L’Évangile éclos au sein des persécutions – Pasteur David Jang

Le présent texte s’appuie sur la prédication et l’enseignement du pasteur David Jang à partir d’Actes 8.1-5, en explorant l’histoire de l’Église primitive, la diffusion de l’Évangile et la manière dont l’Église contemporaine peut en recevoir et appliquer l’esprit. En s’inspirant de la perspective de David Jang sur le « véritable Évangile » et « … Read more

在逼迫中绽放的福音——张大卫牧师

本书基于张大卫牧师围绕《使徒行传》第8章1-5节的讲道与授课内容,探讨了经文所揭示的初代教会历史与福音传播,以及当代教会如何继承并运用其中的精神。同时,以张大卫牧师一直强调的“真正的福音”和“贯穿历史的神之国”这一视角为中心,展现了即使在患难中也不断推进的福音能力,以及教会在新时代背景下应当承担的新范式。 1. 初代教会的逼迫、分散,以及福音的扩张 《使徒行传》第8章1-5节见证了初代教会遭遇的严酷逼迫,以及因此教会分散到各地的场面。尤其在《使徒行传》第7章中,司提反被乱石砸死殉道后,针对教会群体的大规模镇压随即开始。司提反一死,许多圣徒感到极度恐惧,对耶路撒冷教会的迫害更加残酷,以至于“除了使徒以外,门徒都分散了”(参徒8:1),教会群体不得不四处逃离。在此过程中,扫罗(后来成为保罗)为了摧毁教会而挨家搜查,抓捕男女投入监牢(徒8:3)。当时,受逼迫的信徒们仿佛被大洪水冲击,被迫四散逃命。 然而,《使徒行传》第8章明确告诉我们:这种“分散”绝不意味着福音的退却或失败。纵使圣徒们为了避难奔向各地,也在那里“传扬福音的道”(徒8:4)。从人的角度看,这些人是“悲伤且胆怯的灵魂”在流离失所;但从上帝的视角来看,这一事件反倒成了拓展福音疆界的导火索。福音开始突破耶路撒冷和犹太地区的范围,正式传至撒马利亚,借此神的国得以向更广阔的地域扩展。 这一幕也再次让人想起耶稣的“大使命”(Great Commission)。耶稣升天时嘱咐门徒:“你们要去,使万民作我的门徒,奉父、子、圣灵的名给他们施洗,凡我所吩咐你们的,都教训他们遵守”(太28:19–20);在《使徒行传》1章8节中,耶稣更加具体地说:“要在耶路撒冷、犹太全地和撒马利亚,直到地极,作我的见证。” 初代教会的信徒们或许在耶路撒冷教会逐渐稳定、发展后,虽然领受了“直到地极”的使命,却在一定时期内仍留在一地安逸不动。直到司提反的殉道和随之而来的逼迫把他们“逼”得分散,最终推动福音向耶路撒冷以外的地区延伸。 有教会史学者将此称为“撒但的悖论性失败”。邪恶势力试图通过迫害教会来阻挠福音,结果却适得其反,反而让福音更加广泛地传播。人们的恐惧与悲剧,在上帝的主权和旨意中,却成为推进救恩历史的关键。此种情形不仅在初代教会时期出现,在整个教会历史中也屡见不鲜。教会越是遭受患难,福音就越广地扩散;倚靠圣灵大能的信徒们在分散之地再次建立新的教会,并传扬福音。 这一历史规律对于当今仍然具有相当的启发。虽然逼迫的方式和程度有所不同,但教会在世上仍会经历困难和冲突。同时,教会内部也可能混入扭曲的思想、异端势力,或流于狭隘的教权主义与物质、人的私欲。初代教会时代就曾有幻影说(Docetism)或诺斯替主义(Gnosticism)等错误思想迷惑信徒。诺斯替主义者宣称“若要得救,就要借由开发自身内在的某种神性火花(particle)达至完全”,从而动摇了“因恩典、因信得救”的福音。即便在如此严峻的内外挑战中,初代教会最终仍然守住了“真福音”,并且反而将福音传向全世界,找到了进一步前行的动力。 张大卫牧师常常关注初代教会的这些面向,并且强调:“教会或许会遭遇世界的患难,但真正的福音宣教使命却不会因此消失。”在他看来,上帝固然可以让教会在荣光中事奉,却同样能让教会在苦难中继续传扬奇妙的福音。圣灵在迫不得已的分散之际,仍与每个人同在,使得分散的教会群体在新的地方经历新的历史。因此,他始终抱持“逼迫和患难绝不会让福音宣教的动力消失”的信念,并以此塑造一种能够在宣教工场面对挑战与困境时,将其视为“新机会”的教会论。 实际上,《使徒行传》第8章4节“那些分散的人往各处去传道”的经文,最清晰地显示了“分散”并非“消失”,而是“扩张”。从人的眼光看,这似乎是一场失败,但上帝却借着这大规模的迁移与重组,让更多人能听到福音。当时的撒马利亚地区被犹太人视为“不洁之地”,在社会、宗教层面与犹太一方冲突由来已久。然而,当腓利下到撒马利亚城向群众宣讲基督时(徒8:5起),许多人在当地也接受了福音,称耶稣为主。这一事件证明了福音有跨越地理、文化障碍的能力。 当今教会也是如此。当世界瞬息万变、突如其来的危机袭来(如席卷全球的新冠疫情),以致教会的礼拜形式与活动方式受到极大限制时,只要教会能在上帝宏大的旨意中看待这些困难,它们或许会转化为新的福音传播和教会形成方式。 张大卫牧师经常强调:“即使教会在患难中四散,只要圣灵仍与教会同在,教会就不会倒下。”圣灵既能使我们聚集,也能引导我们分散,既掌管“看得见的教会(visible church)”,也掌管“看不见的教会(invisible church)”。这意味着当代教会不应只局限在教堂建筑或制度结构之内,而要顺应时代变迁,通过网络与媒体等多种渠道传福音,利用多样的文化和社会接触点来扩张“看不见的教会”。这与初代教会时圣灵与分散之信徒同在,使他们所到之处又诞生新教会的原则是一脉相承的。 同时,《使徒行传》第8章还带给我们另一项重要启示:教会“若非遭到逼迫,就很可能止步不前”。假使没有逼迫,教会或许会一直安逸地留在耶路撒冷,不愿外出传福音。然而上帝却允许极端的逼迫,迫使圣徒们走向世界各处。对此,张大卫牧师常常发出反思:“倘若我们能在喜乐歌声中自发地走出去,不是更好吗?”也就是说,与其被动地被逼出,不如先被福音的紧迫性和神国的热情驱动,而自愿地成为“顺从之子”。正如马太福音21章28-30节里耶稣提到的两个儿子的比喻一样,我们应当做那个实际行动、不是只说不做的儿子;如此,在突如其来的患难中,教会才不会动摇。 也就是说,不该等到危急时刻来临才“捧着福音逃命”,而应该在平时就已“随时准备好,只要被差遣,就可以前往任何地方”。保罗也是如此:哪怕后来罗马皇帝的逼迫如火如荼,他依然不断写信关怀各地教会,即便在牢狱之中也不停传扬福音(腓1:12–14)。初代教会的此种光景,跨越时间仍然是福音传播不变的“原生质”。 此外,教会也需要关注:在不同的文化与地域特性之下,教会可以并且应该以多元化的方式被建立。当初腓利下到撒马利亚,他所行的事工与耶路撒冷圣殿为中心的传统犹太教风俗截然不同,是在全新文化脉络中播撒福音。类似地,保罗在加拉太、以弗所、哥林多等地建立教会时,也根据各个城市与文化圈的特点采用不同的方式。罗马书12章、哥林多前书12章、以弗所书4章等经文都强调教会在多样性中的合一,各地教会虽同为基督的身体,但形式和结构并不整齐划一。 张大卫牧师时常引用保罗·田立克(Paul Tillich)的一句名言——“宗教是文化的本质,文化是宗教的外衣(As religion is the substance of culture, culture is the form of religion)”,并将其解读为:“福音这个本质绝不改变,但承载它的‘文化外衣’可随时代与地域而变化。” 在当今飞速变化的数字时代,社交媒体(SNS)、流媒体、网络社群、视频会议等皆可成为“承载福音的外衣”。我们绝不可篡改福音本身,但完全可以调整福音的传播方式以及教会组织形态。正如初代教会在《使徒行传》第8章之后,逐步越过犹太和撒马利亚,进而走向小亚细亚和罗马,在各个地区灵活运用福音传扬的方法,当代教会也应充分运用新媒体和各种文化领域。 进一步而言,当代教会面临的另一大挑战是:必须同时平衡“个人救恩”和“历史救恩”的视野。整本圣经所传递的宏大主题是创造、堕落(罪)、救赎,以及神国的恢复。《启示录》21章所应许的“神擦去人一切的眼泪,不再有死亡,也不再有悲哀、哭号、疼痛”,正是“失落的伊甸园得到恢复”的终极图景。若我们在这历史宏大叙事之中看待信仰,就不仅关注个人是否得救,更盼望神的国降临于这地的历史。 张大卫牧师强调,当代教会更应重视这种历史意识。初代教会的门徒曾问耶稣:“你复兴以色列国就在这时候吗?”(徒1:6) 耶稣回答说“时间与日期是父所定的”,同时又嘱咐:“直到地极,你们要作我的见证人。” 在这历史进程中,福音会成长,神的国最终将要完成。教会须不断为下一代预备,将福音传至普天下各民族,不单是拘泥于教堂内部或只追求教派规模,更应以“拯救灵魂与拓展神国”为方向。这样的历史观在《使徒行传》第8章里也同样得到印证。 总而言之,初代教会在司提反殉道后,遭遇大规模逼迫,圣徒分散至各处。可正是这分散,成为福音向外拓展的决定性契机。上帝透过逼迫和反对也在成就祂的计划,圣灵大能则借着分散之信徒的口、脚与生命,将福音扎根在新的地域。教会并非被动挤压,而是应当以主动顺服并具备对历史的正确认知,甘心走向“地极”。这就是《使徒行传》第8章1-5节向我们展示的初代教会的姿态,也是张大卫牧师一直强调的福音宣教精神。 2. 当代教会的挑战——新的福音传播方式 通过《使徒行传》第8章,我们看到初代教会的生命力与圣灵的工作并未过时;关键在于,如今所处的时代早已进入全然不同的局面。回望教会建立于公元1世纪的地中海世界,人类在技术、文化、经济、政治、社会的方方面面已历经了难以想象的巨变。尤其新冠疫情期间,许多教会无法维持传统的礼拜形态和聚会方式,不得不迅速尝试线上礼拜或非面对面聚会。有的地方因长期无法聚会,导致部分信徒离开教会或失去信仰;也有教会因为过度固守“实体礼拜”而遭到社会批评。教会究竟该如何在这瞬息万变的环境中持续完成福音宣教使命,成为一个重大课题。 在海外多个国家进行宣教与牧会多年的张大卫牧师指出:“教会必须走出建筑物,深入人们的实际生活领域,并更深地进入媒体场域。” 过去若想传福音,就必须“带着美好的脚踪”亲自远行到世界各地(罗10:15);如今在技术发达的网络、SNS与移动设备帮助下,教会得到了更为强大的宣教工具。关键在于“传什么、如何传”,而其核心永远是耶稣基督的十字架与神的国这一永不改变的真理。 张大卫牧师实践“Moving Forward”的口号,呼吁教会不要退缩或停滞,在任何环境(无论逼迫、患难,或是平安时日)都不可停下福音宣教的引擎。表面看来,“分散的教会”似乎会削弱力量,但这样的分散也能转变为“网络化”的重新布局。当代教会可以借助SNS或在线平台,在分散的同时又彼此紧密连接,类似耶路撒冷教会因司提反殉道后分散至各地,却同样扩散福音的模式。 “新型态的教会”并不只是将聚会搬到线上而已,而是包括教会运营、门徒训练、布道与宣教等各方面,皆须与数字环境作创造性的结合。初代教会因应场合不同,在会堂、圣殿和家庭教会多处教授真理;同样,当代教会也应利用教堂、网络、家庭、社区中心等多样空间来栽种福音。在此过程里,奉献、财务运用、人力培育,以及如圣餐和洗礼等圣礼的施行方式,都需要从神学和实践层面重新加以探讨。传统教会所熟悉且一直延续的模式,该如何被调整与再阐释,这是一项巨大的课题。 对此,张大卫牧师强调“对教会本质应有清晰的认知”:即“教会是基督的身体、是圣灵的殿、是在世上见证神国的群体”。只要这一本质牢牢把握住,就不必惧怕如“外衣”般的文化形式发生改变。他将其总结为以下几点: 在这样的原则下,张大卫牧师还呼吁:“要看重设计师与IT工作者。” 因为在如今,福音传播的“美好脚踪”很可能就是IT基础设施与数字内容。若教会想善用这双“新脚”,就需要相关专业人才来推动数字化事工。基督徒设计师、视频编辑、IT专家以及网络营销人员等,若能在教会中将自己的才能与事奉相结合,就能迅速开通面向全球传递福音的新窗口。 此外,他提出“教会应成为一个平台”。回想初代教会,信徒共同持有财物(徒2:44–45),与使徒们一起学习教导(徒2:42),彼此照顾、交通。当代教会也可在数字环境中实践这种“连结”与“关顾”。通过线上平台,让信徒学习真理、分享信息、帮助社区有需要的人,进行个人辅导或代祷请求。如此,教会平台化后,不仅能突破物理空间与距离的限制,也能让更多人接触福音,并强化信徒间的团契生活。 更进一步,张大卫牧师主张,教会须始终保持“站在神为万国所预备的救恩历史洪流之中”这种“历史神学”视角。这与《使徒行传》1章8节“直到地极,作我的见证”密切相关。教会的目标不应只停留在本地的发展,而是不断为地上各民族的福音化作准备,并持续差派工人进入世界各地。 为此,教会也许需要在不同国家和地区,因地制宜地建立“本土化”教会。不同地区有不同的饮食、服饰、语言与基础设施,要想有效地传福音并维系教会群体,就必须与当地状况相适应。这正如初代教会在耶路撒冷、犹太、撒马利亚、小亚细亚、罗马等地所做的实践,以及保罗巧妙运用自己罗马公民与犹太人双重身份,以覆盖更广泛的群体。 今天,互联网可谓一次性连通“多种文化圈”的突破性管道,让宣教变得更快速、更全面。例如,在宣教士亲身进入非洲某部落村庄之前,就能先借助网络内容或翻译视频介绍福音;当地的小型群体也可通过线上培训、一起祷告和敬拜。若要系统化推行此事,教会就需设立“数字宣教中心”或“线上宣教学院”,培训牧者与宣教士。张大卫牧师将这称为“为新世代铺路的教会”,并带着“黎明将至”的信心,督促教会积极提前行动。 他也反复提出,必须积极投入“在末后的日子里将福音传遍地极”的进程。从初代教会至今,福音的扩张并未完成,仍有多种障碍与属灵争战。然而圣灵仍在教会中工作,一旦上帝所定的时机到来,正如《马可福音》13章10节所言:“福音必须先传给万民”,教会将承载这历史性的使命。 最终,初代教会的属灵DNA——在逼迫患难中不惧怕、反而以之为福音扩张踏板的刚强信心,突破文化与地域界限、甘愿分散出去的宣教热情,绝对顺服圣灵引导的态度——对于当代教会仍然至关重要。张大卫牧师在当代情境下重新诠释这一DNA,倡导借助媒体与IT技术、线上网络和当代的文化趋势,将教会扩展至全世界。 关键在于坚持“真福音”和“正确的教会论”。倘若纵然使用了最新技术或平台,而福音本身被稀释或真理被扭曲,教会也将失去生命力。反之,若在稳固福音核心、守住教会本质的同时,又能敏锐应对时代变化,积极尝试多样事工,就能重现初代教会“在分散中依然前行”的蓬勃景象。 张大卫牧师常说,当今正是教会“收割的季节”。无数人正经历精神与心灵的干渴,在生命意义的追寻中徘徊。只要教会能传递清晰而又温暖的福音,必有许多灵魂会归向主。正如《使徒行传》第8章8节之后,腓利在撒马利亚医治多人、传讲福音,结果是“那城合城都大有欢喜”。这份喜乐正是福音事工的核心所在:在绝望中带来盼望,在无喜乐之处带来欢欣。 另一方面,教会在向“分散的教会”或“网络化的教会”转型的过程中,内部会经历各种挑战。传统体制教会未必欣然接受此类变化,重视实体教堂与群体性的老一辈信徒,或许会引发冲突。如何在线上举行圣餐、洗礼,如何进行职分授予和牧养管教等,这些神学层面的讨论也尚未完全厘清。尽管如此,张大卫牧师强调,“为了福音和神国,这一切讨论都需要经过,但最终仍要向前迈进。” 他将当前情形称为“当代版的耶路撒冷教会、撒马利亚以及安提阿教会共同经历的摸索”。在《使徒行传》第10章、加拉太书第2章等经文中可见,初代教会由犹太人群体转向外邦人传福音时,也遇到文化、神学、实践层面的冲突。然而教会历史正是在不断自我更新与扩张的过程中茁壮成长。教会在基督再来之前永远不会是“完美定型”的,而是要持续地自我改革,并开拓福音的疆域。 由此可见,《使徒行传》第8章1-5节所展现的初代教会“分散与福音扩张”,正成为当代教会的明灯。圣灵的大能始终同在,上帝亦主导着祂的历史。教会当顺从圣灵的带领,需要聚集时就聚集,需要分散时就分散。若将此原则应用于当代,就能兼顾“不可见的教会(invisible church)”与“可见的教会(visible … Read more

