
張ダビデ牧師が使徒の働き8章1–5節を中心に説教・講義した内容をもとに、本稿では本文が語る初代教会の歴史と福音の伝播、そしてその精神を現代教会がどのように受け継ぎ、適用できるかについて神学的・実践的考察を試みる。また、張ダビデ牧師が強調してきた「真の福音」と「歴史を貫く神の国」の視点を軸に、患難の中でも前進していく福音の力と、教会の新しい時代的パラダイムを提示したい。
1. 初代教会の迫害、散らされること、そして福音の拡大
使徒の働き8章1–5節は、初代教会が経験した激しい迫害と、それによって教会が散らされる場面を証言している。特に使徒の働き7章で石打ちの刑により殉教したステパノの死後、教会共同体に対する大規模な弾圧が始まった。ステパノが死ぬや否や、多くの聖徒たちは激しい恐怖を抱き、エルサレム教会を対象にした過酷な迫害が起こる。そこには「使徒たち以外はみな散らされた」というほど、教会共同体は各地域へと散っていかざるを得なかった。さらに、その過程でサウロ(後のパウロ)が教会を滅ぼそうと、家々を捜し回り、男女を引き立てて牢に入れるということまでも起こった(使徒8:3)。当時迫害を受けた聖徒たちは、大洪水に流されたかのように、ばらばらに散らされるしかなかったのである。
しかし使徒の働き8章は、この「散らされること」が決して福音の後退や失敗を意味しなかったことを明確に示している。聖徒たちは各地に逃れるように身を潜めても、そこで彼らは「御言葉の福音を伝え」た(使徒8:4)。人間的に見れば「悲しみと恐れに打ちひしがれた魂たち」の移動であったが、神の視点からすれば、この出来事は福音の地境を広げる火種となったのだ。エルサレムとユダヤ地方を越え、サマリアにまで至る福音伝播が本格化し、この過程を通じて神の国はさらに広い地域へと伸びていった。
この箇所は、イエスの大宣教命令(Great Commission)をあらためて思い起こさせる。イエスは昇天の際に「あらゆる国の人々を弟子とし、父と子と聖霊の名によってバプテスマを施し、あなたがたに命じたすべてのことを守るように教えなさい」(マタイ28:19–20)と言われたが、使徒の働き1章8節ではさらに具体的に「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となる」と明言される。初代教会の聖徒たちは、エルサレム教会が成長し、ある程度根づいた時点で、自分たちが本格的に地の果てへ出て行かなければならないという明確な使命を与えられていたにもかかわらず、しばらくは一か所にとどまって安住していた可能性が高い。ところが、ステパノの殉教と迫害によって、彼らは否応なく散らされることとなり、その結果、福音伝播の視野はエルサレムを越えて拡大されたのである。
この場面を教会史研究者たちは「サタンの逆説的失敗」と呼ぶことがある。悪しき勢力が教会を弾圧して福音を阻もうとしたが、その弾圧そのものがむしろ福音を広範囲に拡散させる結果をもたらしたからである。人間の恐れや悲劇が、神の摂理のうちでかえって救いの歴史を進展させる鍵となったのだ。これは初代教会の時代だけでなく、教会史全体を通じて何度も現れたパターンである。教会が苦難に遭うほど、福音はさらに遠くへ拡がり、聖霊の力に支えられた聖徒たちは、散らされた先で新しい教会を建て、福音を伝えた。
このような歴史的パターンは、今日においても大きな示唆を与える。迫害の程度や形は変わったが、教会が世の中で経験する困難や迫害は今なお存在する。同時に教会内部にも、歪んだ思想や福音を曇らせる異端的流れ、あるいは偏狭な教権主義や物質的・人間的欲望などが入り込むときがある。初代教会の時代には、仮現説(ドケティズム、Docetism)やグノーシス主義(Gnosticism)などの誤った思想が信徒たちを惑わせた。グノーシス主義者たちは「救いに至るには、自分の内にある神的なパーティクル(particle)を発達させ、完全な境地に到達しなければならない」と主張し、恵みと信仰による救いの福音を揺るがした。このような内部的挑戦と外部的迫害の中でも、初代教会は最終的に「正しい福音」を守り抜き、かえって全世界へと伸びていく原動力を見いだしたのである。
