世俗的な戦いではなく、福音の力によって要塞を崩す霊的戦いであり、究極的には教会を建て上げようとする善なる動機に基づくものであったこと。第三に、人間的な才能や外見、修辞学的能力ではなく、主が教会のためになしてくださる恵みと働きを誇り、すべての「認め」は「主からほめられること」を求めるべきだという事実である。これら三つの点こそ、Ⅱコリント10章が伝える中心的教訓であり、今日の教会が経験するあらゆる争いと対立に対しても変わることなく示される真理の御言葉なのである。そしてこれを実践するために、私たちは常にへりくだりと福音中心の決断を忘れてはならない、と張ダビデ牧師は力を込める。 結局、コリント教会の内外で噴出した論争や誹謗、中傷、偽教師たちの混乱は、パウロが十字架と復活の力をしっかり握りつつ教会を治めたことで克服された。パウロは自分に対する個人的な中傷にも揺るがされず、柔和と寛容をもって信徒に接しながら、誤った教えを流布する者たちに対しては強い使徒的権威を発揮した。その根底には「わたしたちは福音のうちに最終的に勝利する」という揺るぎない信念があり、「人からではなく主からほめられる生き方をする」という霊的価値観があった。張ダビデ牧師は、そこから現代の信仰者たちに重要な問いを投げかける。「私たちはいったいどこに自分の誇りとほめ言葉を求めているのか。私たちの戦いは果たして福音の力とキリストの愛に根ざしているのか」。パウロが語った「教会を建て上げる権威」は、今もなお主が求めておられる真の指導者の権威であり、それは特権を楽しんだり自分の名誉を高めたりするためではなく、教会を建て、信徒を健全な信仰に立たせるために用いられるべきものである。 このようにⅡコリント10章は、パウロの心と使徒的権威を深くうかがい知ることができる章であり、張ダビデ牧師は本文の解説を通して、私たちが目指すべき霊的原則を体系的に強調する。第一に、教会の中で非難や策略が起こってもキリストの柔和と寛容をもって応じること。第二に、教会と信徒を倒そうとする勢力には妥協せず、福音の武器をもって堂々と戦うこと。第三に、その過程で自分自身を誇らず、ただ神を誇り、究極的には主から認めていただくことを求めること。コリント教会だけでなく、今日の教会や信徒もまた、これらの原則を握るときに初めて、争いや葛藤の中にあっても福音の本質を保ち、成長していくことができる。 張ダビデ牧師は最後に、「誇る者は主を誇れ」(Ⅱコリント10:17)という言葉を再度思い起こさせ、誰もが主が喜ばれる生き方に励むよう勧める。なぜなら、ただ主がわたしたちの働きをほめてくださるときにこそ、それが真の意味でのほめ言葉となるからだ。人々の評価や承認は一瞬にして変わるが、主のほめ言葉は永遠に残る。教会がこの事実を忘れず、「柔和と寛容をもって敵対者に臨みながら、福音のためには善い戦いを恐れず、わたしたちの誇りを主のうちにもって主に認められる生き方をしよう」というのが、Ⅱコリント10章を教える張ダビデ牧師の一貫した呼びかけであり、結論なのである。 www.davidjang.org

十字架へ向かう真理 – 張ダビデ牧師

以下は、「張ダビデ牧師」がヨハネの福音書18章28節から19章16節までに記されたイエス様の受難場面について説教された内容を整理したものです。本本文は、ピラト の尋問とイエス様の対話、ユダヤの宗教指導者たちの告訴と偽善、そしてついに十字架へと向かわれるイエス様の姿を通して、神の子として喜んで最も悲惨な死の道を選ばれたイエス様の愛と救いの御業がどのように現れるかを集中して照らし出しています。 Ⅰ. ピラトの前に立たれたイエス様:真理と権威に関する対話 張ダビデ牧師は、ピラトの尋問の場面を通して、この世の権力者と神の御子が繰り広げる霊的かつ歴史的な対話に注目します。ピラトは当時のローマ帝国の権力を代表する総督であり、イエス様は武力や世俗的地位をまったく持たず、宗教指導者たちの謀略と暴力によって縛られた被告の姿でその前に立っておられました。しかし、ヨハネ18章28節から19章16節まで続くピラトとの長い問答の中で、むしろイエス様はみすぼらしい囚人の姿でありながらも、ピラトを圧倒する「真理の権威」を示されます。 まず、張ダビデ牧師は本文18章28節の「夜明けの時間帯」に注目します。ユダヤの宗教指導者たちがイエス様をカヤパ(가야바)の官邸に引いてきた時が夜明けであったという事実は、イエス様がすでに一晩中侮辱を受け、アンナスやカヤパによる不当な尋問にさらされ、極度の痛みと疲労の中で再びピラトに引き渡されていることを示しています。弟子たちはみな散り散りになり、主はおひとりで孤独のまま捕らえられていかれる――この姿は、十字架の道が「主ご自身がただひとりで歩まねばならなかった道」であることを象徴しています。本来なら主と共に歩むべき者たちが皆去ってしまったその夜、イエス様は苛酷な嘲弄と暴行、偽りの証言などに苦しめられながらも、ほとんど言い訳さえなさらず、沈黙のうちに可視的な受難を受けられました。 ユダヤの宗教指導者たちは、自分たちが異邦人の庭に入ると過越の祭りを汚すと考えたため、ピラトの官邸の中には入ろうとしません。しかしその一方で、「罪なきイエス様」を殺そうとしてピラトに引き渡すという矛盾を犯しています。張ダビデ牧師は、彼らの姿を指して「過越の意味とまことの『小羊』であるイエス・キリストをまったく認識していない霊的無知と偽善が極限に達した証拠」であると語ります。まことの過越の小羊であるイエス様を異邦人の手に渡しながらも、自分たちはモーセに与えられた律法に縛られて清めの礼だけは厳格に守ろうとする――まさにここに、宗教的な外面的律法遵守は徹底していながら、その内にあるべき「神の御子に対する真の畏敬や愛」はまったく持ち合わせないという「偽善の極み」が示されています。 続いてピラトが「あなたたちは、どんな罪状でこの人を訴えるのか」(ヨハネ18:29)と尋ねると、返ってきた答えは「もしこの男が悪を行う者でなかったら、あなたに引き渡さなかったでしょう」(ヨハネ18:30)という曖昧な告訴でした。ピラトはイエス様が世間を騒がせているのは知りつつも、具体的な罪状がはっきりしないことを感じ取り、「あなたたちの律法に従って裁け」(ヨハネ18:31)と言います。するとユダヤの宗教指導者たちは、自分たちには死刑を執行する権限がない(「人を殺す権利がない」)と言い、強制的にイエス様をピラトへ渡して処罰させようとします。実際には「何としてもイエスを殺さねばならない」という意図が反映されているわけです。 張ダビデ牧師はここで「もし彼らが律法にしたがって神への冒涜罪で処刑するなら、石打ちの刑に処すこともできただろう」と指摘します。使徒の働き(使徒行伝)でステパノが石打ちにされる場面を見ても、石打ちの刑はユダヤの伝統でした。ところがイエス様をピラトに引き渡したことで、彼らは石で打たれて死ぬよりもはるかに惨いローマの十字架刑に処する方法で、イエス様の死を巧妙に「最大限悲惨」なものにしようと企んだのです。十字架刑は奴隷や反逆者、最も凶悪な重罪人に科される苛烈な刑罰でした。炎天下の木に釘で打ち付けて吊り下げ、激しい苦痛のなかで徐々に死に至らせ、しかも遺体の処置さえ満足にされない刑です。張ダビデ牧師は「人間が考案した最も恐ろしく凶悪な処刑方法の一つが十字架だ」と分析しています。 つまり、ユダヤ人の罪悪性は単に「イエスを殺そうとした」だけで終わらず、「できるだけ無慈悲で恥ずかしめられる方法で排除しよう」とまで執拗に至っていることを示しています。ヨハネ18章32節に「これは、イエスがどのような死を遂げるかを示して語られた御言葉が成就するためであった」とあります。張ダビデ牧師はこれを、「人間の悪意が神のご計画を打ち砕くことはできず、むしろ神のご計画通りにイエス様の『上げられること』(十字架)が実現するように助ける逆説的状況」であると黙想します。悪しき者たちの狡猾さが総動員されたとしても、神はそれすらも救いの大いなる計画に変えて善用されるという事実が明らかになるのです。 一方、ピラトが「おまえはユダヤ人の王なのか」(ヨハネ18:33)と尋ねた時、イエス様は「あなたがそう言うのは自分からなのか、それとも他の人が私についてそう言ったからなのか」(ヨハネ18:34)と問い返されます。張ダビデ牧師はこの対話の場面について「イエス様はピラトの質問に直接的に答えず、むしろピラト自身の『真意』を探っておられる」と見なします。つまりピラトが本当に政治的な反逆容疑を問いただしたいのか、あるいはユダヤ指導者たちの陰謀に巻き込まれてやむなく聞いているだけなのか――イエス様はそれを見極めようとされるわけです。ピラトはローマの権力者ですが、本文をよく読むと、彼もイエス様と静かに対話を重ねるうちに次第に「この人には罪がない」という確信を持つようになります。 イエス様は「私の国はこの世に属していない」(ヨハネ18:36)と明言されます。これは張ダビデ牧師が強調するように「世の武力や政治体制から独立した神の国」がイエス様の王権であることを示す言葉です。ピラトがそれを聞く限り、ローマを転覆しようとする政治的革命家ではないのは明らかです。イエス様は弟子たちに対しても「剣を取る者は剣で滅びる」(マタイ26:52)と教えられたように、世の王権を武力で奪取したり、世のやり方で成し遂げるお方ではありません。真理は暴力や抑圧によって確保されるものではなく、命の犠牲と愛を通して具現されるのです。 この時、ピラトが「では、おまえは王ではないのか」(ヨハネ18:37)と再度問うと、イエス様は「そのとおり、私は王である。私は真理をあかしするために生まれた。真理に属する者はみな、私の声を聞く」(ヨハネ18:37)と答えられます。張ダビデ牧師は「この厳かな宣言は、イエス様が鞭で打たれ、嘲弄される立場にありながらも、『真理の王』としてご自分であることを証言されている」と強調します。世の法廷で「自分が王だ」と公言すれば反逆罪に問われることを承知のうえで、それでもなおイエス様は「私は王である」と宣言することで、「真理」とは何かを最後まで示されるのです。 ピラトが「真理とは何か」(ヨハネ18:38)と尋ねても、イエス様はこれ以上は答えられないように見えます。張ダビデ牧師はこの場面を「イエス様はすでに生涯と行動、御言葉をもって真理を示しておられたので、これ以上いくら説明してもピラトがすべて理解し得なかったであろう」と解釈します。ピラトは「真理」を知りたいと思う気持ちもあったかもしれませんが、同時に政治的計算や損得勘定に縛られた権力者でもあります。しかし結局のところ、「私はこの人に何の罪も見いだせない」(ヨハネ18:38)という無罪宣言をピラトの口から出させたことは、イエス様の完全な無罪と義が世の権力者さえも否定できないほど明らかだったことを示しています。 張ダビデ牧師は、本文で注目すべきキーワードを「真理をあかしされるイエス様」と提示します。一見、ピラトの前に縛られたまま立っておられるイエス様ですが、むしろイエス様が世の権力者を尋問するかのように描かれています。「あなたはユダヤ人たちの言うことをそのまま鵜呑みにしているのか、それとも私から真に知りたいのか」とピラトに問い返されるのです。これは教会と世の権力、真理を追う者とそうでない者との「観念的対立」を描くというよりは、現場における具体的な霊的戦いをよく示す一幕と言えます。 このようにして18章後半に表れるイエス様とピラトの問答は、神の御子が「罪人」として法廷に立たれながら、実は「真理の王」であることが確認される場面であり、同時にこの罪なきお方が不当な告訴によって死刑に処せられるという逆説が繰り広げられます。張ダビデ牧師は「ここでイエス様の沈黙と堂々たる姿が絶妙に交差する」と読み解きます。