迫害の中に咲いた福音 – 張ダビデ牧師

張ダビデ牧師が使徒の働き8章1–5節を中心に説教・講義した内容をもとに、本稿では本文が語る初代教会の歴史と福音の伝播、そしてその精神を現代教会がどのように受け継ぎ、適用できるかについて神学的・実践的考察を試みる。また、張ダビデ牧師が強調してきた「真の福音」と「歴史を貫く神の国」の視点を軸に、患難の中でも前進していく福音の力と、教会の新しい時代的パラダイムを提示したい。 1. 初代教会の迫害、散らされること、そして福音の拡大 使徒の働き8章1–5節は、初代教会が経験した激しい迫害と、それによって教会が散らされる場面を証言している。特に使徒の働き7章で石打ちの刑により殉教したステパノの死後、教会共同体に対する大規模な弾圧が始まった。ステパノが死ぬや否や、多くの聖徒たちは激しい恐怖を抱き、エルサレム教会を対象にした過酷な迫害が起こる。そこには「使徒たち以外はみな散らされた」というほど、教会共同体は各地域へと散っていかざるを得なかった。さらに、その過程でサウロ(後のパウロ)が教会を滅ぼそうと、家々を捜し回り、男女を引き立てて牢に入れるということまでも起こった(使徒8:3)。当時迫害を受けた聖徒たちは、大洪水に流されたかのように、ばらばらに散らされるしかなかったのである。 しかし使徒の働き8章は、この「散らされること」が決して福音の後退や失敗を意味しなかったことを明確に示している。聖徒たちは各地に逃れるように身を潜めても、そこで彼らは「御言葉の福音を伝え」た(使徒8:4)。人間的に見れば「悲しみと恐れに打ちひしがれた魂たち」の移動であったが、神の視点からすれば、この出来事は福音の地境を広げる火種となったのだ。エルサレムとユダヤ地方を越え、サマリアにまで至る福音伝播が本格化し、この過程を通じて神の国はさらに広い地域へと伸びていった。 この箇所は、イエスの大宣教命令(Great Commission)をあらためて思い起こさせる。イエスは昇天の際に「あらゆる国の人々を弟子とし、父と子と聖霊の名によってバプテスマを施し、あなたがたに命じたすべてのことを守るように教えなさい」(マタイ28:19–20)と言われたが、使徒の働き1章8節ではさらに具体的に「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となる」と明言される。初代教会の聖徒たちは、エルサレム教会が成長し、ある程度根づいた時点で、自分たちが本格的に地の果てへ出て行かなければならないという明確な使命を与えられていたにもかかわらず、しばらくは一か所にとどまって安住していた可能性が高い。ところが、ステパノの殉教と迫害によって、彼らは否応なく散らされることとなり、その結果、福音伝播の視野はエルサレムを越えて拡大されたのである。 この場面を教会史研究者たちは「サタンの逆説的失敗」と呼ぶことがある。悪しき勢力が教会を弾圧して福音を阻もうとしたが、その弾圧そのものがむしろ福音を広範囲に拡散させる結果をもたらしたからである。人間の恐れや悲劇が、神の摂理のうちでかえって救いの歴史を進展させる鍵となったのだ。これは初代教会の時代だけでなく、教会史全体を通じて何度も現れたパターンである。教会が苦難に遭うほど、福音はさらに遠くへ拡がり、聖霊の力に支えられた聖徒たちは、散らされた先で新しい教会を建て、福音を伝えた。 このような歴史的パターンは、今日においても大きな示唆を与える。迫害の程度や形は変わったが、教会が世の中で経験する困難や迫害は今なお存在する。同時に教会内部にも、歪んだ思想や福音を曇らせる異端的流れ、あるいは偏狭な教権主義や物質的・人間的欲望などが入り込むときがある。初代教会の時代には、仮現説(ドケティズム、Docetism)やグノーシス主義(Gnosticism)などの誤った思想が信徒たちを惑わせた。グノーシス主義者たちは「救いに至るには、自分の内にある神的なパーティクル(particle)を発達させ、完全な境地に到達しなければならない」と主張し、恵みと信仰による救いの福音を揺るがした。このような内部的挑戦と外部的迫害の中でも、初代教会は最終的に「正しい福音」を守り抜き、かえって全世界へと伸びていく原動力を見いだしたのである。 張ダビデ牧師は、こうした初代教会の姿に注目しながら、「教会が世から患難を受けることはあっても、真の福音伝播の使命が消えることはない」と強調してきた。牧師によると、神は教会が栄光のうちに働くこともできるが、苦難のうちにも驚くべき方法で福音を展開される。聖霊は、否応なく散らされる状況にあってさえ、各人の心に共におられ、その教会共同体が散らされた場所で新しい歴史と出会うように導かれる。そういう意味で「迫害や患難が、決して福音伝播の原動力を失わせることはない」という信念を持ち、宣教現場における挑戦や逆境を「新たな機会」と解釈し受けとめる教会論を提示している。 実際、使徒の働き8章4節、「その散らされた人たちは、御言葉を伝えながら巡り歩いた」という一節は、「散らされること」が「消えること」ではなく「拡大」であったことを明確に示している。人間の目には敗北のように見えるかもしれないが、神はこの広範な移動と再配置を通じて、さらに多くの人に福音を証しするようになさった。当時サマリア地方は、ユダヤ人が汚れた地とみなす地域であり、社会的・宗教的にユダヤと葛藤してきた歴史があった。しかしピリポがサマリアの町へ下って「キリストを人々に宣べ伝え」(使徒8:5)たとき、そこでも多くの人々が福音を受け入れ、イエスを主と告白した(使徒8:5以下)。この出来事は、地理的・文化的境界を超える福音の力を証ししている。 現代の教会も同様に、世界が急激に変化し、予期しない試練が押し寄せる時——たとえば世界的に猛威を振るったコロナ禍のような患難の時代——礼拝の形態や教会の活動が大きく制限されることがある。だが、教会が「迫害」であれ「患難」であれ、何らかの形で経験する困難を神の壮大な目的の中で見つめるならば、それは最終的に新しい形態の福音伝播と教会共同体形成へとつながりうる。 張ダビデ牧師は「教会が患難に遭って粉々に散らされるような状況にあっても、聖霊がおられる教会は決して倒れない」という確信をたびたび強調する。聖霊は人を集めてくださるだけでなく、散らすこともされる方であり、「見える教会(visible church)」と「見えない教会(invisible church)」の両方を包含される。現代教会が礼拝堂の建物や制度的枠にとどまらず、時代の変化に応じて福音をインターネットやメディアを通じて伝え、多様な文化的・社会的接点を活用して「見えない教会」を広げていく必要があるというのだ。これは初代教会の時代、聖霊が散らされた者たちと共におられ、彼らが行く先々で新しく生まれる教会を誕生させた原理と通じている。 使徒の働き8章から確認できるもう一つの重要な事実は、教会が「患難でもなければ動かない」姿があるという点についての反省である。もし迫害がなかったとすれば、安心に浸ってエルサレム教会だけに留まり続けたかもしれない。ところが神は、迫害という極端な状況を通じて聖徒たちを世界の隅々へ送り出される。この点について張ダビデ牧師は「もし私たちが喜びの歌を口ずさみつつ自発的に散らされていくなら、どんなに素晴らしいことか」とよく力説する。つまり、追い立てられるのではなく、福音の緊急性と神の国への熱情に突き動かされて自発的に出て行く「従順の子ども」となるべきだというのである。マタイの福音書21章28–30節でイエスがお話しされた二人の息子のたとえのように、口先だけで行かない息子ではなく、行動に移す者となってこそ、教会は一時的な患難にも揺るがない。 患難のときにやむを得ず身を避けるように福音を携えていくのではなく、ふだんから既に「いつ、どこにでも遣わされる準備ができている」状態であるべきだというメッセージである。パウロもまた後年、ローマ皇帝の迫害下にあってもひたすら手紙を書き教会を牧し、獄中にあってさえ福音を伝え続けた(ピリピ1:12–14)。初代教会のこのような姿は、時を経ても変わらない福音伝播の原型質といえる。 さらに、教会が文化的・地域的特性に応じて多様な形で建てられるべきだという点も注目に値する。当時サマリアに下ったピリポの働きは、エルサレム神殿を中心とする伝統的ユダヤ教慣習とは異なる、新たな文化的文脈へ福音を植えた事例である。これと同様に、パウロはガラテヤ、エペソ、コリントなど、それぞれ異なる都市・文化圏に教会を建てる際、その地に合ったアプローチで福音を伝えた。ローマ書12章、コリント第一12章、エペソ4章などでも、教会の多様性の中の一致が強調されており、各地域教会がキリストのからだとして機能しつつも、その形や構造は画一的ではない姿が示される。 張ダビデ牧師は、ポール・ティリッヒ(Paul Tillich)の名言「宗教は文化の本質であり、文化は宗教の形式である(As religion is the substance of culture, culture is the form of religion)」をしばしば引用し、「福音という本質は決して変わらないが、それを包む文化という衣装は時代や場所に応じて変わりうる」と解釈する。今のように急激にデジタル化が進む時代には、SNS、ストリーミング、オンライン・コミュニティ、ビデオ会議などさまざまなメディアが「福音を包む衣装」となりうる。福音そのものを変質させることは決して許されないが、伝播の形態や教会共同体の組織の仕方は、いくらでも異なる形を適用できるというわけだ。初代教会が使徒の働き8章以降、徐々にユダヤ・サマリアを越えて小アジアやローマに至るまで、各地域の特性を反映して福音を伝えたように、現代教会も新しいメディアや方法、さまざまな文化領域を積極的に活用すべきだと牧師は主張する。 さらに、現代教会が直面するもう一つの課題は、「個人の救い」と「歴史の救い」とを共にバランスよく見つめることである。聖書全体が証しする大きな主題は、創造、堕落(罪)、救い、そして神の国の回復である。ヨハネの黙示録21章で、すべての涙をぬぐい、死もなく、悲しみも叫びもない世界が約束される神の言葉は、「失われたエデンの園を回復するプロセス」を最終的に示している。このように壮大な歴史観をもって聖書を理解するとき、個人が救われることだけでなく、この地上の歴史に神の国が到来することを同時に夢見るようになる。 張ダビデ牧師は、このような歴史意識が現代教会でさらに強調されるべきだと語る。初代教会の弟子たちがイエスに「イスラエルの王国を再興してくださるのはこの時ですか」と尋ねたとき(使徒1:6)、イエスは「時や期は父のご自身の権威において定められている」と答えつつも、「地の果てにまでわたしの証人となれ」と命じられた。この地の歴史の中に福音が成長し、神の国は究極的に完成するという希望のうちで、教会は絶えず次世代を起こし、全世界のあらゆる民族に福音を伝えることに専念すべきである。単に教会堂の中にとどまったり、教勢拡大だけを追求するのではなく、歴史の大きな流れの中で「魂の救い」と「神の国の拡大」という目標に向かって走る共同体であるべきだというメッセージが、使徒の働き8章にも示されているのだ。 要するに、初代教会はステパノの殉教を契機に吹き荒れた大規模迫害によって聖徒たちが四方に散らされたが、この散らされることこそがかえって福音伝播への決定的な扉を開くことになった。