張ダビデ牧師は、こうした初代教会の姿に注目しながら、「教会が世から患難を受けることはあっても、真の福音伝播の使命が消えることはない」と強調してきた。牧師によると、神は教会が栄光のうちに働くこともできるが、苦難のうちにも驚くべき方法で福音を展開される。聖霊は、否応なく散らされる状況にあってさえ、各人の心に共におられ、その教会共同体が散らされた場所で新しい歴史と出会うように導かれる。そういう意味で「迫害や患難が、決して福音伝播の原動力を失わせることはない」という信念を持ち、宣教現場における挑戦や逆境を「新たな機会」と解釈し受けとめる教会論を提示している。
実際、使徒の働き8章4節、「その散らされた人たちは、御言葉を伝えながら巡り歩いた」という一節は、「散らされること」が「消えること」ではなく「拡大」であったことを明確に示している。人間の目には敗北のように見えるかもしれないが、神はこの広範な移動と再配置を通じて、さらに多くの人に福音を証しするようになさった。当時サマリア地方は、ユダヤ人が汚れた地とみなす地域であり、社会的・宗教的にユダヤと葛藤してきた歴史があった。しかしピリポがサマリアの町へ下って「キリストを人々に宣べ伝え」(使徒8:5)たとき、そこでも多くの人々が福音を受け入れ、イエスを主と告白した(使徒8:5以下)。この出来事は、地理的・文化的境界を超える福音の力を証ししている。
現代の教会も同様に、世界が急激に変化し、予期しない試練が押し寄せる時——たとえば世界的に猛威を振るったコロナ禍のような患難の時代——礼拝の形態や教会の活動が大きく制限されることがある。だが、教会が「迫害」であれ「患難」であれ、何らかの形で経験する困難を神の壮大な目的の中で見つめるならば、それは最終的に新しい形態の福音伝播と教会共同体形成へとつながりうる。
張ダビデ牧師は「教会が患難に遭って粉々に散らされるような状況にあっても、聖霊がおられる教会は決して倒れない」という確信をたびたび強調する。聖霊は人を集めてくださるだけでなく、散らすこともされる方であり、「見える教会(visible church)」と「見えない教会(invisible church)」の両方を包含される。現代教会が礼拝堂の建物や制度的枠にとどまらず、時代の変化に応じて福音をインターネットやメディアを通じて伝え、多様な文化的・社会的接点を活用して「見えない教会」を広げていく必要があるというのだ。これは初代教会の時代、聖霊が散らされた者たちと共におられ、彼らが行く先々で新しく生まれる教会を誕生させた原理と通じている。
使徒の働き8章から確認できるもう一つの重要な事実は、教会が「患難でもなければ動かない」姿があるという点についての反省である。もし迫害がなかったとすれば、安心に浸ってエルサレム教会だけに留まり続けたかもしれない。ところが神は、迫害という極端な状況を通じて聖徒たちを世界の隅々へ送り出される。この点について張ダビデ牧師は「もし私たちが喜びの歌を口ずさみつつ自発的に散らされていくなら、どんなに素晴らしいことか」とよく力説する。つまり、追い立てられるのではなく、福音の緊急性と神の国への熱情に突き動かされて自発的に出て行く「従順の子ども」となるべきだというのである。マタイの福音書21章28–30節でイエスがお話しされた二人の息子のたとえのように、口先だけで行かない息子ではなく、行動に移す者となってこそ、教会は一時的な患難にも揺るがない。
患難のときにやむを得ず身を避けるように福音を携えていくのではなく、ふだんから既に「いつ、どこにでも遣わされる準備ができている」状態であるべきだというメッセージである。パウロもまた後年、ローマ皇帝の迫害下にあってもひたすら手紙を書き教会を牧し、獄中にあってさえ福音を伝え続けた(ピリピ1:12–14)。初代教会のこのような姿は、時を経ても変わらない福音伝播の原型質といえる。
さらに、教会が文化的・地域的特性に応じて多様な形で建てられるべきだという点も注目に値する。当時サマリアに下ったピリポの働きは、エルサレム神殿を中心とする伝統的ユダヤ教慣習とは異なる、新たな文化的文脈へ福音を植えた事例である。これと同様に、パウロはガラテヤ、エペソ、コリントなど、それぞれ異なる都市・文化圏に教会を建てる際、その地に合ったアプローチで福音を伝えた。ローマ書12章、コリント第一12章、エペソ4章などでも、教会の多様性の中の一致が強調されており、各地域教会がキリストのからだとして機能しつつも、その形や構造は画一的ではない姿が示される。