時には黙しておられますが、「私の国はこの世のものではない」と「私は王である」というはっきりした自己宣言を通して、ご自身の正体と使命が揺るぎない真理であることを宣言されるのです。 結局、ピラトはイエス様の無罪を感じ取り、何とかして釈放しようとします。祭りになると囚人をひとり釈放する慣例に従い、イエスを釈放しようとしますが、ユダヤ人たちは「この人ではなく、バラバを釈放せよ」(ヨハネ18:40)と叫び、強盗や暴動の首謀者・殺人の罪を犯したバラバを選びます。張ダビデ牧師はバラバという名前自体が「父の子(Bar-Abba)」という意味だと指摘し、そこにいっそう象徴的なアイロニーがあると言います。まことの「神の子」であるイエス様が罪人の立場を代わりに背負われたゆえに、結局「バラバ(『父の子』と呼ばれるが実際には殺人者)」が釈放されたのです。彼はイエス様の犠牲のおかげで罪から解放された、ある種の象徴的代表と言えます。これは代贖の本質を露わに示す事件です。すなわち「罪人」が解放され、「罪なき方」が代わりにその場所に立って死なれる――それこそが福音です。 それでもなお、ユダヤの指導者たちはそれで終わらず、「十字架につけろ、十字架につけろ!」(ヨハネ19:6)と叫び続けます。ピラトが無罪を主張して「あなたたちの王を私が十字架につけるのか」(ヨハネ19:15)と問い返しても、彼らは逆に「カエサル以外に私たちには王はない」(ヨハネ19:15)と言い放ちます。張ダビデ牧師は、「カエサルがどうしてイスラエルの王になり得るのか。本来、唯一の王は神であると信じてきたことこそがユダヤ人信仰の核心ではないか。それなのに、彼らは『真の王』であるイエス様を殺したい欲望を満たすために、最も敬虔なはずの信仰告白さえ放り出して世の権力に加担している」と痛烈に指摘します。 結局ピラトは、自分の中に一瞬湧いた恐れやイエス様への好意(こうい)を守り通すことができず、「もしこの人を釈放するなら、あなたはカエサルの忠臣ではない」と迫るユダヤ人たちの脅しに屈して、イエス様を十字架へ引き渡すことになります。張ダビデ牧師は、この最終場面を「ユダヤとローマが共謀して神の御子を殺したが、実はその道こそがすべての人類の罪をあがなう神の摂理のうちにあった道」とまとめます。イエス様はいつでもピラトが提示する妥協案を受け入れることもできましたし、あるいはローマ兵たちを一瞬でひっくり返すこともできるお方でした。それにもかかわらず、自ら「最も惨たらしい死の道」を選ばれました。それは、「私が地上から上げられるならば、すべての人を私のもとに引き寄せよう」(ヨハネ12:32)という御言葉どおり、十字架だけがすべての人類を救う完全なる道だったからです。 張ダビデ牧師は、ピラトとの対話を通してイエス様が強調された「要点」を大きく三つに要約します。 これらすべてが神の救いのご計画の一部であり、決して失敗や敗北ではなく勝利の道でした。真理そのものであるイエス様は暴力や偽善に屈服する姿ではなく、むしろご自分の命を投げ出して悪しき世の罪を背負われる犠牲を選ぶことで完全なる真理を示されました。 要するに、第1の小主題である「ピラトの前に立たれたイエス様:真理と権威に関する対話」は、世の権力と神の御子の権威が対比されて明らかになる場面です。ピラトは政治的権威を持ち、イエス様は縄で縛られていますが、実際にはイエス様が「すべての権威は上から与えられたもの」(ヨハネ19:11)とご存じで、堂々と真理を宣言なさいます。張ダビデ牧師によれば、この場面は後に教会が世に向かって真理をあかしする「ひな型」となるのだと言います。世は教会を尋問し迫害しますが、教会は真理にしっかりと立って揺らがない態度で答えねばならない。イエス様のように目の前の利益や便宜ではなく、神の国と真理のために大胆に語るべきです。ピラトのように部分的に好意的な権力者であっても、結局は圧力に屈する可能性があることを私たちは認識し、最後まで主の道を歩む必要がある――このようにピラトとイエス様の対話は、教会が置かれた世的状況とも結びつき、大きな神学的・実践的示唆を与えるのです。 Ⅱ. 宗教指導者たちの偽善とイエス様の代贖的従順 張ダビデ牧師は第2の小主題として、ユダヤの宗教指導者たちや祭司長たちの姿が、いかに「偽善的」であり、かつ「神への冒涜罪」という名目でイエス様を殺すことに加担したかを浮き彫りにします。彼らは過越の祭りを守るためにピラトの官邸には入らず、「異邦人の庭に足を踏み入れれば自分が汚れる」と言います。しかし当の「真の過越の小羊」であるイエス様の肉と血を憎しみをもって罪に定め、異邦人の手に渡してしまうのです。表面的にはレビ記や出エジプト記の律法を守ると言い、種なしパンや苦菜(にがな)、子羊の肉を食する伝統を厳守していますが、実際には神の御子を殺そうとする恐るべき殺意にとらわれています。 張ダビデ牧師は、ここに「信仰が形式や外形だけ残り、神の御心に対する真の畏れと愛を失ったときに生じる惨たらしい結果」があると診断します。彼らは「過越の清めの儀式」はとても重んじますが、イエス様がまことのメシアかどうかを真剣に問おうとはしません。むしろ自分たちの宗教的体制の中で地位と権勢を守りたいがために、イエス様を抹殺すべきだと信じ込むのです。挙げ句には「神への冒涜罪」という罪名でイエス様を責め立てますが、肝心の神の御子が今まさに彼らの目の前に立っておられることには気づきません。これは「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁判にかけられ、愚か者という者は地獄の火に投げ込まれる」(マタイ5:22)というイエス様の警告に真っ向から背く姿勢であり、「礼拝やいけにえをささげようとするなら、まず兄弟と和解せよ」(マタイ5:23-24)という主の教えとも完全に反対の態度です。 宗教指導者たちの偽善が極まっている証拠として、彼らがイエス様を「反逆者」としてピラトに訴えるため、ローマ帝国の政治的論理を持ち出してまで無実の罪を着せようとすることが挙げられます。「カエサルに税を納めさせないようにしている、自分を王と称している」といった虚偽の罪状を掲げ、どうにかして死刑にもっていこうとするのです。これは単なる宗教的紛争ではなく「政治的反逆」として仕立て上げればローマが死刑を下さざるを得ないことを狙う陰謀といえます。 張ダビデ牧師は、このときユダヤ指導者たちが示す憎悪と怒りがどれほど恐ろしいものかを強調します。ピラトでさえもイエス様を見て恐れを感じ、「私はこの人に罪を見出さなかった。鞭打って釈放しよう」(参照 ルカ23:22)と何度か言います。ですが、大祭司や群衆はそれでも満足せず、「十字架につけろ!」と叫び続けるのです。そこまでイエス様を殺さなければ気が済まないほど鬱積した憎悪の姿は、イエス様がファリサイ人や律法学者の「偽善(外面)」を厳しく糾弾されたマタイ23章の御言葉を思い起こさせます。表面は清く見えても内側はあらゆる悪や貪欲に満ちている「白く塗った墓」というわけです。 特にヨハネ19章6節以降で、ピラトが「私はあなたたちの王を十字架につけるのか」(ヨハネ19:15)と言うと、大祭司たちは「私たちにはカエサルのほかに王はありません」(ヨハネ19:15)と宣言します。張ダビデ牧師は、「この途方もない発言は、ユダヤ人の信仰告白(『ただ主なる神だけが王であられる』)を自ら否定することだ」と指摘します。もちろん旧約の歴史で、イスラエルがサムエルに「王を求める」と言ったとき、サムエルは「主ご自身があなたたちの王であるのに、人間の王を求めるとは」(サムエル上12:12)と責めています。それでも理想的には「イスラエルの真の王は主なる神」という信仰が彼らの土台でした。ところがここでは公然と「カエサル以外に王はない」と誓うように叫ぶ――これは神の民を自称する者たちが口にするはずのない言葉です。 最終的に彼らが日頃あれほど嫌っていたローマ皇帝(カエサル)の権威さえ利用してでも、イエス様を殺そうとする敵意が充満しているのです。張ダビデ牧師は、これを「宗教が神の栄光ではなく、自分の利益や既得権益を守る道具に堕落したとき、いくらでも暴力や偽りを正当化してしまう」という警告的事例だと述べます。このように宗教権力は時に世の権力を借りて自らの目的を達成し、世の権力もまた宗教の支持を利用して自分の利を得るという「共生関係」が生じ得るのです。実際、当時の大祭司たちにサドカイ派の出身者が多かったことも、彼らが政治権力と緊密に結託していたことを示唆します。 しかしイエス様は、その「偽善と暴力」の前にあって終始沈黙され、父なる神の御心に従順であられます。張ダビデ牧師は「イエス様がピラトの与えた最後の機会(『私にはあなたを釈放する権限がある』)にも妥協しなかったのは、結局十字架にかかって私たちの罪を代贖(だいしょく)する救いの御業こそが、主の絶対的使命だったからだ」と語ります。ここが重要な点です。すなわち、イエス様が宗教指導者に敗北してしまったり、この世の権力に服従させられた形で十字架へ連行されたのではなく、ご自身で従順にその道を選ばれた(ヨハネ10:18「だれも、わたしからいのちを取り去ることはできない。わたしが自分からそれを捨てるのです」)ということです。 「上から与えられなかったなら、あなたにわたしに対する何の権限もなかったであろう」(ヨハネ19:11)というイエス様のお言葉は、外面的にはピラトがイエス様を裁いているように見えながらも、実際にはすべての権威は「天から与えられた」ものであり、イエス様の死も結局神の主権のうちにあることを教えています。張ダビデ牧師はこれを「神の絶対的主権と、イエス様の絶対的従順」の交差点であると解説します。神が一時的に悪を許しておられるとしても、最後には大きな善を生み出される摂理があり、イエス様は人間の側でいかに濡れ衣と苦難に遭おうとも、神の御心を遂行する道を決して放棄されません。 さらに張ダビデ牧師は「私たちの信仰がどれほど熱心に見えても、実際にはイエス様を拒み、大敵となる道へ陥る可能性がある」という教訓を提示します。ユダヤ人、パリサイ人、大祭司たちは、神の律法を最も愛すると自負し、「メシアを待ち望む」と口にしていた人々でした。しかし彼らは真のメシアであるイエス様を見極めることができず、むしろ最も苛烈に迫害する側に回りました。教会の中でも、同じような状況がいくらでも起こり得るというのです。熱心に信仰生活をしているかのようでも、形や伝統にこだわりすぎて、実はイエス様の御心と真理――「神への愛・隣人への愛」の核心を蔑ろにしているなら、宗教指導者たちと同じ偽善の道に陥ってしまうでしょう。 結局、第2の小主題は「宗教指導者たちの偽善とイエス様の代贖的従順」に要約できます。彼らは表向き「清さ」を唱えながら、実際には神の御子を十字架に引き渡すという極悪非道な罪を犯しました。イエス様はその裏にある陰謀や暴力を知っていながらも、ピラトが差し伸べた妥協の手さえ退け、みずから十字架につき死なれることで代贖を完遂されました。これこそが福音の逆説であり、神の無限の知恵です。いくら偽善と虚偽が横行しても、イエス様の十字架の愛はくじけることなく、むしろ救いの道を切り開かれます。「神の御子」であられるイエス様を拒み排斥したあらゆる人間の罪が、「宗教的熱心」という衣をまとったとき、どれほど恐ろしいほどに変質するか――この警告を私たちは深く心に刻む必要があります。 Ⅲ. 十字架の道:完全なる愛と救いの実り 最後の第3の小主題において、張ダビデ牧師はヨハネ19章16節まで展開されるすべての状況が、ついにイエス様が十字架につけられる決定的瞬間を予告している点に注目します。ピラトは最終的にイエス様を十字架刑に引き渡し、「そこでピラトは、彼らにイエスを引き渡した。