神は反対や迫害を通してさえ、そのご計画を進めていかれ、聖霊の力によって散らされた聖徒たちの口と足、そして生活をとおして、新たな地域に福音の種が蒔かれたのである。教会は強制的に追いやられるのではなく、自発的従順と正しい歴史理解をもって喜んで「地の果て」へと進むべきである。これこそが使徒の働き8章1–5節に描かれる初代教会の姿であり、また張ダビデ牧師が常に強調してきた福音伝播の精神でもある。 2. 現代教会の挑戦、新たな福音伝播の形 使徒の働き8章を通して確認した初代教会のダイナミズムと聖霊の御業は、今日の教会にも依然として有効である。問題は、時代がまったく異なる局面へ突入しているという点だ。教会が建った1世紀の地中海世界と比べ、現代の人類は技術、文化、経済、政治、社会のあらゆる側面で想像を絶する変化を経験してきた。コロナ禍を経て、多くの教会は従来の礼拝形態や集会方式を維持できなくなり、急速にオンライン礼拝や非対面の集いを試みざるを得なくなった。ある地域では集まれない期間が長引き、教会員が教会を離れたり、信仰を失うケースも少なくなかった。一方で、「対面礼拝」に固執しすぎて社会的批判を浴びた例もある。こうした激変する環境の中で、教会がどう福音伝播の使命を引き継いでいくのかが大きな課題となった。 張ダビデ牧師は、長年にわたり世界各国で宣教と牧会活動を重ねる中で、「教会は建物から出て、人々の実際の生活領域の中へ、そしてメディアの場へと、さらに深く入り込むべきだ」と主張している。かつては「美しい足」を持って遠い国へ直接行かなければ(ローマ10:15)福音を伝えられなかったが、現代では「メディア」がその足の役割を代替しうるからだ。インターネットやSNS、モバイル端末の発達によって、教会は人が直接来なくても福音を伝えられる強力な道具を手にした。大切なのは「どのようなメッセージを、どう伝えるか」であり、そのメッセージの核はいつでもイエス・キリストの十字架の福音と神の国という不変の真理でなければならない。 実際、張ダビデ牧師は「Moving Forward」というスローガンのように、教会が後退や停滞をせず、常に前進し続けるべきだと強調する。迫害が来れば迫害の中で、患難が来れば患難の中で、平安な時期が来れば平安の中で——どのような状況にあっても教会は決して福音伝播のエンジンを止めるべきではないというのだ。一見すると初代教会のように「散らされる教会」になると弱体化するかのように思われるが、むしろその散らされることこそ「ネットワーク化」された再配置として作用する可能性がある。現代の教会は、SNSやオンライン・プラットフォームを活用して散らされつつも緊密に連結され、ちょうどエルサレム教会がステパノの殉教後に各地域へ広がっていったのと似たかたちで福音を伝えることができるのである。 この「新しい教会の形」は、単に集会をオンラインに移行するだけを意味するのではない。教会運営、弟子訓練、伝道・宣教などのすべての側面で、デジタル環境を教会本来の使命と創造的に結合する必要があるということだ。かつて初代教会が会堂と神殿、そして家庭集会など多様な形を行き来して人々を教えたように、現代教会も礼拝堂、オンライン、家庭、地域コミュニティセンターなど、さまざまな空間を活用して福音を蒔かなければならない。その過程で献金、財政運用、人材育成、聖餐や洗礼といった聖礼典の進め方など、伝統的教会が長く慣れ親しんできた要素をどう再解釈し適用していくかは、非常に神学的かつ実践的な課題となる。 張ダビデ牧師は「教会の本質に対する明確な認識」を強調する。教会の本質、すなわち「キリストのからだであり、聖霊の宮であり、世の中で神の国を証しする共同体」であるという事実をしっかりとつかんでいれば、衣装のような外形的文化形式が変わることを恐れる必要はないというわけだ。彼はこれを次のように要約する。 張ダビデ牧師はこのような原則のもと、「デザイナーやITワーカーを重んじなさい」と強調する。福音伝播の「美しい足」が、いまやITインフラとデジタル・コンテンツになりうるからだ。教会がこの「新しい足」を有効に生かすためには、それをリードする人材が必要であり、そうした人材が実力を発揮してデジタル宣教を活性化させる必要がある。クリスチャンのデザイナー、映像編集者、IT専門家、オンラインマーケターなどが教会の中で自分の才能を奉仕や宣教に結びつければ、世界中どこへでも即座に福音を届けられる窓口を開くことができる。 あわせて、彼は「教会が一つのプラットフォームにならなければならない」とも主張する。初代教会は信徒たちが財産を共有し(使徒2:44–45)、使徒の教えを共に学び(使徒2:42)、互いに助け合い、交わりをもった。今日の教会も、こうした「つながり」と「ケア」の機能をデジタル環境で実装できるようになるべきだ。オンライン・プラットフォームを通じて、信徒たちが御言葉を学び、互いのニュースを共有し、地域社会の困窮者を助け合い、個別相談や祈りの要請をできるように支援する。こうして教会がプラットフォーム化されるなら、物理的空間の制約や距離という壁を乗り越え、はるかに多くの人々に福音を伝えられ、同時に信徒間の交わりを豊かにできる。 さらに、張ダビデ牧師は教会が「神がすべての民族に与えられた救いの歴史の流れの中にある」という「歴史神学的」視点を常に忘れてはならないと説く。これは使徒の働き1章8節に語られた「地の果てにまでわたしの証人となる」という言葉ともつながる。単に地域教会だけを成長させるのではなく、地上のすべての民族と国が福音を聞くことができるよう、教会は絶えず備え、派遣されなければならないというのである。 そのために必要とあれば、教会は各国に合った「現地化された形」で建てられるべきだ。食文化、衣服、言語、インフラ環境などはそれぞれ異なるが、どの地域教会でも福音を伝え共同体を維持するために、その現場状況に合う形で適応する必要がある。これは、初代教会がエルサレム、ユダヤ、サマリア、小アジア、ローマなど、互いに異なる文化圏に合わせて教会モデルを変えたことを想起させるし、パウロがローマ市民権者でありながら同時にユダヤ人のアイデンティティも活用しつつ、幅広く福音を伝えた例を思い起こさせる。 今日ではインターネットが、こうした「多様な文化圏」を一度につなげられる画期的な通路となっている。これによって宣教ははるかに迅速かつ広範に行われうる。たとえば、アフリカのある部族の村に宣教師が直接入っていく前に、オンラインのコンテンツや通訳付きの映像を通じて先に福音を紹介することができる。または、その地の小規模共同体がオンラインで訓練を受け、共に祈りや礼拝をささげることも可能だ。これを体系的に運営するためには、教会が「デジタル宣教センター」や「オンライン・ミッションスクール」のような組織を設け、教職者や宣教師を訓練しなければならない。張ダビデ牧師は、これを「新時代への道を備える教会」と呼び、「まもなく夜明けが来る」という確信のもと、教会が先んじて動くよう促している。 また彼は「終わりの日に福音が地の果てまで宣べ伝えられるプロセス」への積極的な参加の必要性を、絶えず提起する。初代教会以来行われてきた福音拡大がまだ完成していないこと、多様な障害と霊的戦いが残っていることを認めながらも、聖霊は教会を通じて働き続け、神の定めた時が来れば「すべての国の民に対して証しのために、まず福音が宣べ伝えられねばならない」(マルコ13:10)との御言葉のとおり、歴史的使命を担うことになるという見通しを示す。 結局、初代教会が有していた霊的DNA――迫害や患難を恐れず、むしろそれを福音拡大の足がかりとした不屈の信仰、文化や地域の境界を超えて喜んで散らされていった宣教精神、聖霊の導きを絶対的に信頼した従順――が、現代教会にも必要だという結論に至る。張ダビデ牧師は、このDNAを現代的に再解釈し、メディアやIT技術、オンライン・ネットワーク、さらには時代的文化トレンドを積極的に活用して全世界へ出ていく教会の形成を呼びかける。 肝心なのは「正しい福音」と「真の教会論」を堅持することである。いくら最新の技術やプラットフォームを用いても、福音そのものが曖昧になったり真理が歪められたりすれば、教会のいのちは失われる。逆に、福音の核心がしっかり立ち、教会の本質を守りながら、時代の変化に柔軟かつ巧みに対応し、多様な宣教活動を試みるならば、初代教会の「散らされながらも前進する教会」が現代にも力強く再現されうるのだ。 張ダビデ牧師は、教会が「刈り取りの時」を迎えているとよく口にする。多くの人々が精神的・霊的な渇きを覚え、人生の意味を求めてさまよう時代であるからこそ、教会が正確で温かい福音を提示すれば、多くの魂が帰ってくるという確信を持っている。使徒の働き8章8節以下で、ピリポがサマリアで多くの人を癒し福音を伝えたとき、「その町には大きな喜びがあった」と記されているように、このように喜びのない世に喜びがもたらされ、絶望にあるところに希望がもたらされることこそ福音宣教の核心であり結実である。 一方、教会がこのように「散らされる教会」かつ「ネットワーク教会」へと変貌していく過程では、内部的にさまざまな挑戦がついてまわる。既存の制度的教会内部でこうした変化を好意的に見ない向きもあるだろうし、物理的礼拝堂と共同体性を重視する伝統的信徒との衝突が起こるかもしれない。オンラインで聖餐や洗礼を行う問題、職分の任命や牧会的な戒規をどのように行うかなど、神学的議論もまだ十分に整理されているわけではない。それでも、張ダビデ牧師は「福音のため、そして神の国のためにこれらすべての議論を経ながらも、最終的には前進すべきだ」と強調する。 彼はこの状況を「エルサレム教会とサマリア、さらにはアンティオキア教会が直面した試行錯誤の現代版」と呼ぶ。ユダヤ人中心の初代教会が異邦人へ福音を伝えるなかで直面した文化的・神学的・実践的葛藤(使徒10章、ガラテヤ2章など)を思えば、教会の歴史はいつでも自己刷新と拡大を通して成長してきた。教会はキリストが再臨されるその時まで「完成された姿」で留まることはなく、不断に自らを改革し、福音の地平を広げていかなければならないのである。 結論として、使徒の働き8章1–5節に示される初代教会の「散らされつつ福音が拡大する」姿は、現代教会が進むべき道を照らす力強い灯火である。そしてその道にはいつも聖霊の御力が伴い、神は神の歴史を導いておられる。教会が聖霊に従って集まるときには集まり、散らされるときには散らされる。これを現代に適用するとき、「見えない(invisible)教会」と「見える(visible)教会」が同時に作動する時代的教会論が可能となる。また、個人の救いだけでなく歴史の救いを夢見る大きな視野の中で、この世の流れを聖書的視点から捉え、神の摂理に合わせてあらゆる国々へと進む「メディア時代の宣教」が大きく花開きうる。 張ダビデ牧師の提示する方向性は、要するに「状況に縛られず、むしろ状況を逆手にとって福音拡大を成し遂げよ」というメッセージに集約される。これは初代教会が迫害を「前進のきっかけ」としたように、現代教会も疫病や社会的制約、文化的偏見や不信の中であろうとも、なお「Moving Forward」し続けなければならないという意味である。聖霊は今も生きておられ、教会を通じて働かれ、失われた魂を捜し求める神なる御父の御心をすべての民族と列邦に示してくださる。教会はその招きに応え——散らされようとも集まろうとも、オンラインであろうとオフラインであろうと——絶えず福音を語り分かち合うべきなのだ。 … Read more