張ダビデ牧師は、ポール・ティリッヒ(Paul Tillich)の名言「宗教は文化の本質であり、文化は宗教の形式である(As religion is the substance of culture, culture is the form of religion)」をしばしば引用し、「福音という本質は決して変わらないが、それを包む文化という衣装は時代や場所に応じて変わりうる」と解釈する。今のように急激にデジタル化が進む時代には、SNS、ストリーミング、オンライン・コミュニティ、ビデオ会議などさまざまなメディアが「福音を包む衣装」となりうる。福音そのものを変質させることは決して許されないが、伝播の形態や教会共同体の組織の仕方は、いくらでも異なる形を適用できるというわけだ。初代教会が使徒の働き8章以降、徐々にユダヤ・サマリアを越えて小アジアやローマに至るまで、各地域の特性を反映して福音を伝えたように、現代教会も新しいメディアや方法、さまざまな文化領域を積極的に活用すべきだと牧師は主張する。
さらに、現代教会が直面するもう一つの課題は、「個人の救い」と「歴史の救い」とを共にバランスよく見つめることである。聖書全体が証しする大きな主題は、創造、堕落(罪)、救い、そして神の国の回復である。ヨハネの黙示録21章で、すべての涙をぬぐい、死もなく、悲しみも叫びもない世界が約束される神の言葉は、「失われたエデンの園を回復するプロセス」を最終的に示している。このように壮大な歴史観をもって聖書を理解するとき、個人が救われることだけでなく、この地上の歴史に神の国が到来することを同時に夢見るようになる。
張ダビデ牧師は、このような歴史意識が現代教会でさらに強調されるべきだと語る。初代教会の弟子たちがイエスに「イスラエルの王国を再興してくださるのはこの時ですか」と尋ねたとき(使徒1:6)、イエスは「時や期は父のご自身の権威において定められている」と答えつつも、「地の果てにまでわたしの証人となれ」と命じられた。この地の歴史の中に福音が成長し、神の国は究極的に完成するという希望のうちで、教会は絶えず次世代を起こし、全世界のあらゆる民族に福音を伝えることに専念すべきである。単に教会堂の中にとどまったり、教勢拡大だけを追求するのではなく、歴史の大きな流れの中で「魂の救い」と「神の国の拡大」という目標に向かって走る共同体であるべきだというメッセージが、使徒の働き8章にも示されているのだ。
要するに、初代教会はステパノの殉教を契機に吹き荒れた大規模迫害によって聖徒たちが四方に散らされたが、この散らされることこそがかえって福音伝播への決定的な扉を開くことになった。神は反対や迫害を通してさえ、そのご計画を進めていかれ、聖霊の力によって散らされた聖徒たちの口と足、そして生活をとおして、新たな地域に福音の種が蒔かれたのである。教会は強制的に追いやられるのではなく、自発的従順と正しい歴史理解をもって喜んで「地の果て」へと進むべきである。これこそが使徒の働き8章1–5節に描かれる初代教会の姿であり、また張ダビデ牧師が常に強調してきた福音伝播の精神でもある。
2. 現代教会の挑戦、新たな福音伝播の形
使徒の働き8章を通して確認した初代教会のダイナミズムと聖霊の御業は、今日の教会にも依然として有効である。問題は、時代がまったく異なる局面へ突入しているという点だ。教会が建った1世紀の地中海世界と比べ、現代の人類は技術、文化、経済、政治、社会のあらゆる側面で想像を絶する変化を経験してきた。コロナ禍を経て、多くの教会は従来の礼拝形態や集会方式を維持できなくなり、急速にオンライン礼拝や非対面の集いを試みざるを得なくなった。ある地域では集まれない期間が長引き、教会員が教会を離れたり、信仰を失うケースも少なくなかった。一方で、「対面礼拝」に固執しすぎて社会的批判を浴びた例もある。こうした激変する環境の中で、教会がどう福音伝播の使命を引き継いでいくのかが大きな課題となった。
張ダビデ牧師は、長年にわたり世界各国で宣教と牧会活動を重ねる中で、「教会は建物から出て、人々の実際の生活領域の中へ、そしてメディアの場へと、さらに深く入り込むべきだ」と主張している。かつては「美しい足」を持って遠い国へ直接行かなければ(ローマ10:15)福音を伝えられなかったが、現代では「メディア」がその足の役割を代替しうるからだ。インターネットやSNS、モバイル端末の発達によって、教会は人が直接来なくても福音を伝えられる強力な道具を手にした。大切なのは「どのようなメッセージを、どう伝えるか」であり、そのメッセージの核はいつでもイエス・キリストの十字架の福音と神の国という不変の真理でなければならない。