彼らはイエスを引いていった」(ヨハネ19:16)という句で締めくくられます。こうしてイエス様は最も苛烈な刑罰、人類が考案した最も悲惨な死の方法である十字架につけられることになります。 しかし張ダビデ牧師は、この場面を「十字架がすなわち敗北なのではなく、むしろ救いのもっとも輝かしい勝利」であるという逆説によって解釈します。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のまま残るが、死ねば多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)というイエス様のお言葉は、イエス様の死がただの痛ましい悲劇ではなく、「新たないのち」を芽生えさせる救いの種であることを示しています。イエス様が石打ちのような殉教的死ではなく、最も恥ずかしめを受け呪われたものとみなされる十字架で死なれたというのは、だれも想像できなかった神の贖いのご計画の核心でした。 張ダビデ牧師は「十字架は単なる苦痛の象徴や、イエス様の無力さを表すものではない。十字架こそ、神の愛と正義が交わる場所だ」と語ります。罪なきイエス様が罪人の手によって罪人の刑罰を受けられることで、その血が私たちの「罪の代価」となる。旧約の象徴的な犠牲制度が数えきれない動物の血によっても完全に解決できなかった罪の問題が、真の「神の小羊」であるイエス様の自己犠牲によって永遠に解決されたのです(ヘブル10:10)。 さらにピラトが「イエスを鞭打ちした」とあるのは、十字架刑執行前にローマ兵が囚人に加える苛酷な体罰(笞刑)であり、鉛や骨の破片が付いた鞭で打ち据えることで肉片が剥がれ落ち、血まみれになる非人道的な刑罰です。張ダビデ牧師は「イエス様はすでに鞭打ちによってほぼ死の淵に追いやられた後で十字架を負われたのだから、その受難の痛みは想像を絶するほどだった」と黙想します。これほどまでの苛烈な苦しみをイエス様が自ら引き受けられたのは、本来私たちが受けるべき罪の刑罰を身代わりに負う「自発的選択」でした。十字架はローマの残虐性、ユダヤ人の悪意、全人類の罪が入り混じった最悪の暴力であると同時に、イエス様の献身的な愛が最も鮮明に示される場所でもあります。 張ダビデ牧師は「私たちは十字架の出来事を通じて、神の義と愛が出会う場がどれほど驚くべきかを悟らされる」と言います。義とは、罪を裁くことが正しいという原理です。愛とは、罪人を救うべきだという原理です。ところが罪人である私たちが義に従って裁かれるなら、救いは不可能です。しかしイエス様が十字架で私たちに代わって罪の代価を払ってくださったことで、神の義も満たされ、神の愛も完全に実現されました。「キリストがまだ弱かったとき、私たちのために死んでくださったことによって、神はご自身の愛を明らかにしておられる」(ローマ5:8)というパウロの宣言こそが、これを要約しています。 したがって十字架は敗北や絶望ではなく、「イエスが栄光を受ける時」(ヨハネ12:16)として解釈されます。弟子たちは十字架が立てられる前まで、このすべての出来事を正しく理解できませんでした。しかしイエス様が復活・昇天されたあとになって初めて「このすべてが旧約に予言され、主ご自身が語られたとおりに成就していたのだ」と気づいたのです。張ダビデ牧師は、私たちが四旬節や受難週、あるいは聖餐式などでこの本文を黙想するとき、「痛ましく悲惨な場面だからこそ『イエス様の愛』がいかに計り知れないか、より深く悟ることに焦点を合わせるべきだ」と助言します。 十字架が示すイエス様の姿勢は、 張ダビデ牧師は、こうしたイエス様のあり方を私たちも見習うべきだと強調します。現代の教会や信徒も、この世で理不尽なことに遭うかもしれないし、迫害や虐げに直面するかもしれません。そのとき「世の権力を通して無理やり問題を解決しようとするより、イエス様のように神にすべてをゆだね、最後まで真理と愛で勝負すべき」というのが核心メッセージです。たとえ教会の中でさえ悪い企みをする人々がいたり、誤った指導者が真理を損ねることがあっても、真に神を畏れイエス様にすがる者は、ピラトの兵士たちがどれほど殴り嘲弄してもイエス様の神性と聖さを奪えなかったように、最終的には神の善き御心を実現するようになるのです。 最後に、十字架の出来事はイエス様という「一粒の麦」の死が「多くの実」を結ぶという事実を裏づけます(ヨハネ12:24)。張ダビデ牧師は「イエス様の十字架によって私たちが罪の赦しを受け、新たないのちを得るに至った」というのは歴史上もっとも大きな転換点だと見ます。ローマとユダヤの指導者たち、そして全人類が力を合わせてイエス様を排斥し処刑したにもかかわらず、むしろ主は復活によって死を打ち破られ、その犠牲のおかげで福音は全世界へ広がり、多くの人々が救いにあずかるようになりました。イエス様がおっしゃったとおり、「地上から上げられた」その十字架は、「すべての人をわたしのもとに引き寄せる」(ヨハネ12:32)という神的宣言の成就だったのです。 張ダビデ牧師はこれを「代贖の神秘」と呼び、もし十字架がなかったならば、私たちは今なお滅びるほかない罪人のままだったろうと言います。そして十字架上のイエス様こそ、私たちが常に心に刻むべき「神の愛」の絶頂です。主は弟子たちの裏切り、宗教指導者たちの偽善、ローマの残酷な政治的暴力、人々の無知と憎しみ――そのすべての只中にあっても、一切揺らぐことなく「死に至るまで従順」(ピリピ2:8)されました。そしてついには「すべての名にまさる名」(ピリピ2:9)を受け、栄光のうちに復活されたのです。 このように、第3の小主題「十字架の道:完全なる愛と救いの実り」をまとめると、十字架は人間のあらゆる罪が集約された暴力と不条理の場である一方、神の全能の愛が総合的に示された「聖なる犠牲の祭壇」でもありました。イエス様は徹底的に低くなられ、その低くなられたゆえに私たちは永遠のいのちを得ます。ピラトやユダヤの指導者たちの裁きに「敗北」したように見えますが、実はその道が「神の絶対的勝利」だったのです。 張ダビデ牧師は結論として、この本文を読むたびに「イエス様のように十字架の道を黙々と歩むのか、それともユダヤ指導者たちのように宗教的形式は整っていても、実際にはイエス様を排斥する立場に立つのかを自ら省みよ」と促します。私たちにとっての王はただイエス・キリストだけであり、この世の権力や自分の利益ではなく神の真理を優先するとき、初めて「真の自由」と「永遠のいのち」を経験できるのです。 要するに、ヨハネの福音書18章28節から19章16節までに描かれる、ピラトの法廷でのイエス様の尋問の場面は、全人類が犯す罪の実態がどのようなものであり、そしてその罪をイエス様がどのような姿勢で背負われたかを、きわめて鮮やかに見せる旧約預言の成就とも言えます。神の子という理由で憎まれ、十字架につけられるという最も悲惨な死の道でしたが、それは「自発的従順」であり「完全なる愛」の表現でもありました。この愛が今も世界の至る所で福音を通して伝えられ、多くの魂がイエス様の功績によって義とされるに至っています。そして最終的には、地上でのあらゆる試練や裏切り、痛みを超えて、「十字架こそ神の栄光」であることを私たちも悟るようになるのです。 最後に張ダビデ牧師は、私たちの日常生活の中でも十字架の道を歩む「実践的信仰」が重要だと強調します。イエス様が具体的に罵声を耐え、侮辱を受け、激しい暴力までも忍ばれたのは、結局その道こそ「罪びとに最も確かな救いの手」を差し伸べる道だったからです。もしこの地上の教会と信徒がこの愛を持続的に実践すれば、教会は単なる宗教集団ではなく、真の「真理の共同体」となることでしょう。外面的・制度的なことにとらわれて、もし主を退ける愚を犯すことがないように、いつも「真理に属する者はわたしの声を聞く」(ヨハネ18:37)というイエス様の言葉を胸に刻み、「主の声に従順する」道を歩むこと、それこそが十字架を信じる者たちのあるべき姿なのです。 結論として、ヨハネの福音書18章28節から19章16節までのピラトの前に立たれるイエス様の事件は、ピラトを通した世の法廷から「この人には何の罪も見いだせない」という無罪宣言がなされながらも、ユダヤの宗教指導者たちがそれを拒み、世の権力と結託してイエス様を十字架につけるよう要求するというアイロニーを暴き出します。それは宗教的偽善と憎しみが合体した罪悪の頂点でしたが、同時にイエス様の自発的従順と完全なる愛によって救いの歴史(救贖史)が頂点に達する偉大な瞬間でもありました。張ダビデ牧師は、この本文から「キリスト者ならば、バラバが恵みによって釈放されたように、私たちも十字架の恵みによって解放されたことを忘れず、イエス様の道にならってどんな苦難もいとわず神の国をあかしすべきだ」と強く訴えます。人間の陰謀と暴力が最高潮に達したとき、神はその十字架の死を復活の栄光へと一変され、何ものも妨げられない救いの門を大きく開かれたのです。 以上、三つの小主題をもとにヨハネ18章28節から19章16節を考察した張ダビデ牧師の解説では、とりわけイエス様とピラトの対話、宗教指導者たちの偽善、そして究極的に十字架が持つ代贖の意味が強調されています。これらのメッセージは時代を超えてすべての信徒に強力な挑戦を与え、今日の教会内外でも依然として悔い改めと決断を迫ります。イエス様のように終わりまで真理をあかしする道、十字架の道を歩むのか、それとも既得権を守るためにイエス様を排除し、カエサルに頭を下げる道を選ぶのか――その問いは2000年前だけでなく、現代のクリスチャンにも突きつけられているのです。 私たちは「張ダビデ牧師」が提示するこうした洞察を土台として、世からの多くの誘惑や脅しの前でも「真理に属する者」として揺るぎない信仰の道、すなわち十字架を中心に据えた弟子の道を歩まねばなりません。そうすることで、イエス様がお示しになったあの純粋で完全な愛が私たちの日常のあらゆる場面で輝きを放ち、全世界に向かって真の福音のあかしが続いていくことでしょう。イエス様はピラトの前でも、兵たちの嘲弄の前でも、大祭司たちの脅迫の前でも決してひるむことなく、ただ「神の御心」に自分をおゆだねになりました。そしてそれこそが「世に勝利する勝利」であることを、全宇宙が目の当たりにすることとなったのです。

新しい人を身に着けなさい。-張ダビデ牧師