El evangelio que florece en medio de la persecución – Pastor David Jang

El pastor David Jang, tomando como base Hechos 8:1–5, expone en su sermón y enseñanza la historia de la Iglesia primitiva, la propagación del evangelio descrita en el pasaje y la forma en que esa misma visión puede heredarse y aplicarse en la Iglesia de hoy. Asimismo, subraya la perspectiva del “verdadero evangelio” y del … Read more

The Gospel Blooming Amid Persecution – Pastor David Jang

Drawing on Pastor David Jang’s sermon-lecture based on Acts 8:1–5, this work offers a theological and practical reflection on the early church’s history, the spread of the gospel as recorded in the passage, and how today’s church can inherit and apply that same spirit. Centered on the perspectives Pastor David Jang has consistently emphasized—namely the … Read more

박해 속에 피어난 복음 – 장재형목사

장재형(장다윗)목사가 사도행전 8장 1–5절을 중심으로 한 설교·강의를 토대로 본문이 말하고 있는 초대교회의 역사와 복음 전파, 그리고 그 정신을 현대 교회가 어떻게 이어받아 적용할 수 있는지에 대한 신학적·실천적 고찰을 담았다. 또한 장재형목사가 강조해온 ‘참된 복음’과 ‘역사를 꿰뚫는 하나님 나라’의 시각을 중심으로, 환란 속에서도 진전하는 복음의 능력과 교회의 새 시대적 패러다임을 제시하고자 한다.  1. 초대교회의 핍박, 흩어짐, 그리고 복음의 확장 사도행전 8장 1–5절은 초대교회가 겪은 극심한 박해와 그로 인해 교회가 … Read more

La Grâce Coûteuse – Pasteur David Jang

1. La Grâce coûteuse et le combat contre le péché La question de la « grâce coûteuse » et de la « grâce bon marché » est d’une importance capitale dans la foi chrétienne. Beaucoup de croyants se tourmentent à ce sujet et en viennent parfois à trébucher. Le pasteur David Jang insiste, sous différents … Read more