実際、張ダビデ牧師は「Moving Forward」というスローガンのように、教会が後退や停滞をせず、常に前進し続けるべきだと強調する。迫害が来れば迫害の中で、患難が来れば患難の中で、平安な時期が来れば平安の中で——どのような状況にあっても教会は決して福音伝播のエンジンを止めるべきではないというのだ。一見すると初代教会のように「散らされる教会」になると弱体化するかのように思われるが、むしろその散らされることこそ「ネットワーク化」された再配置として作用する可能性がある。現代の教会は、SNSやオンライン・プラットフォームを活用して散らされつつも緊密に連結され、ちょうどエルサレム教会がステパノの殉教後に各地域へ広がっていったのと似たかたちで福音を伝えることができるのである。
この「新しい教会の形」は、単に集会をオンラインに移行するだけを意味するのではない。教会運営、弟子訓練、伝道・宣教などのすべての側面で、デジタル環境を教会本来の使命と創造的に結合する必要があるということだ。かつて初代教会が会堂と神殿、そして家庭集会など多様な形を行き来して人々を教えたように、現代教会も礼拝堂、オンライン、家庭、地域コミュニティセンターなど、さまざまな空間を活用して福音を蒔かなければならない。その過程で献金、財政運用、人材育成、聖餐や洗礼といった聖礼典の進め方など、伝統的教会が長く慣れ親しんできた要素をどう再解釈し適用していくかは、非常に神学的かつ実践的な課題となる。
張ダビデ牧師は「教会の本質に対する明確な認識」を強調する。教会の本質、すなわち「キリストのからだであり、聖霊の宮であり、世の中で神の国を証しする共同体」であるという事実をしっかりとつかんでいれば、衣装のような外形的文化形式が変わることを恐れる必要はないというわけだ。彼はこれを次のように要約する。
- 本質は絶対に変わらない。
イエス・キリストによる救い、十字架と復活の福音、聖霊の内住、神の国完成への希望など、キリスト教信仰の核心教理は時代を超えて変わらない。 - 形式は変わりうる。
礼拝堂中心の礼拝からオンライン礼拝へ拡張することや、日曜日一回の集会形態から平日の小グループや地域共同体活動へ広がること、あるいは教会の財政運用方式が変わることなどは、本質と衝突しない限り、すべて「文化の衣装」に属する。 - 聖霊の声に従順でなければならない。
迫害があろうと患難があろうと、あるいは教会が比較的平穏で社会的信頼を得ていようと、大切なのは聖霊の導きである。聖霊はときに散らされるよう導き、ときには集まるようにも導き、「どのように、どこで、誰に福音を伝えるのか」を具体的に示される。ピリポがサマリアに導かれて福音を宣べ伝え(使徒8:5)、さらにエチオピアの宦官の車に近づいて御言葉を教えたように(使徒8:26–39)、現代の教会も聖霊の導きに沿って動かなければならない。 - 新時代に合った教育と弟子養成が不可欠である。
初代教会は神殿で礼拝をささげつつも、会堂で御言葉を教え、家庭や小さな集まりでも絶えず学びを続けた。ユダヤ人には子どもを教育する伝統が既に強固にあり、会堂教育が有効に機能できた。現代教会も、時代の変化に合った教育プラットフォーム、青少年・青年向けの働きモデル、オンライン聖書勉強、メディア活用などを開発しなければならない。これがなければ、急変する世の中で次世代に福音を継承することは難しい。
張ダビデ牧師はこのような原則のもと、「デザイナーやITワーカーを重んじなさい」と強調する。福音伝播の「美しい足」が、いまやITインフラとデジタル・コンテンツになりうるからだ。教会がこの「新しい足」を有効に生かすためには、それをリードする人材が必要であり、そうした人材が実力を発揮してデジタル宣教を活性化させる必要がある。クリスチャンのデザイナー、映像編集者、IT専門家、オンラインマーケターなどが教会の中で自分の才能を奉仕や宣教に結びつければ、世界中どこへでも即座に福音を届けられる窓口を開くことができる。