1. 「新しい人を身に着けよ」という命令と罪の本質 チャン・ダビデ牧師がエペソ人への手紙4章を講解した際、その焦点はまさにパウロが勧めた「新しい人を身に着けよ」(エペソ4:24)という言葉であった。これは、イエス・キリストを信じる者であるなら、以前の古い生き方、すなわち「欺きの欲望によって滅びへと向かう、かつての習慣に従う古い人」(エペソ4:22)を脱ぎ捨て、新たにされた心によって神に倣い、義と真理における聖さで造られた存在として生きるべきだ、という意味である。この勧めは新約聖書の随所に登場し、特にパウロの書簡で顕著に示されている。たとえばコリントの信徒への手紙二5章17節には「だから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」とあり、キリストにあって霊的に生まれ変わった者の変化を強調する。ここで言う「新しく造られた者」になることが「新生(born again)」であり、「新しい人」として生きることは、私たちの実存や倫理的な歩みにまで影響を及ぼす具体的な変革を意味する。 しかし聖書が語る「新しい人」になるには、まず罪の問題と取り組まずにはいられない。イエスはヨハネによる福音書16章8節で、聖霊が来られるとき、罪と義と裁きについて世の誤りを指摘されると述べられた。その直後のヨハネ16章9節では「罪についてとは、彼らがわたしを信じないことである」と言い、イエス・キリストを信じないことこそ罪の核心であると教えている。このようにイエスが別れの説教で、簡潔ながら本質的な定義を示したなら、パウロは複数の書簡を通して罪の具体的な様相と人間の堕落性をより詳細に扱っている。ローマ1:29-31、コリントの信徒への手紙一 6:9-10、ガラテヤ 5:19-21、コロサイ 3:8-9、テモテへの手紙一1:9-10などには、罪の多様なかたちやリストが列挙されており、それがいかに深く人間を汚染しているかを幅広く示している。 人間は罪の力に囚われ、自分中心の人生を歩みがちである。この暗い人間の実存は、創世記からはっきり示されているが、私たちの日常においても、その悪の現実を見いだすのは難しいことではない。罪とは神に対しての不従順であり、同時に他者との関係にも破壊的な結果をもたらす。こうした文脈において、チャン・ダビデ牧師は福音を伝える宣教活動の中で「罪を正確に知らないと、恵みの大きさを決して正しく悟れない」という趣旨のメッセージをたびたび語ってきた。罪の深刻さを理解してはじめて、なぜ神の大いなる愛と救いが必要なのかを痛感し、その恵みに完全にすがることで「新しい人」としての生き方に踏み出せるという論旨である。 パウロが「新しい人を身に着けよ」と言うとき、それは私たちの人格や倫理、行動全体にわたる転換を要求する。多くの人はイエス・キリストを心で信じ、口で告白して(ローマ10:9-10)救いに与るが、現実の生き方が変わらないという経験をしばしばする。これは罪の根が深く、人間的な欲や古い習慣が簡単には消え去らないためである。だからこそエペソ4章は「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着ける」という抽象的なスローガンにとどまらず、その変化を具体的な倫理的実践へと展開している。まず最初に挙げられるのが、偽りを捨てて真実を語ることである(エペソ4:25)。次に「怒っても罪を犯してはならない」(エペソ4:26)ということ、さらに「盗みをしてはならない」、「汚い言葉を口にしてはならない」、「聖霊を悲しませてはならない」、「あらゆる悪意や憤り、怒り、叫び、そしりを捨てよ」、「互いに親切にし、憐れみの心で赦し合いなさい」などと続く(エペソ4:28-32)。 このようにパウロの教えは、罪が単に「イエスを信じない不信仰」で終わるのではなく、具体的な生活の中に表れる悪い行いや、言葉による破壊、情欲や欲望、暴力や偽善などへと、人全体の堕落として拡大していくのだと警告する。そして同時に、私たちは「新しい人」とされたのだから、そうした罪の実を捨て去り、真実と愛、親切と赦し、聖さと敬虔の実を結ぶべきだと励ましている。 「新しい人」という表現は、福音書でイエスが「新たに生まれること」(ヨハネ3:3-5)を強調された言葉ともつながっている。ニコデモとの対話でイエスは「だれでも新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と語った。これは肉体的な生まれ直しではなく、霊的な再誕生、すなわち神のいのちによって再び生まれることを意味する。したがって、この新生(born again)はすべて神の恵みと聖霊の働きによって成し遂げられるものであって、自分の力や功績によって得られるものではない。パウロはエペソ2章で「あなたがたは恵みによって、信仰を通して救われたのです。これはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です」(エペソ2:8)と説明している。 とはいえ、新生後も私たちの内には罪の残滓がなお活動しており、日常の中で古い人を絶えず脱ぎ捨て、新しい人を着続ける訓練が必要となる。ガラテヤ5:24で「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、その情と欲とともに十字架につけてしまったのです」と宣言されるが、この言葉もすべてが一瞬で解決するのではなく、継続的な自己否定の決断を要求している。実際、信仰者の歩みの中で日々自分を十字架に付けなければ、古い習慣や罪の性質が顔をもたげるからである。 パウロが語る「新しい人」の生き方は、単に罪を犯さないという消極的状態だけを指していない。パウロはエペソの信徒たちに、「むしろ善を行って徳を建てなさい」(エペソ4:28,29要旨)と積極的に勧める。これはイエス・キリストを通して示された神の愛と正義に倣い、いまや光の子どもとして(エペソ5:8)世を生きよという具体的な呼びかけである。否定的なものを取り除くだけで終わるのではなく、その空いた場所を神の善で満たすべきだというメッセージだ。 ここで注目すべきは、「真理である神を知った者なら、偽りを捨てなければならない」という論理である(エペソ4:25)。大小のうそで自分や他者を欺くことこそ罪の代表的な特徴であり、十戒の第9戒が「隣人に対して偽りの証言をしてはならない」(出エジプト20:16)とされているのも同じ文脈である。チャン・ダビデ牧師は、説教や著作を通じて、今日のメディア環境や社会的風潮が虚偽や誇張、フェイク情報であふれていることをたびたび指摘し、クリスチャンは真実を語り、正しいことだけに堅く立つべきだと強調してきた。なぜなら教会共同体が真理の上にしっかり立っていなければ、この世において光と塩であるべき教会の使命が大きく損なわれる可能性が高いからである。 結局、「新しい人を身に着けよ」というエペソ書の命令は、私たちの根本的な罪の性質を解決する福音の力にしっかりととどまり、そこから生活全体を変革せよという意味である。罪は単に不信仰やいくつかの悪行にとどまらず、人格全体、社会生活、人間関係、さらに霊的な領域にも影響を及ぼす。したがって福音による救いとは、その罪の根を取り除きつつ、同時に聖霊の助けによって義と聖を追い求める方向へと導くものである。パウロはエペソの信徒たちに救いの教理を十分に説いた後、それにふさわしい生活倫理を教えているが、それがまさに「新しい人を身に着けよ」という言葉で要約される核心的メッセージなのだ。 ではなぜ、罪を継続的に脱ぎ捨てねばならないのか。その最も根源的な理由は、神が聖なる方であるからである(レビ19:2、ペトロの手紙一1:16)。神が聖なる方である以上、その民も聖であるべきであり、これは旧新約を貫く宣言である。新約時代にはイエスが「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全でありなさい」(マタイ5:48)と言われた。神は私たちを御自分のかたちに似せて創造し、堕落した後も見捨てることなく救ってくださった。その神に仕え、キリストに属して生きるのであれば、当然、偽りや悪を捨てて真理と善を行うのがふさわしい姿である。ヨハネの手紙一1章5節以下で使徒ヨハネは「神は光であって、闇は少しもない」と宣言し、私たちも光の中へと歩むように促している。 この光と闇の対比は、罪と義、虚偽と真実、死と命、悪魔と神という二つの王国の対立を象徴するとすれば、クリスチャンは光の世界へ移された者だ(コロサイ1:13)。ゆえに私たちは生活のあらゆる領域において、このアイデンティティにふさわしい生き方をせねばならない。そうしなければ、古い人の姿を保ったまま、外面だけ新しい人のふりをする偽善に陥りやすい。パウロがしばしば教会内の問題を指摘したのも、その内部に依然として偽りや分裂、盗みや淫乱など古い生き方の名残が消えずに残っていたからである。しかし真理を悟った者たちなら、その古い習慣や罪を「ことごとく脱ぎ捨てて」(エペソ4:22)、ただ神に倣って造られた新しい人間性へと歩む必要がある。 チャン・ダビデ牧師もまた、説教や著書で「聖さ」や「聖潔」が単なる外面的な行動規範の順守にとどまらず、人間の心の奥底に巣くう不信と罪の性質そのものが、イエス・キリストの血潮と聖霊の力によって新しくされることだ、と繰り返し強調している。人間は意志力が強ければ罪に打ち勝てると勘違いしがちだが、聖書は人間の力だけでは罪を完全に断ち切ることはできない、と宣言する。キリストの功績と聖霊の内住があってこそ、根本的な変化が可能なのだ。 したがってエペソ4章で「新しい人を身に着けよ」という命令は、一面では罪を徹底して捨てよという警告であり、他面では聖霊のくださる力の中で、私たちが聖と義の道を歩むことができるという希望の宣言である。これこそが私たちの信仰生活の土台であり、同時に救われた共同体がこの世において示すべき姿でもある。 2. 怒りと舌の問題:「怒っても罪を犯してはならない」 エペソ4章の具体的な勧めの中で、多くの人々の目を引くのが「怒っても罪を犯してはならず、日が暮れるまで憤りを持ち続けるな」(エペソ4:26)という一節である。元来、山上の説教では「怒るな」という強い教えが示されているが、ここでパウロは、人が生きる中で「怒らざるを得ない正当な状況」もありうると認めている。ただし怒りそのものが罪なのではなく、怒りを誤って取り扱うとき、それが罪に発展し、破滅的な結果をもたらす可能性を強く警告しているのである。 怒りには時に「義憤」と呼ばれるものがある。神殿を汚す商人たちを追い出されたとき、イエスは神の聖さが踏みにじられる状況に対して怒りを表明された(マタイ21:12-13、ヨハネ2:15-16参照)。これは罪や不正に対する聖なる憤りであり、もし私たちが世の悪や不正を目の当たりにして何の痛みや憤りも感じないなら、それはむしろ霊的に麻痺している状態と言えるかもしれない。問題は、このように「正当」あるいは「義なる」理由で始まった怒りでも、コントロールを誤ればすぐに罪の扉を開いてしまう危険が大きいという点である。 聖書は、怒りを正しく処理できずに滅びへと至った数々の人物を通して、私たちに警鐘を鳴らしている。その代表的な例がカインである(創世記4:1-16)。神がアベルのささげ物を受け入れ、自分のささげ物を受け入れられなかったことに対して、カインは激しい怒りを抱いた。しかし神はカインに「あなたが怒るのは正しいことか。罪は戸口に潜んでいる。だが、それを支配しなさい」(創世記4:6-7要旨)と警告する。カインはこれを無視し、結局、弟アベルを野で殺すという惨い罪に陥ってしまう。これは人類初の殺人事件となり、カインは苛酷な呪いと放浪の道を歩むことになった。すなわち、怒りを制御できないとき、罪の結果がどれほど悲劇的となるかを端的に示す例である。 もうひとつの例として旧約の預言者ヨナを挙げることができる。ヨナ書4章によると、ニネベの民が神の警告に耳を傾けて悔い改めると、ヨナはむしろ激しく怒り、「私は憤って死にたいほどです」(ヨナ4:9)と言う。彼の怒りは全く正当ではない、筋違いの怒りであった。ニネベが悔い改めて滅びを免れたなら、預言者としては本来喜ぶべきなのに、彼はむしろ彼らの滅亡を望んで怒っていたのである。神は虫を用いてとうごまを枯らし、ヨナを戒め、「お前がとうごまを惜しむなら、わたしがニネベを惜しむのは当然ではないか」(ヨナ4:10-11要旨)と問われた。これは「その怒りは本当に正当なのか」を見極めようとせず、「自分の思い通りにならない」というだけで怒る利己的な愚かさを示す代表的な事例だ。 現代社会でも「怒りをコントロールできない」ゆえに苦しむ人々は増えている。特に若者をはじめ、さまざまな年代層で日常の些細なことで暴力を振るったり、極端な言葉や行動を取ったりするケースが少なくない。こうした現象に対して、チャン・ダビデ牧師はさまざまな教育プログラムや説教で、「人間の内面が神の御言葉によって深く治められていなければ、だれでも極端な怒りや絶望に飲み込まれうる」と指摘する。そして、そのような怒りは自己破壊や対人関係の破壊はもちろん、信仰の道全体を深刻に損なうのだと強調している。 