昂贵的恩典 — 张大卫牧师

1. 昂贵的恩典与罪的争战 “昂贵的恩典”与“廉价的恩典”之间的差异,是基督教信仰中极其重要的议题,同时也使不少信徒为之苦恼,甚至在其中跌倒。张大卫牧师多次从不同角度强调这一点,并郑重提醒我们:绝不可让“昂贵的恩典”沦为“廉价的恩典”。所谓“昂贵的恩典”,正是基于基督在十字架上所流的宝血而临到我们的那份神圣而尊贵的恩典。我们原本在罪中,注定要面临死亡的刑罚,但因着神儿子的牺牲,我们白白地被称义。然而,如果把这一切视作不需要任何付出的、理所当然的“免费所得”,不把主所流的宝血的宝贵性放在心上,只当作一种“自然而然就获得的东西”,那么这种态度便使恩典沦为“廉价的恩典”。也就是说,若我们淡忘了主耶稣为我们所流血的宝贵代价,只把那恩典看作“免费附赠”,就会严重扭曲并毁坏我们的信仰之路,这也正是罪所造成的危害。 张大卫牧师将“昂贵的恩典”变为“廉价的恩典”这种无耻的行为,称之为“致命的罪”。如果我们不明白主在十字架上的苦难究竟是怎样的巨大牺牲,仅仅因为自己“身在教会”或“已经受洗”就轻易宣称有了救恩的确据,并且对耶稣基督的受死与复活缺乏真诚的默想,那么我们信仰的根基终将坍塌。若我们忘却了主在客西马尼园里祷告到汗珠如血点的那份恳切,以及祂在十字架上无法言喻的肉体与灵魂的痛楚,只将一切停留在头脑知识层面上,那么就会立刻坠入“廉价的恩典”之中。而“昂贵的恩典”意味着:因着基督在十字架上为我们作出大能的赎罪之举,这份来自天上的礼物改变了我们整个人生,使我们从内心深处厌恶罪恶、渴慕圣洁。 然而,实际上,对“已经得救”的信徒来说,另一个挑战随之而来,那就是“即使已经得救,但罪性仍在里面蠢动”。张大卫牧师提醒我们重温使徒保罗在《罗马书》6章23节所言:“罪的工价乃是死”,并且警示我们不要轻忽罪的势力仍在我们内部这一事实。虽因耶稣基督的救赎(称义)而在“法律地位”上被宣告无罪,但在世上生活的过程中,我们依然受到旧有的恶习与罪的习惯所左右。这些罪的痕迹或罪性不断诱惑我们犯罪,使我们偏离神,远离祂的旨意。 在得救的生命里,存在着两个“我”同时并存——“得救的我”和“浸润在旧习之中的我”。这二者彼此对立,彼此冲突。张大卫牧师将此结构描述为“我”和“不像我的我”共存的状态。在我们信仰生活中,这种冲突随时都可能出现,尤其当我们自我省察时常会思考:“为何还会冒出负面情绪?为何还不能摆脱某些罪恶习惯?”这时就像保罗在《罗马书》第7章里宣告“我真是苦啊”那样,我们必须深刻领会这一告白的真谛。保罗虽是已经得救的神的儿女,却仍要与内里残存的罪性展开争战。这种争战正是信徒在成圣过程当中不可回避的属灵搏斗。 因此,领受了“昂贵的恩典”之人,还需面对的要务就是:在“已经得救”与“尚未完全”的张力中,正确理解并迎接与罪的争战。若想避免把“昂贵的恩典”看作“廉价的恩典”,我们首先需要深思:“十字架对我意味着什么?” 其次,要觉察:“我为什么明明痛恨罪,却又好似会倾听罪的低语?” 当我们明白这一点,就不再混淆“已经获得的救恩”与“尚未完全的过程”之间的区别。救恩终将走向最终完成,但在这个过程中,我们必须不断地抛弃罪恶并付诸行动。这时便如保罗那般,我们会在内心呼喊:“我真是苦啊!谁能救我脱离这取死的身体呢?”但与此同时,我们也会在基督耶稣里经历胜利的确信,这两种感受会同时出现。 张大卫牧师就“昂贵的恩典”与罪之习性的争战这一主题,反复强调不要轻忽得救后继续与罪作战的重要性。若仅仅因为自己是“信徒”而麻木不仁,只用“我已得救”为借口,任由罪的影响暗中滋长,这正是把“昂贵的恩典”再度贬为廉价。另一方面,若过于放大罪的存在,以至于整天自我责备——“我就是个罪人,怎么办呢?”——这又会导致怀疑耶稣基督宝血能拯救的完备性。故此,必须避免这两种极端,时刻以严肃而真诚的心态来生活,配得上“昂贵的恩典”。 《罗马书》7章25节至8章1节之处——“这样看来,我以内心顺服神的律,我肉体却顺服罪的律了。所以如今那些在基督耶稣里的,就不被定罪了”——是每位基督徒每天都要默想的核心经文。需要特别留意的是:即使存在《罗马书》第7章里“叹息”式的痛苦,但紧接着在第8章1节保罗却用“所以”开始了“得胜的宣告”。这意味着:即便身陷与罪争战的进行时态,信徒也不可丢失救恩的确据。神的爱永远向罪人敞开,得救的信徒永远不会被彻底定罪。这一宣告,正是我们抓住“昂贵的恩典”的关键。 基于此,那些领受“昂贵的恩典”之人为何要与罪争战、为何不可懈怠,其理由十分明确。张大卫牧师借着《以弗所书》第6章中“属灵全副军装”的教导,再三嘱咐我们:要持守得救者的身份,坚决与罪对峙。或许有时我们会如该隐杀亚伯一样,被罪击倒;然而,神始终为我们预备皮子做的衣裳,也就是用基督的义来遮盖我们。每一次跌倒与复起的经历,正见证了我们如何持续握住这“昂贵的恩典”,在起伏之中继续前行。 在本节的总结里,张大卫牧师想要传达的主旨是:“十字架绝非轻如鸿毛,我们所获之救恩乃是奠基于极度的痛苦与牺牲之上的宝贵礼物。” 这样的恩典不可被轻视,也不能因过度的罪疚而失去救恩的喜乐。正因为这是“昂贵的恩典”,我们理当与罪争战,并且在争战中依靠圣灵的能力,渐渐活出与主相似的生命。这条道路不可避免地包含与罪的不断交锋,但在基督里的人却早已不被定罪,因而可以每日紧紧抓住“救恩的确据”,同时不松懈地继续那场“与罪的圣洁较量”。 2. 称义与成圣,以及“在基督耶稣里”的意义 张大卫牧师非常重视使徒保罗所阐述的称义与成圣二者之间的关系。保罗在《罗马书》第5章至第8章中展开的论述,正揭示了信徒如何在“已经”和“尚未完成”的张力中,一边牢牢抓住救恩确据,一边又与罪不断交战。所谓称义(justification),是因相信耶稣基督在十字架上的代赎,我们在神的法庭中被宣告为“无罪”。这全然出于神单方面的爱与恩典,绝无任何人的功劳或行为可插手。我们无法通过完全遵守律法来自我成就救恩,而神却藉着独生子白白赐给了我们——这正是“昂贵恩典”的核心要旨。 但进入了“被称义”的状态后,我们的实际生活与品格仍然远非完美。“成圣”(sanctification)指的便是已被称义的信徒在日常生活中逐步迈向圣洁的过程,包括脱离罪恶、效法基督所进行的实际操练与争战。张大卫牧师指出,在这个成圣过程中,我们时常会跌入两种极端:其一是沮丧——“我到底有什么变化?似乎和从前并无不同”,其二则是骄傲——“既然一切都结束了,我不用再和罪争战”。 保罗在《哥林多前书》15章31节中宣告:“我天天与死搏斗”(或译“我是天天死”),同样也说明,纵使信主得救,也仍需时时警惕罪并与之抗争。然而,我们已经在耶稣基督里得到完全的救恩确据,这场争战就不至于令人绝望。表面上这似乎是双重矛盾,但实际上,称义与成圣并非矛盾的两面,而是“硬币的正反面”。得到称义的人自然而然会进入成圣的进程,这是正常的信仰“成长轨迹”;同时神也赐下圣灵内住并帮助我们走这条道路。因此,要同时抓住“救恩的确据(称义)”和“与罪的圣洁争战(成圣)”,绝非不切实际的理想,而是属灵生活的应然状态。 在这里,张大卫牧师特别强调要把《罗马书》第7章后半段与第8章开篇连贯起来看。《罗马书》7章25节写道:“这样看来,我以内心顺服神的律,我肉体却顺服罪的律了”,接着第8章1节便说:“所以如今,那些在基督耶稣里的,就不被定罪了。”这两处经文不可割裂开来,反而要视为同一信息的整体:“即使仍被罪的旧习所牵扯,但在基督耶稣里的人,绝对不会被定罪。” 这正是使徒保罗所传扬的福音核心。 在此,我们必须留意那句广为人知的短语——“在基督耶稣里”(In Christ Jesus)。并非仅指尊敬耶稣、效仿耶稣道德教导的层面,而是如《约翰福音》第15章中主耶稣所说的:“我是真葡萄树,你们是枝子。”