あわせて、彼は「教会が一つのプラットフォームにならなければならない」とも主張する。初代教会は信徒たちが財産を共有し(使徒2:44–45)、使徒の教えを共に学び(使徒2:42)、互いに助け合い、交わりをもった。今日の教会も、こうした「つながり」と「ケア」の機能をデジタル環境で実装できるようになるべきだ。オンライン・プラットフォームを通じて、信徒たちが御言葉を学び、互いのニュースを共有し、地域社会の困窮者を助け合い、個別相談や祈りの要請をできるように支援する。こうして教会がプラットフォーム化されるなら、物理的空間の制約や距離という壁を乗り越え、はるかに多くの人々に福音を伝えられ、同時に信徒間の交わりを豊かにできる。
さらに、張ダビデ牧師は教会が「神がすべての民族に与えられた救いの歴史の流れの中にある」という「歴史神学的」視点を常に忘れてはならないと説く。これは使徒の働き1章8節に語られた「地の果てにまでわたしの証人となる」という言葉ともつながる。単に地域教会だけを成長させるのではなく、地上のすべての民族と国が福音を聞くことができるよう、教会は絶えず備え、派遣されなければならないというのである。
そのために必要とあれば、教会は各国に合った「現地化された形」で建てられるべきだ。食文化、衣服、言語、インフラ環境などはそれぞれ異なるが、どの地域教会でも福音を伝え共同体を維持するために、その現場状況に合う形で適応する必要がある。これは、初代教会がエルサレム、ユダヤ、サマリア、小アジア、ローマなど、互いに異なる文化圏に合わせて教会モデルを変えたことを想起させるし、パウロがローマ市民権者でありながら同時にユダヤ人のアイデンティティも活用しつつ、幅広く福音を伝えた例を思い起こさせる。
今日ではインターネットが、こうした「多様な文化圏」を一度につなげられる画期的な通路となっている。これによって宣教ははるかに迅速かつ広範に行われうる。たとえば、アフリカのある部族の村に宣教師が直接入っていく前に、オンラインのコンテンツや通訳付きの映像を通じて先に福音を紹介することができる。または、その地の小規模共同体がオンラインで訓練を受け、共に祈りや礼拝をささげることも可能だ。これを体系的に運営するためには、教会が「デジタル宣教センター」や「オンライン・ミッションスクール」のような組織を設け、教職者や宣教師を訓練しなければならない。張ダビデ牧師は、これを「新時代への道を備える教会」と呼び、「まもなく夜明けが来る」という確信のもと、教会が先んじて動くよう促している。
また彼は「終わりの日に福音が地の果てまで宣べ伝えられるプロセス」への積極的な参加の必要性を、絶えず提起する。初代教会以来行われてきた福音拡大がまだ完成していないこと、多様な障害と霊的戦いが残っていることを認めながらも、聖霊は教会を通じて働き続け、神の定めた時が来れば「すべての国の民に対して証しのために、まず福音が宣べ伝えられねばならない」(マルコ13:10)との御言葉のとおり、歴史的使命を担うことになるという見通しを示す。
結局、初代教会が有していた霊的DNA――迫害や患難を恐れず、むしろそれを福音拡大の足がかりとした不屈の信仰、文化や地域の境界を超えて喜んで散らされていった宣教精神、聖霊の導きを絶対的に信頼した従順――が、現代教会にも必要だという結論に至る。張ダビデ牧師は、このDNAを現代的に再解釈し、メディアやIT技術、オンライン・ネットワーク、さらには時代的文化トレンドを積極的に活用して全世界へ出ていく教会の形成を呼びかける。
肝心なのは「正しい福音」と「真の教会論」を堅持することである。いくら最新の技術やプラットフォームを用いても、福音そのものが曖昧になったり真理が歪められたりすれば、教会のいのちは失われる。逆に、福音の核心がしっかり立ち、教会の本質を守りながら、時代の変化に柔軟かつ巧みに対応し、多様な宣教活動を試みるならば、初代教会の「散らされながらも前進する教会」が現代にも力強く再現されうるのだ。
張ダビデ牧師は、教会が「刈り取りの時」を迎えているとよく口にする。多くの人々が精神的・霊的な渇きを覚え、人生の意味を求めてさまよう時代であるからこそ、教会が正確で温かい福音を提示すれば、多くの魂が帰ってくるという確信を持っている。使徒の働き8章8節以下で、ピリポがサマリアで多くの人を癒し福音を伝えたとき、「その町には大きな喜びがあった」と記されているように、このように喜びのない世に喜びがもたらされ、絶望にあるところに希望がもたらされることこそ福音宣教の核心であり結実である。