したがって、エペソ 4章26節「怒っても罪を犯してはならず、日が暮れるまで憤りを持ち続けるな」という御言葉は、私たちの日常に非常に実際的な教えとなる。怒りが生じるのは、ある意味では自然な人間的感情である。しかし「ただ怒るな」という道徳的訓示だけでは十分でない。パウロは続けて「悪魔に機会を与えてはならない」(エペソ4:27)と言うが、これは怒りの中で人間の心が容易に恨み、憎しみ、暴力、陰謀、偽りなどに走り、結果としてサタンに活躍の余地を与えることを意味している。 怒りが罪へと拡大する主要な経路のひとつが「舌」である。エペソ4章29節では「悪い言葉を一切口から出してはならない。むしろ聞く人に恵みを与える、益になる言葉だけを語れ」と命じている。ヤコブの手紙3章も舌を「不義の世界」と呼び(ヤコブ3:6)、小さな火が大森林を燃やすように、舌がどれほど破壊的な力を持つかを警告している(ヤコブ3:1-12)。舌から出る言葉が相手を生かすこともあれば殺すこともあるというのは、古今変わらぬ真理である。問題は、怒りが高まるとき最初に失敗を犯しやすい領域が言葉だという点にある。激怒した状態でつい放ってしまった言葉が周りの人々に深い傷を与え、その後取り返しのつかない対立へと発展する例は、教会の中でも決して少なくない。 こうした状況において、エペソ4章26-29節の教えは具体的で現実的な指針を与える。第一に、怒りを感じても罪に直結しないよう注意すること。第二に、日が暮れる前にその怒りを解消すること。第三に、言葉で相手を傷つけず、むしろ恵みを与えるような会話へと切り替えること。これこそ信徒が怒りに対処する正しい原則と言える。怒りが芽生え始めたとき、その芽を初期段階で摘むことが重要である。それをしなければ、対立と憎しみがさらに深まって「悪魔に機会を与える」ことになる。「機会を与える」とは、サタンが心に入り込み、怒りをいっそう激化させ、あらゆる否定的感情を煽ることを指す。この段階になると、ついには暴力にまで発展しかねず、さらに霊的な領域に深刻なダメージをもたらす。 怒りを制御する具体的な方法論として、ヘブライ12章2節が提示される場合がある。「信仰の創始者であり完成者であるイエスを見つめよう。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、恥をも厭わずに十字架を忍ばれ、それゆえ神の御座の右に着座されたのである。」イエスは十字架を負われる極度の苦痛と恥辱に耐えられた。全人類の罪を負うという、言葉に言い表せない苦難のただ中でも、イエスは怒りや絶望ではなく、人類への愛と従順を選ばれた。その結果、神の御座の右に着く栄光を得られたのである。私たちがこのイエスを仰ぐとき、怒りの代わりにむしろ忍耐と愛、赦しと耐え忍ぶ道が開かれる。 旧約のモーセもまた、怒りによる失敗を経験した代表的な人物である。エジプトの王宮で育ったモーセは、エジプト人の不当な暴力を見て義憤を覚えたが、それを制御できずエジプト人を殺してしまった(出エジプト2:11-15)。これによってモーセの人生は根底から揺さぶられ、逃亡者として荒野に逃れ、長い間羊を飼って心を養う訓練を受ける必要が生じた。その40年に及ぶ訓練の末、民数記12章3節で「モーセという人は、この地上のどんな人よりも非常に柔和であった」と評されるほどの人になった。エジプトの宮廷で培った力や暴力ではなく、柔和によって人々を導く指導者となったのである。結局、イスラエルをエジプトから導き出すという偉大な使命を担えたのは、モーセがこの「柔和」を身に着けたからだと見ることができる。 これらの例を総合してみると、怒りそのものは完全に消せない人間の情動だが、適切な制御と解消をしなければ容易に罪となり、自分自身や周囲を破壊することがわかる。チャン・ダビデ牧師は「怒りをはじめとする感情を押し込めるのではなく、福音の前に正直にさらけ出し、御言葉と祈りをもって自分自身を省みるときこそ、癒やしと回復が始まる」と語ったことがある。問題状況を回避したり、「ただ我慢しろ」という権威的な押さえつけだけではなく、みことばをもって内面を照らし、聖霊の導きの中で怒りの根を抜き取る必要がある、というメッセージである。 パウロはエペソ4章31節で「すべての悪意、憤り、怒り、怒鳴り、そしりなどを、いっさいの悪意と共に捨て去りなさい」と総括的に宣言する。ここで言う悪意(malice)は、蛇の毒のように巧妙かつ執拗に魂を蝕む憎悪でもある。怒鳴るとは騒ぎ立てることであり、そしりは中傷や誹謗を指す。これらは結局すべて、怒りと憎しみから派生する行動である。したがって「それは義憤だから大丈夫」と放置するには、人間の怒りはあまりに危険な感情だと聖書ははっきり語る。 ゆえに教会共同体でも、あるいは家庭や職場でも、対立が生じたとき私たちはエペソ4章の教えを常に思い起こす必要がある。怒りを抱いても罪に陥らず、日没までにできる限り和解や心のわだかまりを解消する。そしてそのためには赦しが不可欠である。その赦しの根拠となるのが「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」(エペソ4:32)という福音の原理である。神の無限大の愛と赦しを受けたのなら、私たちも当然、他者を赦すべきであることを悟らねばならない。 「新しい人を身に着けよ」という命令は、結局怒りの問題、舌の問題においても明確に適用される。パウロは怒りをただ取り除くという消極的命令に留まらず、積極的に「善い言葉を語ってお互いに恵みを与えよ」(エペソ4:29)と促す。私たちが怒りや不平、不満、そしりの言葉を捨て、真理と愛、励ましと称賛の言葉を選ぶとき、聖霊の働く共同体が形成され、そこに神の国が部分的ではあっても表れる。怒りは自然な感情だが、決して正当化されるべきものではなく、なおかつそれが罪に転じるのを放置することもできない。ゆえにパウロの勧めは、極めて現実的であると同時に、霊的にも非常に重要な指針なのである。 結局、「怒っても罪を犯してはならない」という言葉は、私たちがより大きな愛の内にとどまるときにのみ実行可能となる。罪人である私たちのために、すべてを捨て、あらゆる侮辱と苦痛を耐え抜かれたイエス・キリストの十字架を思うとき、私たちは怒りではなく、むしろあわれみと赦し、愛と和解を選ぶ力を得る。これこそが信徒の生の本質であり、新しい人の特徴でもある。イエスを深く黙想しなければ、心に湧き上がる怒りが罪に転じるのを毎回食い止めることはできない。だが聖霊が私たちの心を支配してくださるなら、怒りが戸口を叩くとき、その扉をすぐに閉ざし、愛を選ぶことができる。この愛の実践こそが「新しい人」の実践なのである。 3. 実践的倫理と愛の完成:「互いに親切にし、憐れみの心で」 エペソ 4章の終盤(エペソ 4:28-32)でパウロは、「新しい人を身に着けた」信徒が必ず実践すべき倫理を具体的に列挙する。彼は「盗みをしている者は、もう盗むのをやめ、自分の手で骨を惜しまず良い仕事をしなさい」(エペソ4:28要旨)と勧め、その目的を「貧しい人に分け与える物を得るためだ」と語る。つまり、熱心に働いて得た収入を自分だけのために使う利己的な生き方ではなく、弱く貧しい人を助ける“施し”という実を結ぶべきだということである。これは、罪の本質が「奪い、搾取すること」にあるとするなら、新しい人の生き方は「与え、施すこと」に反転する原理を具体的に示している。 十戒で「盗んではならない」(出エジプト 20:15)とある第8戒と「隣人の家を欲しがってはならない」(出エジプト20:17)とある第10戒を拡大解釈すれば、物質だけでなく、隣人が本来得るべき権利や機会を奪う行為も広義の盗みである。教会内外で他者を搾取したり、不正な手段で利益を得たり、あるいは合法的であっても倫理的に不当な利得を追い求める行為はすべて、神の前では盗みと見なされる可能性がある。新しい人へと変えられたキリスト者なら、単に「盗まない」という消極的態度にとどまらず、さらに「ほかの人のために働き、所得を分かち合う生き方」へ踏み出すべきである。パウロが使徒言行録20章で別れの説教をした際、自ら手を使って働き、困窮している人々を助けたと告白したのは(使徒20:33-35)、彼自身がこの原理を身をもって実践した証しといえる。 続く勧めでパウロは「無益な言葉を一切口にしてはならない」と言い、むしろ「聞く人に恵みを与える、徳を高める言葉だけを語りなさい」(エペソ4:29要旨)と説いている。新しい人の特徴は言葉遣いにも表れる。ヤコブ書にあるように、舌は非常に小さな器官だが人生全体を左右する大きな舵のようなもので、小さな火種が大きな山火事を起こすように、その破壊力は大きい(ヤコブ3:1-6)。だからこそ、この舌を用いて「恵みを与える言葉」を伝えることが信徒の当然の倫理的責任であり特権なのだ。聖霊が私たちの内に住んでおられるなら、私たちの口調や言語習慣にも必ず変化が起こるはずである。 パウロはさらに「神の聖霊を悲しませてはならない」(エペソ4:30)と勧告する。聖霊は人格的存在であり、私たちが罪を犯し、悪を行うときに悲しまれる。すでに私たちに保証として与えられ、救いを確信させてくださる方を、私たちが逆らう形で行動すれば、聖霊が悲しむのは当然のことだ。「新しい人」として生きるとは、聖霊とともに歩み、聖霊が喜ばれる方向へ人生を修正していく過程でもある。私たちが悪しき欲望や怒り、偽りや汚い言葉に支配されるとき、聖霊の繊細な御声を無視することになり、結果、霊的成長が阻まれたり後退したりしてしまう。 その結論としてエペソ4章31-32節でパウロは、「捨てるべきこと」と「取るべきこと」とを最終的に対比させて再度まとめている。捨てるべきものは「すべての悪意、憤り、怒り、騒ぎ立てること、中傷」そして「あらゆる悪意」である(エペソ4:31)。私たちが追い求めるべきなのは「互いに親切にし、憐れみの心で赦し合いなさい。神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように」(エペソ4:32)という教えである。この節は「新しい人」の倫理的頂点とも言えよう。実際、キリストが十字架で私たちに示された赦しが基準となるため、これは非常に高い標準であることがわかる。 なぜパウロは互いに赦し合うことを強く主張するのか。それは教会共同体が分裂や争いを起こしたとき、最初に回復すべき徳が赦しだからである。イエスの教えてくださった主の祈りにも「私たちに負い目のある人を私たちが赦したように、私たちの負い目をも赦してください」(マタイ6:12)というくだりがある。自分に罪を犯した隣人を赦さなければ、自分が神に赦しを願うとき、その真実味を伴わなくなる。またイエスはマタイ18章で「一万タラントの借金を赦された下僕」のたとえを通し、神に莫大な借金を帳消しにしていただきながら、仲間のわずかな借金を赦さない姿勢を戒められ、赦しの必要性を繰り返し力説された(マタイ18:21-35)。 チャン・ダビデ牧師は共同体に関わる問題や教会の紛争解決を論じるとき、しばしばエペソ4章32節を引用し、「赦しは私たちの徳や善性で成し遂げられるのではなく、イエス・キリストの十字架を仰ぐときに初めて可能となる」と説く。人間的観点にとどまるなら「なぜ私が先に赦さなければならないのか。あちらが悪いのに」という思いが湧くが、福音の光のもとでは「私も赦された罪人であり、十字架の愛によって救われた」という自覚が先立つため、赦しを拒否できなくなるということである。これこそ「互いに親切にし、憐れみの心で赦し合う」生き方である。 パウロはただ「赦しは良いことだからしなさい」という当為を説くだけではなく、その根拠を示す。