这是一个奧秘的属灵联合(union)。正如枝子若离了葡萄树便无从获取生命供应,信徒若不住在基督里,就会失去属灵生命的源头。“你们要住在我里面,我也住在你们里面”这句话并非单纯的比喻,而是实实在在的信仰生命结构。如果我们不在主里面得着属天的生命供应,就极易再次沦为罪的奴仆。 张大卫牧师说,想要真正体悟这“在基督里”的奧秘,需要“爱”这条诫命的成全。正如耶稣自己所说,“正如我遵守了我父的命令,常在祂的爱里,你们也要遵守我的命令,就常在我的爱里。”当我们真正面对并接受“犯罪的人仍然被神到底的爱所包容”这一事实,我们便不再以律法的定罪与惩罚来衡量自己,而是直面神那不离不弃的慈爱。这样的爱就成了我们属灵的气息。当神的爱与我们的顺服相遇,保罗所指的“在基督里”就会成为我们实在的经历。 “在基督耶稣里就不被定罪”这句话,也被一些律法主义者错误解读为:“那我们岂不是可以随心所欲地犯罪吗?”但保罗的原意却恰恰相反:我们原本是罪人,却蒙赦免并得到自由,怎能再回到罪的捆绑中去呢?若重回罪的奴役,那便是前文所言“把昂贵的恩典变为廉价的恩典”的大罪。因此,保罗在《罗马书》第8章所要表达的并非放纵,而是要信徒把“不被定罪”当作脱离罪的动力——既然“属灵的律”使我们脱离了“罪和死的律”(罗8:2),罪就无权再在我们身上作王。与此同时,我们也应当在圣灵的带领下,“天天治死肉体的行为”,持续展开争战。 就这样,称义与成圣以及“在基督耶稣里”三者紧密相连。一个得救的信徒,身份上可以这样来形容:“我在基督耶稣里,因祂的宝血被称为义人,因此每天都要对罪死,并且活出越来越像主的样式。” 张大卫牧师在解释这一过程时,提到我们或许会在外在形式上与得救前遭遇同样的苦难或罪的诱惑,但本质已截然不同。他用“同形异质”来描述:得救前后的试炼即便形式相同,实质却发生了根本变化。若之前是因罪而受的苦,如今则成为为义受苦,与基督一同受苦,或是为了践行爱而承担痛楚。 主耶稣曾对门徒说:“若有人要跟从我,就当舍己,天天背起他的十字架来跟从我”;使徒保罗也说:“我天天与死搏斗。”这是要我们在日常生活中实践舍己与以基督为中心的生活方式。可这并不意味着我们日复一日只有痛苦与机械式的服从,因为我们心中有“在基督里已经得了自由”这一确据。因着这个确据,信徒能在与罪争战的同时,也享有救恩的喜乐与盼望。 “所以如今,那些在基督耶稣里的,就不被定罪了”(罗8:1),这句宣告可说是对整个过程的浓缩。尽管在第7章末尾保罗发出了深切的“哀叹”,第8章开篇却高喊“所以”。这意味着,罪的实存性争战依然存在,但再也不能夺走我们的救恩。救恩全然源于神的爱;这爱藉着基督的十字架彰显无遗,并由基督的复活与圣灵的内住来加以印证。保罗最终的结论是:“感谢神,靠着我们的主耶稣基督就能脱离了!”(罗7:25)。在这样的属灵惊叹中,保罗得以自信地宣告“在基督耶稣里的人决不被定罪”,这便是罗马书8章1节“所以”的深层含义。 张大卫牧师反复强调的核心,在于:若没有称义,成圣就无从谈起;若没有成圣,称义也会失去真实的意义。因着称义,我们的罪已得赦免;因着圣灵的帮助,我们要在日常生活中不断与罪性争战,推进成圣。而支撑我们整个过程的“核心动力”,正是“在基督耶稣里”与祂相爱的联合。唯有与主保持亲密的属灵相交,通过神的话语聆听圣灵的声音,并在祷告中经历神的同在,我们才能真正面对罪的挑战。 《罗马书》8章3~4节指出:“律法因肉体软弱,有所不能行的,神就差遣自己的儿子成为罪身的形状,为了罪,定了罪在肉体中……使律法的义成就在我们这不随从肉体,只随从圣灵的人身上。”这段经文具体说明了耶稣基督的道成肉身及十字架如何完全满足了律法一切的要求。我们自己无力承担的神圣标准,基督已替我们全然成就,因着信祂,这义就归算给我们。而被算为义之后,信徒理当继续效法基督的生命方式——这就是成圣之路。 进一步,张大卫牧师也提到,信徒最终的归宿是“得荣”(glorification),即复活并与主同享荣耀的状态。然而,这并非某种从天而降的“魔法时刻”,而是在地上经历成圣争战,不断靠近最终圆满的过程。就像挪亚造方舟、经历洪水,再在新世界开始全新生活那样。对得救的人来说,称义就像“进入方舟”,而成圣则是在这段航程中不断洗去罪污、恢复我们原本照神形象所造的样式。直至最后我们进入“得荣”之境,那时回望,才更能体悟一切都因着基督的十字架所赐的“昂贵恩典”,以及我们在其中持续地与罪争战,才得以走到完成之日。 另外,“在耶稣基督里”还意味着我们并非孤立地跟随主,而是同属基督的身体——教会。当我们各自拥有不同的恩赐与职分,最后都要在这位元首基督里合而为一。正如保罗在《哥林多前书》第12章所做的比喻:我们有不同的功用,却同属一个身体。成圣同样如此,虽然个人层面要与罪争战,但在教会群体中,我们彼此扶持、代祷、用圣灵所赐的恩赐彼此帮助,才能让成圣更为丰盛。张大卫牧师强调:“属灵争战绝非孤立的自我奋斗,唯有在主的身体(教会)里,互相支撑、交换恩赐,一同成长,才更有力量。” 所以,第二个小主题的最终结论是:称义与成圣决不可分离,“在基督耶稣里”的真义在于——神对罪人的爱借着十字架彰显无疑,而当我们住在祂的爱里,便能得着真正的自由与能力。即使我们在内心仍带着罪的引诱和挣扎,也不能动摇我们“已经白白被称义”的救恩确信。当我们天天与罪搏斗,却绝不自我定罪;一旦落入自我否定,便是贬低了十字架成就的救赎能力,因而无法真正享受“昂贵的恩典”。 与之相对,如果以“反正已经得救了”为借口而轻忽成圣的争战,同样也是对福音本质的损害。在称义与成圣的张力之间,我们常常会陷入“懒散”或“自虐”这两种陷阱。此时,我们要紧抓“在基督耶稣里”这一真理。当我们住在主里,每日都经历祂的赦免与慈爱,学习祂的品格,就如连在葡萄树上的枝子一样,从源头不断获得生命供应,既能有力地与罪搏斗,也不会失去救恩的喜乐。 张大卫牧师呼吁信徒以平衡的眼光来对待“在基督里的自由与争战”。这也最终引向保罗在《罗马书》第8章后半部的高潮:“谁能使我们与基督的爱隔绝呢?”(罗8:35)。无论是生是死,是天使是掌权的,是现在的事是将来的事,或任何受造之物,都不能叫我们与神在基督耶稣里的爱隔绝。这个宏伟的宣告证明:一个“在基督里”的人,无论罪、死或定罪,都无法从他身上夺走生命。 现今,我们要做的,就是珍视这因十字架牺牲而赐下的“昂贵恩典”,毫不懈怠地与罪挣战。即便我们已得救,但罪性仍会在我们里面蠢动;我们需时时提醒自己:称义的恩典不可成为掉以轻心的借口,而要在圣灵的帮助下不断脱离罪并迈向成圣。总之,可以这样概括:“昂贵的恩典驱使我们投入与罪的争战,但这场争战已内含确据与胜利。” 从起点到过程再到结局,最关键的就是“在基督耶稣里”这一根基。正如张大卫牧师反复提醒的那样,“在基督里”是我们信仰实存的支柱;当我们牢牢抓住这支柱时,即使罪的诱惑蜂拥而至,也能以“我是已得救的人”这一明确身份而勇敢面对。此时圣灵会帮助我们,教会会为我们代祷,神的话语也会为我们前路照明。如此,我们就能在成圣之路上坚持到底。某一天,当我们站在主面前得荣,那时会更加明白:这一切皆因十字架所赐的“昂贵恩典”,以及我们在基督耶稣里每日操练、治死罪的过程,才能得以走向完全。 最后,总结本文所要传达的核心信息,可分为两大主轴: 并且在这一切过程中,要常存“在基督耶稣里”的信仰意识。没有任何罪或任何属灵争战的艰难能使我们与神的爱隔绝。在“已经”和“尚未”的矛盾与摇摆中,我们仍然确信自己不被定罪;要紧握这恩典,一路跟随主到底——这正是张大卫牧师对信徒们的劝勉与期待。愿我们都能够珍视这“昂贵的恩典”,在争战中经历神的得胜,也在喜乐中奔走天路。阿们。 www.davidjang.org