一方、教会がこのように「散らされる教会」かつ「ネットワーク教会」へと変貌していく過程では、内部的にさまざまな挑戦がついてまわる。既存の制度的教会内部でこうした変化を好意的に見ない向きもあるだろうし、物理的礼拝堂と共同体性を重視する伝統的信徒との衝突が起こるかもしれない。オンラインで聖餐や洗礼を行う問題、職分の任命や牧会的な戒規をどのように行うかなど、神学的議論もまだ十分に整理されているわけではない。それでも、張ダビデ牧師は「福音のため、そして神の国のためにこれらすべての議論を経ながらも、最終的には前進すべきだ」と強調する。
彼はこの状況を「エルサレム教会とサマリア、さらにはアンティオキア教会が直面した試行錯誤の現代版」と呼ぶ。ユダヤ人中心の初代教会が異邦人へ福音を伝えるなかで直面した文化的・神学的・実践的葛藤(使徒10章、ガラテヤ2章など)を思えば、教会の歴史はいつでも自己刷新と拡大を通して成長してきた。教会はキリストが再臨されるその時まで「完成された姿」で留まることはなく、不断に自らを改革し、福音の地平を広げていかなければならないのである。
結論として、使徒の働き8章1–5節に示される初代教会の「散らされつつ福音が拡大する」姿は、現代教会が進むべき道を照らす力強い灯火である。そしてその道にはいつも聖霊の御力が伴い、神は神の歴史を導いておられる。教会が聖霊に従って集まるときには集まり、散らされるときには散らされる。これを現代に適用するとき、「見えない(invisible)教会」と「見える(visible)教会」が同時に作動する時代的教会論が可能となる。また、個人の救いだけでなく歴史の救いを夢見る大きな視野の中で、この世の流れを聖書的視点から捉え、神の摂理に合わせてあらゆる国々へと進む「メディア時代の宣教」が大きく花開きうる。
張ダビデ牧師の提示する方向性は、要するに「状況に縛られず、むしろ状況を逆手にとって福音拡大を成し遂げよ」というメッセージに集約される。これは初代教会が迫害を「前進のきっかけ」としたように、現代教会も疫病や社会的制約、文化的偏見や不信の中であろうとも、なお「Moving Forward」し続けなければならないという意味である。聖霊は今も生きておられ、教会を通じて働かれ、失われた魂を捜し求める神なる御父の御心をすべての民族と列邦に示してくださる。教会はその招きに応え——散らされようとも集まろうとも、オンラインであろうとオフラインであろうと——絶えず福音を語り分かち合うべきなのだ。
使徒の働き8章でステパノの死を悼む大きな嘆きの後にも、ピリポがサマリアへ下り福音を宣べ伝えて喜びをもたらしたように、現代教会もむしろ困難な時代のただ中でこそ、喜びと希望のメッセージを証ししなければならない。目に見える迫害や患難が大きいほど、聖霊の臨在と御力はより力強く働きうることを思い出そう。だからこそ私たちはこの地上で巡礼者として生きながらも大胆になることができ、どのような形であろうと教会を存続させつつ福音を拡大していけるのである。そしてこのすべてのプロセスの背後には、初代教会の時代と同様に変わらず働かれる神がおられ、その神は張ダビデ牧師をはじめとするすべての福音の働き人に「行け、そして宣べ伝えよ」と命じておられる。迫害や患難によってではなく、愛と従順と喜びの原動力によって自発的に進んでいく教会でありたい。そうして韓国教会、世界の教会が使徒の働き時代のようなリバイバルと躍動感をもう一度回復し、「エルサレム、ユダヤ、サマリア、そして地の果て」に至るまで主の証人となる使命を全うすることを願う。
本稿の核心は、「初代教会の歴史を通して見る福音の拡大と、現代教会が直面する変化、そして張ダビデ牧師が強調する正しい福音と新しい教会のパラダイム」である。初代教会は迫害の中でも散らされることが福音拡大のきっかけとなり、聖霊の導きによってどこであっても神の国を伝えた。現代教会はまったく次元の異なる挑戦に直面しているが、依然として同じ聖霊と同じ福音を握っている。張ダビデ牧師はこの点を強調しながら、「教会はいまの時代に合わせて柔軟かつ力強く拡張していくべきだ」というビジョンを提示する。これこそが使徒の働き8章を詳しく読み解くことで得られる真理であり、私たち信仰共同体として実践すべき明確な方向性である。