「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように」。キリスト教倫理の特徴は、人間的な善行を超え、根本的に神の行為とご性質に倣うところにある。神がいかに行われたかが私たちの標準なのだ。私たちが愛すべきなのは、神が先に私たちを愛してくださったからであり(ヨハネの手紙一4:19)、私たちが赦すべきなのは、神がキリストにおいて私たちを赦してくださったからである。こうして神の救いと恵みが信徒の行動の根拠であり動力となる。 「新しい人を身に着けよ」という言葉が現実的に難しい理由は、人間が本性上、自分本位で罪深い性質を持っているからだ。しかし福音は、人間の本性の弱さを克服するよう助ける神の力である(ローマ1:16)。聖霊が私たちのうちにとどまるなら、私たちは本来的には不可能な愛と赦し、親切を実践できるようになる。これは信仰生活においてきわめて実際的な部分である。教会の中ではささいな口論や意見の衝突がしばしば起こるが、互いに親切な態度を保てば簡単に解決する争いも、怒りとそしりが介在することで手の施しようのない段階にまで悪化してしまうことが多い。だからこそパウロは「すべての悪意や憤り、怒り」を捨てるように繰り返し強調するのである。 さらに言えば、聖霊の実の中に「愛、寛容、慈愛、善意」が含まれていることを思い出したい(ガラテヤ5:22-23)。怒りや悪意、憎しみは肉のわざだが、親切や憐れみ、赦しと愛は聖霊の実である。新しい人として生きようとする教会共同体は、最終的に聖霊がもたらすこれらの実を豊かに結ぶことを目指す。イエスが「あなたがたが互いに愛し合うなら、それによってすべての人は、あなたがたがわたしの弟子であることを知る」(ヨハネ13:34-35)と言われたことも、この文脈と同じである。教会が世から「確かに神に属する共同体だ」と認められるためには、怒りやいさかいではなく、愛と赦しに満ちている必要があるのだ。 このとき愛を単なる感情のレベルでとらえてはならない。聖書が語る愛(ἀγάπη, アガペ)は、相手のために自己犠牲を惜しまない実践的な献身である。エペソ5章2節でパウロは、「キリストがあなたがたを愛してくださったように、あなたがたも愛のうちを歩みなさい」と述べ、キリストの愛がご自分の身をささげるまでの犠牲の愛であったことを強調している。結局、愛の完成は赦しと自己犠牲の実践であり、これこそが新しい人のアイデンティティを最も鮮明に示す行動といえる。 私たちの生活のなかでこの愛を体現するには、まず罪の問題を解決し、怒りを捨て、偽りを遠ざけるプロセスが必要だ。そして日常の具体的場面で盗みや貪欲、淫らな言葉、そしり、悪意などあらゆる悪を断固として断ち切る。さらに相手を憐れみ、積極的に施しを行い、善い言葉をかけ、互いに赦し合う共同体を築いていく。パウロが言う「互いに親切にし、憐れみの心で赦し合いなさい。神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように」(エペソ4:32)という言葉は、だからこそ教会生活や個人生活、家庭生活のあらゆる領域で適用されるべき核心的徳目なのである。 チャン・ダビデ牧師は、特に「弱い肢体、傷ついた心を持つ人々を憐れみ、仕えることに怠ってはならない」と教会共同体に対して繰り返し強調している。それこそがイエスが示してくださった道であり、福音の力が実際に表れる場だというのである。世は強い者、成功した者、特別な才能をもつ者に目を向けやすいが、教会は孤児ややもめ、打ちひしがれた者、社会的に疎外された者にこそ目を向けて助けるのに力を注ぐべきだ。最終的にエペソ4章が描く「新しい人」の姿は、まさにこうした「親切と憐れみの実践」へと結実していく。 最後に、「捨てるべきもの」を捨て、「取るべきもの」を取るこの過程は、自分の力だけで果たし得ないことをはっきり認識する必要がある。だからこそパウロはローマ8章で、肉に従えば死に至り、霊に従えばいのちと平安に至ると語っている(ローマ8:5-6)。結局、聖霊の働きのうちでのみ、私たちは真に新しい人として生きられ、聖霊を悲しませる言動を退け、互いに憐れみ合い、赦し合う「キリストの共同体」を築くことができる。教会が世から光と塩と見なされる道は、こうした聖霊の実が随所で実際に表されるときである。 エペソ 4章の結びである「互いに親切にし、憐れみの心を持ち、互いに赦し合いなさい」(エペソ4:32)という言葉は、地上の教会が絶えず取り組むべき課題である。信徒一人ひとりが自身の怒りや貪欲、利己心、偽りを十字架に付けなければ、教会は健全な姿で世に仕えることができない。そしてその動力こそ「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように」という福音の真理に基づいている。イエス・キリストが示された聖なる犠牲と赦し、そして神の大いなる愛を思い出すとき、私たちはだれをも排斥したり断罪できないことに気づく。むしろ互いを立ち上がらせ、不足を補い合い、共に聖霊のうちに成長する共同体となる。それこそがパウロの示す「新しい人を身に着けた」生き方であり、キリスト教倫理の核心であり、教会が世に示すべきイエス・キリストの光である。 結局、エペソ4章という一章を通して与えられる教えは、教理と倫理がどれほど緊密に結びついているかを如実に示している。パウロはエペソ書の前半で信徒の救いと教会の奥義について深い教理を扱った後、直ちにその教理が日常の倫理へとつながるべきことを強調する。「新しい人として生きる」とは、単に「身分」が変わるだけでなく、「品性」と「行動」が変わることまでも含むのだ。罪と怒り、偽り、そしりを捨てて、親切と赦し、愛を実行してこそ、初めて「キリストにあって生きる」という言葉の意味が完成するのである。 これはエペソ教会の時代だけでなく、現代を生きる私たちも同じ御言葉の前に立たされている。私たちはみな、新しい被造物として招かれたのだ。「チャン・ダビデ牧師」がこれまでの説教や講演で繰り返し強調してきたように、教会は世からの呼びかけではなく(世の価値観に引きずられるのではなく)、神に選ばれ、聖なる生き方へと召された共同体である。だからこそ、そのアイデンティティにふさわしく生きる責任がある。その責任は重いが、同時に聖霊の力の中でこそ全うできる「恵みの道」でもある。 最終的に私たちが神の愛をさらに深く黙想し、イエス・キリストの十字架を仰ぎ見て、聖霊のうちに自らを絶えず点検するとき、エペソ4章の「新しい人を身に着けよ」という命令が、具体的な現実として身を結ぶ。結果として私たちは怒りや偽りを捨て、善い行いや恵みのある言葉を選択し、とりわけ互いに親切にし、憐れみを示し、赦し合う共同体となる。教会の内外を問わず、だれがこの共同体を見るにしても、「本当に彼らは神の子どもらしい」と感じられるはずだ。そのとき、神の国の姿が部分的にせよ具体的に現れ、福音が力強く証しされる。これこそがパウロがエペソ教会に抱いた夢であり、今日の私たち全員が改めて握るべき希望であり、最終的に教会が担うべき使命なのである。

十字架の贖いの神秘 – 張ダビデ牧師

1. ローマ書3章25節の意味と贖いの神秘 ローマ書3章25節は「このキリストを神は、その血によって信仰により和解のいけにえとして立てられました。それは、神が長く忍耐してこられた中で、以前に犯された罪を見過ごしてこられたことによって、ご自身の義を示されるためです」という内容を語っています。この短い一節の中には、キリスト教神学が長い年月をかけて議論し、熟考してきた贖い(贖罪)の核心的教理が凝縮されています。使徒パウロは、イエス・キリストの死と流された血によって、人間が罪と死の支配から自由にされると宣言します。しかし、「二千年前のある日、カルバリの丘で流されたイエス・キリストの血が、なぜ今日の私の罪を清め、赦す力となり得るのか?」という問いは、信者にとってさえ時に受け入れ難い神秘でもあります。ましてやイエス・キリストを信じない人々にとっては、その疑問はいっそう大きいに違いありません。人間の理性によって正確に測り知ることが難しい「贖いの神秘」がまさにここにあるのです。 張ダビデ牧師はこの問いに対し、キリスト教の贖罪教理は、人間のあらゆる罪を一瞬にして洗い清める超越的かつ永遠的な力に関係しているのだと強調してきました。キリストが十字架で死なれたことによって、人間が犯したすべての罪、そしてこれから犯す罪さえも覆われたという教えは、表面的にはやや非合理的に感じられるかもしれません。しかし福音は「神の恵みによる救い」を語っており、その恵みこそが人間の知性や感情を超えて歴史すると聖書が証言しています。パウロの教えもまた、「律法の行い」ではなく「キリストの犠牲とその血」による信仰を通じて義とされる、という点に焦点を当てています。 実際、「神が長く忍耐してこられる中で以前の罪を見過ごしてこられた」という言葉は、一見すると神の裁きと義が保留されたかのように見えますが、究極的にはキリストの死において神の義(義)と愛が同時に現れたことを意味します。ここで重要なのは、神の「忍耐」と「怒り」が矛盾するという意味ではなく、罪に対する正しい裁きが必ず行われねばならない一方で、その裁きの刑罰を罪人ではなくイエスご自身が受けられたという点です。これはまさに「刑罰代償論(Penal Substitution Theory)」の基礎となり、同時に神の愛の大きさを示す出来事でもあります。 しかし、人々はこの愛を単純に頭で理解するというよりも、心で受け止める体験の中で真の変化を経験するものです。その意味で、「イエス・キリストの自己犠牲的な愛の物語が私たちを深く感動させ、変化させる」と主張する「道徳感化説(Moral Influence Theory)」も、信仰の実際の体験を説明する上で意義があります。同時に、キリスト教史上最も古い形態の贖罪論といわれる「勝利者キリスト(Christus Victor)」、すなわち「古典的贖罪論(Classical Theory of Atonement)」は、サタンと罪の権勢を打ち破って人類を解放したキリストの勝利を強調し、贖罪の出来事が宇宙的な規模で起こった霊的戦いの勝利であることを宣言します。 このように、贖罪教理に関するさまざまな視点は、それぞれに異なる焦点を合わせつつも、すべてイエス・キリストの死と復活を通して人間が救われるという福音の本質を志向しています。張ダビデ牧師もまた、福音の真髄を語る際に、神の無条件の愛を説きながらも、罪を滅ぼし私たちを自由にしてくださったイエス・キリストの血潮の力を豊かに教えます。そしてその際、「神の怒り」と呼ばれる側面を否定するのではなく、聖書がはっきりと怒りや裁きを言及していることを直視しつつ、その裁きを超える恵みがどのように作用するかを説教します。 パウロが「神の怒り」について語るローマ書5章9節と10節では、「それで今や、私たちはキリストの血によって義と認められたのですから、いっそう彼によって神の怒りから救われることになります。…私たちが神の敵であった時、その御子の死によって神と和解させられたのなら…」と述べられています。これは、罪人である私たちが事実上、神の敵対者の状態にあったことを示唆しています。「敵」とは決して和合できないような敵対関係を意味するのではないでしょうか。しかし、神が怒りだけを注がれていたなら、私たちに望みはありませんでした。けれどもローマ書3章25節と5章9-10節に表される福音の核心は、この敵対関係を回復し、「和解の関係」へと変える主の犠牲、すなわちその血を流されることによる和解なのです。まさにこの点において、「キリストの贖いの御業」は、神の怒りさえもキリストのうちで愛へと転換させる劇的な出来事となるのです。 