高価な恵み – 張ダビデ牧師

1.高価な恵みと罪との戦い 高価な恵みと安価な恵みの問題は、キリスト教信仰において非常に重要であり、多くの信者が悩み、あるいはつまずきやすい部分でもある。張ダビデ牧師はこの問題を多面的に強調し、「高価な恵み」が決して「安価な恵み」に成り下がってはならないと強く訴える。高価な恵みとは、キリストが十字架で流された尊い血潮によって私たちに与えられた、文字どおり尊く尊厳ある恵みである。本来、罪のゆえに死の刑罰を受けるしかなかった私たちが、神の御子の犠牲によってただ恵みにより義とされた。このように賜った恵みを、何の代価もないかのように、あるいは日常生活の中で「あって当たり前」と当然視してしまうなら、それは「安価な恵み」になってしまう。つまり、主が流された血潮の尊さを忘れ、その恵みを“ただで得られた当然の結果”程度にみなしてしまうことは、信仰の道を深刻にゆがめ、破壊する罪となるのだ。 張ダビデ牧師は、高価な恵みが安価な恵みへと変貌するときの厚かましさを「致命的な罪」と呼ぶ。主の十字架の苦難がいかに大きな犠牲であったかを理解せず、教会に所属しているという事実や洗礼を受けたという事実だけで安易に救いの確信を語り、イエス・キリストの死と復活を真剣に黙想しなくなってしまえば、やがて私たちの信仰の本質は崩れてしまうだろう。ゲッセマネの園でイエスが汗が血のしずくになるほど祈られた切なる苦悶を私たちが忘れ、十字架上の言い表しがたい肉体的・霊的苦痛を単なる“頭の中の知識”として扱い流してしまうなら、私たちはすぐに安価な恵みに陥る。「高価な恵み」とは、私たちの罪を代赎された十字架の出来事がもたらした、まさに天からの賜物であり、私たちの人生を根本から変える恵みである。キリストが与えてくださったこの賜物は、信者の存在全体を変革し、魂の奥深くから罪を憎み聖なるものを慕い求めるようにさせる。 しかし、実際には「救われた信者」にさらに追い打ちをかける課題がある。それは「救われてもなおうごめく罪の性質(罪性)」の問題だ。張ダビデ牧師はパウロのローマの信徒への手紙6章23節「罪の支払う報酬は死である」を思い起こさせながら、私たちの内にいまだに残る罪の力を決して軽く見てはならないと強調する。イエス・キリストの贖い(救赎)によって法的宣言(義認)を受けていても、この地上を生きるあいだ、私たちの中には依然として悪習や罪に染まった習慣が根強く残っている。そのような罪の痕跡や本性は、私たちの内に絶えず罪を犯すようそそのかし、神から遠ざかろうとささやき続ける。 救われた存在の内に共存する「二つの私」——「救われた私」と「古い習慣にとらわれた私」。この二者は互いに対立し、葛藤を引き起こす。張ダビデ牧師は、この構造を「私」と「私でない私」が共存する、と表現する。両者の葛藤は信仰生活の中で頻繁に起こり、とりわけ自分の人格が以前より向上したかをチェックしようとするとき、「なぜいまだに否定的な感情が湧き上がるのか、なぜ罪の習慣から抜け出せないのか」という自責や混乱に陥る。ここで重要なのは、パウロがローマ書7章で「私は何と惨めな人間でしょう」と告白したように、その嘆きの真意を理解することだ。パウロはすでに救われた神の子でありながら、なお残る罪の本性と格闘する。このような格闘こそ、聖化の過程で必然的に直面する霊的戦いなのである。 結局、「高価な恵み」を受けた者に課せられるもう一つの核心課題は、「救いと聖化のはざまで起こる葛藤を正しく理解し、戦うこと」である。高価な恵みを安価な恵みとしないためには、まず「十字架が自分にとってどういう意味を持つのか?」を深く把握する必要がある。そして「なぜ私は依然として罪を憎む一方で、同時に罪のささやきに耳を傾けようとしてしまうのか?」を自覚すべきである。そうすると、「すでに与えられた救い」と「まだ成就されつつある救い」との間で混乱することが減っていく。救いには最終的完成へと向かうプロセスが確かに存在し、私たちはその道のりで絶えず罪を捨て去る実践をしなければならない。そのとき、パウロの告白のように「私は何と惨めな人間でしょう。この死の体からだれが私を救い出してくれるのでしょう」(ローマ7章)と嘆く一方で、同時にキリスト・イエスにある勝利の確信を得るという二重の瞬間を味わうのだ。 張ダビデ牧師は、この「高価な恵みと罪の習慣との闘争」というテーマについて、救われた後も続く罪との戦いを軽視してはならないと繰り返し訴える。信者という理由だけで自覚が薄れ、「私はすでに救われた」と叫びながら罪の働きを放置するなら、それは高価な恵みを再び安価なものに貶める道である。一方、罪をあまりにも深刻に意識しすぎて「いつも私は罪人なのだからどうしよう」と自己嫌悪に陥ってばかりいるなら、それはイエス・キリストの血潮がもたらす完全な救いの力を疑う結果になる。ゆえに、この二つの極端を避けつつ、常に「高価な恵み」にふさわしく生きようとする真摯な思いが必要なのだ。 ローマ書7章25節に続く8章1節、すなわち「こういうわけで、この私は心では神の律法に仕えながらも、肉では罪の律法に仕えているのです。したがって今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」という一節は、キリスト者が日々黙想すべき要の箇所である。ローマ書7章の嘆きと8章の勝利の宣言が、すぐさま連続している点に注目せよ。7章の嘆きがあるにもかかわらず、8章1節が「こういうわけで(したがって)」と始まることは、現在進行形で罪と格闘している信者であっても、決して救いの確信を失うなという意味に解釈される。神の愛は罪人である私たちに対して永遠に開かれており、救われた信者は決して完全に罪に定められることがない。これこそが、高価な恵みをつかむ要となる宣言である。 このように、「高価な恵み」を受けた者が罪と戦う理由と必要性は明白である。張ダビデ牧師は私たちが信仰の善き戦いをやめてはならないと、エフェソの信徒への手紙6章にある「霊的な全身の武具」を引き合いに出して重ねて強調する。救われた信者としてのアイデンティティをしっかりと握り、罪に立ち向かわねばならない。ある瞬間には、罪がカインのようにアベルを殺したように私たちを押さえつけ、倒すことがあるかもしれない。だがそれでも、神はまたしても私たちに皮の衣を着せるように、キリストの義によって私たちを覆ってくださる。このような繰り返しと恵みの体験——すなわち、倒れながらも回復し、再び歩み始める信仰のプロセスこそ、私たちが絶えず「高価な恵み」をつかみ続けて生きている証拠なのである。 最終的に、この第一小テーマにおいて張ダビデ牧師が強調している中心点は、「十字架は断じて軽いものではなく、私たちに与えられた救いもまた極度の痛みと犠牲の上に築かれた尊いものである」ということである。この恵みを軽々しく扱ってはならず、また過度の罪責感によって救いの喜びを失ってもならない。「高価な恵み」であるがゆえに、私たちは当然のように罪と格闘し、その中で聖霊の力を借りて少しずつ主に似た者へと変えられていく歩みをするのだ。そしてその歩みには絶え間ない罪との戦いが含まれている。しかし、キリストにある者はすでに罪に定められず、ゆえに日々「救いの確実さ」を失わず、同時に「罪との聖なる闘い」を続けて歩むことになるのである。 2.義認と聖化、そして「キリスト・イエスにあること」の意味 張ダビデ牧師は、パウロが強調した義認と聖化の関係を非常に重視する。パウロがローマ書5章から8章にかけて展開している議論は、「すでに」と「まだ」の緊張関係の中で、信者がいかに救いの確信を抱きながらも罪と戦うべきかを示している。義認(justification)とは、イエス・キリストの十字架の贖いを信じることによって、私たちが法廷的に無罪宣言を受けることである。この義認は、まったくもって神の一方的な愛と恵みの結果であって、人間の行いや功績が入り込む余地はない。つまり、私たちが自分で律法を完全に守り抜くことなどできなかった救いを、神が独り子を通して無償で与えてくださった。これこそが「高価な恵み」の核心なのだ。 しかし、義認という状態に入った後も、私たちの実際の生活や人格——すなわち「性質や行動」は依然として完全ではない。聖化(sanctification)は、義認を受けた者が段階的に聖なる姿へと近づいていく過程であり、人生全体にわたって罪を捨て去り、イエス・キリストに似た者となる実践と闘争が含まれる。張ダビデ牧師は、この聖化のプロセスを通る中でしばしば「いったい何が変わったのか。以前と今で自分の実存はあまり変わっていないのでは?」と落胆したり、あるいは「もう罪と戦わなくてもいい。すべて終わった」と勘違いして高慢になったりする二つの極端に陥りやすいと指摘する。 パウロが「私は日々死んでいる」(コリントの信徒への手紙一15章31節)と告白したように、イエスを信じ救われたとしても、私たちは瞬間瞬間で罪に用心し、戦わなければならない。しかし、私たちはすでにイエス・キリストにあって完全な救いの確信を得たのだから、その戦いは決して絶望的なものではない。二重の矛盾のようにも見えるが、実は義認と聖化は二重構造ではなく、コインの裏表のように表裏一体である。義認された者が聖化を成し遂げていくことは、自然な信仰の「成長の軌道」であり、神はこの道を歩む私たちに聖霊の内住と助けを与えてくださった。ゆえに二兎、すなわち「救いの確信(義認)と罪との聖なる闘い(聖化)」を同時につかむことは、決して非現実的な理想論ではない。 張ダビデ牧師はここで、ローマ書7章後半と8章前半を一体として読むよう勧める。ローマ書7章25節「こういうわけで、この私は心では神の律法に仕えながらも、肉では罪の律法に仕えているのです」の直後に続く8章1節「したがって今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」が切り離されて理解されるべきではない。むしろ両方をつなげ、単一のメッセージとして統合的に捉えねばならない。すなわち、「いまだ罪の習慣に引かれる葛藤はあっても、キリスト・イエスにある者は決して罪に定められない」。これがパウロの語る福音の核心なのである。 ここで登場する有名な表現が「キリスト・イエスにある(in Christ Jesus)」である。「キリストにある」とは、単にイエスを尊敬したり、イエスの教えを倫理的に模倣したりするレベルのことではない。むしろヨハネによる福音書15章でイエスが「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝」と語られたように、神秘的な霊的合一(union)を指す。枝がぶどうの木から離れては命を得られないように、信者はキリスト・イエスのうちにとどまることで日々命の供給を受けて生きる。「わたしのうちにとどまりなさい。そうすれば、わたしもあなたがたのうちにとどまる」というイエスの言葉は、単なる比喩ではなく、現実的な信仰生活の構造そのものを表す。もし私たちが主のうちから霊的命を受け取れなくなれば、再び罪の奴隷へと転落しやすくなるだろう。 張ダビデ牧師は、この神秘的な「キリストにある」という概念を体得するには、「愛」という戒めの成就が必要なのだと語る。イエス自身が「わたしが父の愛のうちにいるように、あなたがたもわたしの愛のうちにとどまりなさい」と仰せられ、「わたしの戒めを守るなら、わたしの愛のうちにとどまる」とも言われた。結局のところ、神の愛と私たちの従順が出会うとき、私たちは真に「キリストにとどまる」体験をすることになる。