張ダビデ牧師の説教では、この「神の怒りからの救い」という主題がしばしば取り上げられます。彼は、神の愛を強調するあまり「怒りは必要ない」と言う極端にも、逆に人間の罪を指摘して「神の怒りしか存在しない」と言う極端にも、共に警戒すべきだと力説します。福音はすでに「キリストの血潮」によって罪と死の権威が屈服したと語りつつも、キリストの犠牲が私たちの心を変化させる(道徳感化説)と同時に、罪に対する刑罰が実際に代償された(刑罰代償論)という事実を共に見なければならないからです。そしてそれを通して、罪の鎖が断ち切られた(勝利者キリスト)ことが明確に表されるべきだと説きます。 一方、福音書を見ると、イエスが地上で活動された際、すでに罪の赦しを宣言しておられた場面が頻繁に登場します。マルコの福音書2章では、屋根を破って下ろされてきた中風の人にイエスが「あなたの罪は赦された」とおっしゃったくだりが代表的です。この出来事は当時の宗教指導者たちに大きな衝撃を与えましたが、彼らは「神だけが罪を赦すことができる」という点を強調し、イエスが神を冒瀆していると非難しました。しかしイエスは実際に彼を癒し、罪を赦す権威を示されたことで、ご自分が何者であるかを明らかにされました。この罪の赦しの権威は、究極的には十字架の出来事で完成します。十字架上での死は、イエスの公生涯で繰り返し示されていた罪の赦しの決定的な頂点となり、またその後の復活によって罪と死の権威が無力化されたことが宣言されたのです。 パウロが強調する「神の怒りから救われる」という表現は、罪が決して軽い問題ではないことを教えます。罪は神の聖なるご性質に逆らうものであり、最終的には怒りの対象となるのです。しかしキリストの血によって私たちが義とされたとき、その怒りはもはや私たちに向けられない、これこそ福音の喜ばしい知らせです。これが贖いの本質であり、人間の功績や努力では得られない「全的な恵み」でもあります。だからこそ張ダビデ牧師は、この点を強調する度に「神は怒られるが、同時にその怒りをご自身で担われる。だからこそ私たちは限りなく感謝すべきである」と説教します。 このように見ると、ローマ書3章25節はパウロ神学の精髄が凝縮された節と言っても過言ではありません。キリストの死とその血潮の効力が私たちに及ぶ過程は、理性で完全に把握しがたい部分がありますが、パウロは私たちが信仰によってこの事実を受け入れるとき、義とされるのだとはっきり宣言しています。そして聖書全体がこの宣言を支えています。旧約の祭司制度もまた「血を流すことなしには罪の赦しはない」(ヘブライ9:22)という原理に基づいており、イエス・キリストが真のいけにえとしてご自分をささげられることによって、すべての儀式的犠牲が最終的に完成した、というのがキリスト教の伝統的教えです。 結局、「二千年前のキリストの十字架の死が、なぜ私の過去・現在・未来の罪までも清めるのか?」という問いに対する答えは、人間的な時間ではなく、「神の永遠のうちでの出来事」という視点の中に見いだせます。張ダビデ牧師もこれを説教するとき、私たちは歴史の瞬間の中で時間の制約を受けますが、神は昨日も今日も永遠に変わることなく働かれ(ヘブライ13:8)、キリストの犠牲はすべての時代、すべての人々に同じように効力をもたらすのだと強調します。そしてこれが「信仰によって起こる」出来事であるため、すべての人間はただ恵み(Sola Gratia)によって罪の赦しを得られるのだと繰り返し語ります。 2. 三つの主要な贖い(贖罪)論とその神学的含意 キリスト教の歴史において、「イエス・キリストの十字架の死が、私たちの救いをどのようにもたらすのか?」という点については、さまざまな理論が提示されてきました。最も一般的な分類としては、第一に「勝利者キリスト(Christus Victor)」、第二に「刑罰代償論(Penal Substitution Theory)」、第三に「道徳感化説(Moral Influence Theory)」という三つの類型が代表的です。これら三つの理論はいずれもキリスト教の贖罪教理を説明しようとする試みであり、それぞれが異なる観点を強調するものの、どれか一つがすべてを代替したり、他を完全に排除したりするわけではありません。多くの神学者や牧師たちは、「この三つが調和を成すとき、十字架の贖いがさらに立体的で豊かに理解される」としばしば語ります。張ダビデ牧師もこのような統合的視点を取り、教会がこれら三つの側面をバランスよく宣教する必要があると強調しています。 まず、勝利者キリスト(Christus Victor)は最も古典的な贖罪論として「贖いの代価論(Ransom Theory)」、あるいは「劇的贖罪論(Dramatic Theory of Atonement)」とも呼ばれます。初代教会の時代からこの理論はキリスト教信仰告白の基盤にあり、それゆえ「古典的贖罪論(Classical Theory)」という名称が付されています。その核心は、人間が罪の権威、サタンの支配下に隷属していたが、キリストがご自分のいのちを代価(ransom)として支払い、人間を解放されたという概念です。すなわち「人の子が来たのは、仕えられるためではなく仕えるためであり、多くの人の代わりに自分のいのちを『身代金』としてささげるためである」(マルコ10:45)というイエスの言葉を根拠に、キリストがサタンとの霊的戦いで勝利することによって、人間を奴隷状態から救い出したという解釈です。 この視点は、宇宙的規模で起こった巨大な「霊的ドラマ」を想定します。神に背き、罪に陥った人類がサタンの捕虜となり、サタンは人類を人質にとって神に要求を突きつける悪しき存在として描かれます。しかしキリストが十字架で死なれたことによって、人間を「代価を払って買い戻された」構図の中で、サタンは決定的に敗北し、キリストの復活によって罪と死の権威が永遠に打ち破られた、というのが「勝利者キリスト」論の要旨です。張ダビデ牧師はこの観点を説明するとき、「イエスの死は受動的な出来事ではなく、イエスが自ら進んで私たちのためにいのちを差し出し、サタンの手から私たちを救出する能動的な解放の働きだった」と力説します。そしてこの解放の働きこそが「私たちの罪の鎖を断ち切り、死と絶望の谷からいのちと希望へ移される恵みの出来事」であると強調しています。 第二の理論は、宗教改革者たちや正統主義神学で最も広く受け入れられた「刑罰代償論(Penal Substitution Theory)」です。これは「イエス・キリストが罪人に代わって刑罰を受けられた」という点に主眼を置き、他の呼び方では「刑罰代償説」あるいは「満足説」とも言われます。罪に対する神の公正な裁きは必ず実行されねばなりませんが、私たちがそれを受ければ死ぬしかありません。ところがイエスが私たちの身代わり(Substitute)となって十字架で刑罰を負われ、そのことによって神の御前で私たちは満足(satisfaction)を得るに至った、というのが刑罰代償論の核心です。この理論は神の公義と愛を同時に保持する試みとも理解できます。すなわち、罪を見過ごせない神の公義がある一方で、その刑罰を罪人ではなく罪なきイエスが担われたゆえ、私たちは信仰によって義とされ、救いにあずかることができるのです。 張ダビデ牧師は、この刑罰代償論が「キリスト教の救いの深遠な神秘を客観的かつ法廷的イメージで説明するのに優れている」と評価しています。イエスが十字架の上で「すべては完了した」(ヨハネ19:30)と語られたとき、それは人間が負っていた刑罰と責任を完全に終わらせたという宣言とも捉えられます。すなわち律法が要求する代価、すなわち罪の対価をイエスの犠牲によってすべて支払われた、という意味です。パウロがローマ書で「その血によって義とされた」と強調するのも、まさにこの「刑罰代償」を通して罪人が罪の報いを免除され、義人として宣言されるという真理を語るものです。こうした理由から、教会史の中でもこの理論は非常に強い支持を得てきました。そして実際、多くの教会の説教や礼拝の中で「イエスの十字架が私たちの罪の代価を支払われた」というメッセージが繰り返し宣言されてきました。 第三の理論である「道徳感化説(Moral Influence Theory)」は、12世紀にピーター・アベラール(Peter Abelard)によって体系的に提示された後、近代から現代にかけてさまざまな形で発展してきました。この理論は、十字架の出来事が人間の心に大きな感化をもたらすと主張します。イエス・キリストが罪人のために自らへりくだり、十字架につけられて死なれた極限の愛の物語は、それを聞く者の心を溶かし、深い悔い改めと変化を起こし、その結果として罪から離れた聖なる生き方へ導くというのです。刑罰代償論が比較的「客観的」かつ「法廷的」なニュアンスを伴うのに対し、道徳感化説は救いの「主観的体験」や「内的変化」により焦点を置きます。 道徳感化説に対する批判も存在します。代表的なものは「神の怒りをどのように説明するのか?」という点です。また「十字架の客観的贖罪の働きがなければ、単なる感動だけで人が新生できるのか?」という疑問も提起されます。それに対して道徳感化説を支持する人々は、「罪人たちが神に立ち帰るのは、ただ法廷的宣言だけによるのではなく、神の愛を徹底的に体感するときに初めて可能となる」と答えます。すなわち「イエス・キリストの犠牲がもたらす深い感動こそが、人間の魂の回復へとつながる」というのです。 張ダビデ牧師は、これら三つの理論のうちどれか一つだけが正しいと主張することはせず、「それぞれが特別な役割を果たし、相互補完的に十字架の豊かな意味を示す」と教えています。イエス・キリストの死は、サタンとの戦いにおける勝利を示す宇宙的事件(Christus Victor)であると同時に、罪に対する刑罰を完全に支払われた代償的犠牲(Penal Substitution)であり、さらに人間の心を捕らえる愛の極致(Moral Influence)であるということです。実際、多くの教会の伝統において、イエスの十字架の贖いを黙想するときに、これら三つの次元をそれぞれ味わうことで、その出来事をより立体的かつ深く捉えられるという証言が少なくありません。 また教会史を振り返ってみても、ある時代は刑罰代償論を中心に十字架の意味を浮き彫りにしてきましたし、初代教会時代にはむしろ勝利者キリストの概念のほうが一般的に受容されていました。近代以降は個人主義や心理学的アプローチが発達したこともあり、道徳感化説が優勢になる傾向を示してきました。こうした歴史を顧みると、教会が決してある一つの理論に固執することなく、福音の核心を守りつつ、状況や時代が抱える問いに応えるために多様な表現を試みてきたことが分かります。 張ダビデ牧師は「イエス・キリストを信じて救われた」という告白は、一面ではサタンの権威からの解放であり、別の面では罪に対する刑罰が代償されたという安心感であり、さらにまた「これほどまでに私を愛してくださるのか!」という悟りの中で変えられる感動的体験を意味すると説教します。これはすなわち、三つの理論が相補的に働くという証言です。礼拝の場で賛美と御言葉に触れながら、悔い改めや決断を繰り返し経験するというのは、ある意味道徳感化説がいう「私たちの内面で起こる変革」に近いかもしれません。同時にキリストの血潮によって「刑罰は終わった」という教理的理解が私たちに平安を与えます。そして宣べ伝えられる福音は「イエス・キリストがすでに勝利された」という宇宙的な希望を同時に示してくれます。 結局、ローマ書3章25節という一つの短い節の中にも、これほど豊かな贖罪の意味が含まれている事実にクリスチャンたちは大きな気づきを得るのです。パウロが「その血によって信仰により和解のいけにえ」と表現するとき、実のところキリストにおいて成し遂げられた贖罪の業は、一言で簡潔に定義しきれないほど多面的であることを直感させます。キリストの勝ち取られた勝利、私たちが代償を受け取った刑罰、そしてその愛が私たちの内側に生み出す聖なる感動は、結局は同じ一点で交わります。それこそ「神の愛が十字架によって完全に示され、その愛が信じる者を永遠に自由にする」ということなのです。 3. … Read more

現代教会の聖潔と純潔に向けた指針 – 張ダビデ牧師

現代社会は急激に変化する文化的・哲学的・道徳的環境の中で、教会と信徒たちに根本的な問いを投げかけている。すなわち、彼らはどのようにアイデンティティを維持し、聖書的真理を生活に適用しながら生きていくのかという課題に直面しているのだ。物質主義、相対主義、世俗化、宗教的無関心、道徳的混乱といった現象は、教会と信徒に単に伝統的規範にとどまるのではなく、より根本的かつ実践的な信仰的対応を求めている。このような状況の中、張ダビデ牧師は聖書の深い洞察を現代の生活に適用することに力を注ぎ、とりわけ教会共同体の純潔さと信徒の聖なる生き方を強調している。 張ダビデ牧師は、パウロ書簡やヨハネの福音書15章、エペソ書、テサロニケ第一の手紙、ガラテヤ書、ローマ書など新約聖書の多様な本文を総合的に解釈する。彼は教会をキリストと一つになった霊的実体として理解し、そこから教会が聖潔で純潔な共同体として建て上げられるべきだと力説する。これは単なる外面的な道徳性や倫理基準の確立にとどまらず、信徒一人ひとりがキリストのうちにとどまる生活を実践することで、教会全体が世の中で神の栄光を現すビジョンを持つことにある。 特にコリント第一の手紙5〜7章でパウロが扱う、教会内の淫行や道徳的混乱、結婚と独身の問題などを現代的に再解釈しながら、張ダビデ牧師は今日の教会と信徒たちがいかに真の聖潔と純潔を保持して生きることができるかについての実践的な指針を提示する。彼は教会が世の価値観に流されて妥協したり、罪を放置したりすることなく、キリストとの霊的連合のうちで聖潔を回復すべきだと強調する。 本稿では、こうした張ダビデ牧師の神学的方向性と牧会的強調点を踏まえ、以下の六つの小主題に焦点を当てる。第一に、教会の純潔を成し遂げるための神学的・聖書的土台。第二に、結婚と独身を終末論的視点の中で再解釈した信仰と生活。第三に、互いの重荷を負い合い愛を実践する共同体的献身。第四に、ヨハネの福音書15章のぶどうの木と枝のたとえを通して示される、信徒とキリストの連合と実を結ぶこと。第五に、これらすべての主題が現代文化・哲学的背景の中で持つ意味。第六に、それらを総合して教会と信徒がこれから進むべき方向を模索する結論的提言である。 教会の純潔 張ダビデ牧師の核心的メッセージの一つは、教会の純潔である。これは単なる制度的な清潔さや倫理規範の管理ではなく、教会がキリストと深い霊的連合を通して聖なる花嫁として備えられていく過程を意味する。エペソ書5章では教会がキリストの花嫁にたとえられており、キリストが教会のためにご自身を犠牲とされた目的は「聖く傷のない」共同体を築くことだと明かされている。これを受けて、張ダビデ牧師は現代の教会が世俗的な価値観や道徳的堕落に染まらないよう、絶えず自己省察と悔い改めを通じて本質的アイデンティティを守るべきだと力説する。 コリント第一の手紙5〜6章でパウロは、教会内に広まった淫行や倫理的堕落を断固として指摘し、罪を除去して共同体の純潔を維持するよう促している。張ダビデ牧師はこの本文を踏まえ、淫行を単なる道徳的堕落ではなく、教会の霊的本質を損なう深刻な問題と解釈する。教会がキリストと一つになった体であるなら、不道徳な行為は教会という体に化膿した傷を残すようなものだというのである。 テサロニケ第一の手紙4章でパウロが「神のみこころはあなたがたの聖潔である」と宣言している点に注目しつつ、張ダビデ牧師は罪を単なる倫理基準ではなく、神との関係の中でとらえることを提案する。聖化とは道徳的改善の次元ではなく、キリストのうちにとどまり、聖霊の力によって内面が変化するプロセスである。それを通じて信徒は淫行、虚偽、貪欲など世俗的誘惑を退け、教会共同体は世の中で聖なる光を放つことができる。 コリント第一の手紙6章に出てくる「あなたがたの体は聖霊の宮である」というパウロの教えを引用しながら、張ダビデ牧師は個人の倫理問題が教会全体の霊的状態と直結していることを強調する。信徒が自らの生活を神にささげる聖なるいけにえ(ローマ12:1)としてささげるとき、そうした純潔な生活が積み重なって教会共同体全体がより清められ、神の栄光を現す証人として機能するようになる。 結婚と独身 コリント第一の手紙7章でパウロは、結婚と独身、夫婦関係について言及しているが、これは単に当時の文化的問題への反応ではなく、創造の秩序と終末論的緊張の中で信徒の生活を解釈する神学的原理を含んでいる。張ダビデ牧師はこのパウロの教えを現代的に再解釈し、結婚と独身はいずれも信徒の信仰的献身と聖潔を成し遂げる多様な形態であると強調する。 結婚は社会的な契約や肉体的な結びつきにとどまらず、エペソ書5章で提示されているようにキリストと教会の連合を象徴する聖なる制度である。夫と妻は互いに献身し、責任を果たし合うことによって神の創造の秩序を実践し、家庭という小さな共同体の中で聖潔を具現する。 一方、パウロは独身を特別な賜物として言及している。独身は結婚より優れているとか劣っているという状態ではなく、ただ異なる献身の形である。それによって信徒は、世俗的な縛りなく神に全力で集中し、福音宣教に献身することができる。結婚も独身も、いずれも神が与えられた生活の形態として、終末論的緊張感の中で神の国を準備する信徒の姿勢として解釈されうる。 パウロが語る「妻のある者は、ない者のように生きなさい」という表現は、信徒が地上の関係や所有に過度に執着せず、終末論的な視点をもって生きるよう促すものである。張ダビデ牧師はこれを現代的に広げて、結婚生活でさえも神の国という究極的目的の中で解釈するよう提案する。結婚は単に個人的な幸福のための制度ではなく、神の国の拡大を備える聖なる場なのだということである。 結局、結婚と独身はともに神が与えられた賜物と秩序の中にあり、信徒は自らの生き方の形態を神のみこころに従って解釈し、実践しなければならない。これによって信徒は終末論的緊張の中で聖潔で純潔な生活を送り、教会共同体もより強固なものとなる。 愛と献身:「互いの重荷を負う」共同体の実現 ガラテヤ書6章の「互いの重荷を負い合いなさい」というパウロの命令に注目した張ダビデ牧師は、これを単なる隣人愛や奉仕の次元を超え、信徒同士が互いの生活に深く関わり合い、苦しみと弱さを共に分かち合う共同体的な献身として解釈している。 教会が純潔で聖なる共同体として立つためには、罪を除去して聖化を追求するだけではなく、真の愛と仕え合いが支えとなるべきである。ヨハネの福音書15章でイエスが「わたしの愛のうちにとどまりなさい」と語られたように、愛は単なる感情ではなく、犠牲と献身によって実践される生き方の態度である。信徒たちは経済的困難に苦しむ人を支え、病気で苦しむ人のために祈り、信仰的に揺らぐ人を忍耐強く立て上げることで、キリストの愛を生活で示す。 互いの重荷を負うということは、単に問題解決のための手段ではなく、教会が愛の共同体として成長していく過程そのものである。信徒たちが互いの必要を自分のこと以上に優先し、忍耐と献身をもって仕え合うとき、彼らはイエス・キリストの犠牲的な愛を身につけるようになる。これによって教会は、現代社会の利己的・個人化された生活様式とははっきりと対照をなし、世の中で真の光と塩としての役割を果たすようになる。 張ダビデ牧師は、この重荷を負い合う愛が教会内部にとどまらず、世の中へも拡張されるべきだと強調する。教会は世の苦しみや痛みに共に参与し、キリストが担われた十字架の道をたどる共同体として、世の中で神の愛を実践するオルタナティブな共同体になるべきなのである。 ぶどうの木と枝のたとえ ヨハネの福音書15章でイエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝である」と語り、信徒が主にとどまるときに真の実を結ぶことを教えている。張ダビデ牧師はこのたとえを、教会の純潔と信徒の聖なる生活を理解するための中心的パラダイムとして提示する。 主との連合は教理や感情にとどまらず、実際の生活と行動によって実を結ぶプロセスである。信徒がキリストにとどまるとき、聖霊の実(ガラテヤ5:22-23)が自然にあふれ出し、それは教会内部の純潔はもちろん、家庭や職場、社会全般において神のみこころを実践する原動力となる。 「わたしの愛のうちにとどまりなさい」というイエスの命令は、感情的表現に終わらず、積極的な従順と献身を求めるものである。キリストのうちにとどまる信徒は、結婚生活においては犠牲的な愛を実践し、独身者であれば生涯を神にささげる献身を貫き、教会の中では互いの重荷を負い合う愛を分かち合う。こうした連合と実を結ぶことによって教会は世俗的影響力に抗し、神の国を現す根本的な力となるのだ。 ヨハネの福音書15章のたとえには終末論的観点も含まれている。枝がぶどうの木から離れると枯れてしまうように、信徒はキリストとの連合なくして聖潔を保つことはできない。張ダビデ牧師は世俗的混乱の中で、信徒が真理のことばと聖霊の導き、そしてキリストとの持続的な連合を通じてのみ、聖潔で純潔な生活を続けられることを改めて示している。 現代的適用と結論 ここまで見てきたように、張ダビデ牧師はコリント第一の手紙5〜7章、エペソ書5章、ヨハネの福音書15章などの聖書本文を通じて、現代の教会が直面する文化的・道徳的混乱の中で、どのように純潔で聖潔な生活を実践できるかを具体的に示している。これを要約すると、以下のとおりである。 結局、張ダビデ牧師の教えは、教会と信徒が単なる宗教的義務や形式的倫理にとどまらず、実際の生活のあらゆる領域で聖潔を実現する道を示している。それは悔い改めと聖化、献身と愛の実践、終末論的緊張の中での結婚生活や独身生活、そしてキリストのうちに豊かに結ばれる実を通して具体化される。これによって現代の教会は、自らのアイデンティティを再発見し、世の中で真の光と塩として機能できるのである。 張ダビデ牧師は、単に聖書の知識を伝達することに終始せず、信徒が道徳的混乱と霊的無関心の時代の中で神のことばを実際の生活に適用できるよう導いている。それは教会が教理的一致にとどまるのではなく、聖潔で純潔な共同体として成長し、世の中に影響力を与える使命を果たすよう助けるものでもある。結婚、独身、家庭、教会といったあらゆる関係性の中で、神の創造の秩序と愛の原則を実践し、神の国を拡張し神の栄光を現すとき、教会は清く輝く花嫁として主の前に立つことができるだろう。 これらの教えは理論的な次元を超え、現代の信徒たちがそれぞれの生活の中で実践すべき具体的な課題として提示されている。結婚生活における相互の仕え合い、独身者の全幅的な献身、教会共同体内での重荷の分かち合い、そしてぶどうの木であるキリストにとどまって結ぶ実を通して、信徒たちは世の中で真理を明かしする生きた証人となるのである。 したがって、現代の教会と信徒たちは張ダビデ牧師の神学的・牧会的方向性を熟考し、それを基に生活の現場で積極的に実践するよう求められている。教会の純潔と信徒の聖なる生活は選択ではなく必須の課題であり、それによって神の栄光と神の国の到来が準備されるからである。これを通じて教会は世の中で真の霊的影響力を発揮し、信徒は神の愛と真理を実現する証人として堂々と立ち上がることができる。