律法による罪定めや罰の論理ではなく、罪人であるにもかかわらず最後まで愛してくださる神のご性質に直接向き合い、受け入れるとき、その愛が私たちの霊的呼吸となる。このように愛によって結ばれた状態を、パウロは「キリストにある(In Christ)」という一言で凝縮している。 「キリスト・イエスにある者が決して罪に定められることがない」という言葉を、一部の律法主義者は誤解し、「それなら好き勝手に生きても大丈夫なのか」と貶めることがある。しかし、パウロの意図はまったく逆である。すでに罪人であったのに赦され自由を得た者が、どうして再び罪の奴隷へと戻れるだろうか、ということなのだ。もし再び罪と妥協する生き方に戻るのであれば、それは前の小テーマで述べた「高価な恵みを安価なものにする罪悪」そのものである。したがって、「罪に定められることがない」という事実を傲慢の根拠ではなく、むしろ罪から解放された新たな人生へと進む原動力とせよ、というのがローマ書8章の文脈である。「霊の法」によって「罪と死の法から解放」されたという宣言(ローマ8章2節)は、もはや罪が王として私たちを支配することはないという意味だ。同時に、これからは聖霊に導かれながら「肉の行いを日々殺す」戦いを継続すべきことを強調している。 このように、義認と聖化、そして「キリスト・イエスにある」ことは、相互に密接に結びついている。救いを得た信者のアイデンティティは、「私はイエスにあり、イエスの血潮によって義とされ、だから罪に対して日ごとに死にながら、より主に似せられていく」という真理によって定義されるのだ。張ダビデ牧師はこの過程を解説するにあたり、私たちは以前と「形の上では似たような問題」を経験しているようでも「本質は変わっている」ことを認識すべきだと付け加える。これを「同形異質」という表現に例えて、救いの前と後とで見た目は同じように見える苦難や罪の誘惑に直面しても、その質(本質)が根本的に異なると強調する。今やそれは罪による苦難ではなく、義なる者の苦難である。キリストとともに味わう苦難、あるいは愛を実践するために受ける痛みへと変わるのだ。 実際、イエスは弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい」と言われ、パウロも「私は日々死んでいる」と述べた。これは毎日の生活の中で徹底的に自己否定とキリスト中心の生き方を実践せよという意味である。しかし、この戦いがまったく喜びのない機械的で苦しいだけのものかというと、そうではない。なぜなら、私たちはすでに「キリストにあって自由を得た」という確信を持っているからである。信者は罪と戦いつつも、同時に救いの大いなる喜びと希望を所有するのだ。 「したがって今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8章1節)は、これらすべてのプロセスを集約的に示す宣言である。すなわち、7章末尾の嘆きがあるにもかかわらず、8章1節でパウロは「したがって」と告げる。罪にまつわる実存的な葛藤は依然として残るが、その葛藤が私たちの救いを奪い去ることは決してできないということだ。救いは全的に神の愛に由来し、その愛はキリストの十字架によって最も明確に現され、さらに復活と聖霊の内住によって確証されている。パウロは結論として「わたしたちの主イエス・キリストによって、神に感謝いたします」(ローマ7章25節)と告白する。そうした霊的感嘆の中で、「キリスト・イエスにある者は決して罪に定められない」と確信をもって宣言するのが、8章1節の「したがって」に込められた深い意味なのである。 結局、張ダビデ牧師が強調しているのは、義認がなければ聖化は不可能であり、聖化のない義認もまた真の意味を失うという点だ。義認によってすでに罪の赦しを得た私たちは、日々聖霊の助けによって罪の習慣を排除する戦いを続けねばならない。そしてその全プロセスを牽引する中心的エネルギーは、ほかならぬ「キリスト・イエスにあることによる愛の結合」である。主との親密な霊的交わり、御言葉を通して内住される聖霊の声、祈りを通じて味わう神の臨在こそ、私たちが罪と戦う根拠となる。 ローマ8章3~4節、「肉によって弱くなっているため、律法にはできなかったことを神はしてくださった。すなわち御子を罪ある肉の形でお遣わしになり、その肉において罪を処罰された……わたしたちが律法の要求を満たして歩むためである」という御言葉は、イエス・キリストの受肉(成肉)と十字架の出来事が、具体的にいかに律法のあらゆる要求を完成させたのかを示している。私たちには到底守れなかった律法をキリストが完全に満たし、キリストを信じる者にはその義が転嫁される。同時に、その義を転嫁された信者は、さらにキリストの生き方を見倣すべきなのだ。これこそが聖化への道である。 さらに張ダビデ牧師は、信者が究極的に目指す到達点を「栄化(glorification)」と呼ぶ。それは最終的に私たちが復活して主とともに栄光を受け継ぐ状態を意味する。しかし、栄化へ至る過程は天から降ってくる“魔法のような瞬間”によって成し遂げられるのではなく、この地上における聖化の戦いを通して段階的に近づいていくものだ。ちょうどノアが箱舟を建造し、大洪水を経験して、新しい世界で新たな始まりを迎えたように、救われた私たちは義認によって「箱舟の状態」に入れられた。そして、聖化の過程を通して罪の汚れを洗い落とし、神が創造された本来の姿に回復されていく。その道の結末が「栄化」であり、結局張ダビデ牧師が示す教訓は「私たちがすでに与えられている救いの本質を忘れず、まだ完成していない霊的な戦いに真剣に取り組もう」という呼びかけでもある。 「イエスにある」ということはまた、信者一人ひとりが個別にイエスに従うだけでなく、キリストの体(教会)に属しているという意味も含む。私たちにはそれぞれ異なる賜物や職務が与えられているが、究極的には皆、頭なるイエス・キリストの体の肢(し)となっている。パウロがコリントの信徒への手紙一12章で語るように、私たちはそれぞれ異なる働きを担いながらも、一つの体を形成すべきなのだ。これは聖化の過程でも同様である。個人的には罪と戦いながらも、教会共同体の中で互いを励まし合い、とりなし合い、愛を実践することで、聖化がより豊かに進められる。張ダビデ牧師は「霊的戦いは決して孤立した自我の力では全うしがたい。主の体である教会の中で、互いの弱さを補い合い、聖霊の賜物を分かち合いながら、ともに成長する必要がある」と力説する。 結局、この第二小テーマから得られる結論は、義認と聖化は決して分離できないということ、そして「キリスト・イエスにある」という意味は、罪人である私たちに対する神の愛が十字架によって完全に顕され、それを受けて私たちがその愛のうちにとどまるときに真の自由と力を得る、ということである。救われた者の内的な矛盾、すなわち絶え間ない罪の誘惑との格闘は、「すでに無償で義とされた者」という救いの確信を揺るがすことはできないと悟るとき、正しいバランスを見いだせる。信者は日々罪を殺しつつも、自分自身を軽々しく罪に定めはしない。自分をみだりに罪に定める瞬間、十字架が成し遂げた救いの力を軽んじることになり、高価な恵みを十分に享受できなくなってしまうのだ。 反対に「すでに救われたのだから」という理由で聖化の戦いを軽視すれば、それもまた福音の真髄を損なう。義認と聖化のはざまで感じる葛藤は、「怠惰」か「自己嫌悪」という二つの落とし穴のあいだで常に起こる。ここで私たちがしっかりとつかむべきなのが「キリスト・イエスにある」ということだ。主にとどまるとき、私たちは絶えずキリストの赦しと愛を体験し、そのお方のご性質を学んでいく。ぶどうの木につながる枝のように、命の養分が絶えず供給されるので、罪と戦う力が与えられ、救いの喜びも失われることがない。 張ダビデ牧師は、この「キリストにある自由と闘い」をバランスよく見つめるように勧めている。これこそ、パウロがローマ書8章後半で到達する頂点、すなわち「だれが私たちをキリストの愛から引き離すことができるでしょうか」(ローマ8章35節)という感動の叫びにつながる。死も生も天使も支配する者も、今あるものも後に来るものも、いかなる被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを切り離すことはできない——というこの荘厳な宣言は、「キリストにある」信者が罪と死、そしてあらゆる罪定めから命を奪われることは決してないという真理を最終的に証明するものである。 私たちがいまなすべきことは、キリストが与えてくださった高価な恵みを軽く扱わず、すでに救われているにもかかわらずいまだに内側で蠢こうとする罪の性質と戦いつつ、義認の恵みのうちで聖化へと絶えず前進し続けることである。要約すると、「高価な恵みは私たちを罪との戦いへと駆り立てる。しかし、その戦いはすでに勝利と確信が保証されている戦いである」ということだ。そして、その出発点から過程、結論に至るまで最も大切なのは、「キリスト・イエスにある(in Christ Jesus)」という事実を忘れないことである。 張ダビデ牧師が繰り返し強調するように、「キリストのうちにある」ことこそが私たち信仰の実存的土台であり、この土台をしっかりつかむとき、たとえ罪の誘惑がいつ襲ってきても、「すでに救われた者」という明確なアイデンティティのもとで大胆に立ち向かうことができる。そのとき、聖霊が私たちを助け、教会共同体が共に祈り、みことばを通して神が私たちの歩む道を照らしてくださる。こうして私たちは聖化の道を最後まで走り抜く。いずれ主の御前に立ち、「栄化」に至るその日、すべてがすでに高価な恵みをくださった十字架と、キリスト・イエスのうちにとどまりつつ日ごとに罪を脱ぎ捨てようと努めた歩みによって成し遂げられると信じる。 まとめると、この本文が伝えようとしている核心のメッセージは大きく二つに要約される。第一に、十字架の犠牲によって与えられた高価な恵みを軽んじてはならないということ。第二に、義認の恵みのうちで聖霊の助けによって罪を治め、聖化へと進みなさいということである。そして、このすべての過程において「キリスト・イエスにある」存在であるという信仰上の事実を、常に心に刻むべきだということだ。どんな罪も、どのような霊的戦いの困難も、神の愛から私たちを引き離すことはできない。「すでに」と「まだ」のあいだで葛藤し揺れるときでさえ、私たちは罪に定められる存在ではないという恵みを手放すことなく、最後まで主に従っていく者となれ——これが張ダビデ牧師の語るメッセージと言えよう。 www.davidjang.org

The Costly Grace – Pastor David Jang

1. The War with Sin and the Costly Grace The issue of “costly grace” versus “cheap grace” is extremely significant in Christian faith, and at the same time, it is an area that many believers grapple with, sometimes stumbling along the way. Pastor David Jang repeatedly highlights this topic from various angles, emphasizing that “costly … Read more