장재형목사 설립 올리벳대학교 OIT 교수진 CES 2022 컨퍼런스 참석

장재형목사가 설립한 올리벳대학교의 OIT의 Olivet Institute of Technology 교수진이 1월 5일부터 6일까지 버추얼로 CES 2022 컨퍼런스에 참석했습니다. 이는 교수진이 올해의 최신 기술 동향을 파악하는 데 도움이 되었습니다. OIT는 학생들에게 최첨단 기술을 가르치고 혁신에 적용할 수 있는 새로운 교육 자료를 설계할 계획입니다. CES 2022에서는 인공지능, 메타버스와 관련된 다양한 어플리케이션을 선보였습니다. CES 2022의 기조연설은 현재 샌프란시스코 캠퍼스가 … Read more

La sagesse de Paul pour édifier l’Église – Pasteur David Jang

Ⅰ. L’attitude de Paul face à ses opposants, empreinte de la douceur et de la bienveillance de Christ En examinant l’intégralité du chapitre 10 de 2 Corinthiens, le pasteur David Jang souligne l’attitude de Paul au sein de l’Église de Corinthe. Il met particulièrement l’accent sur le changement de ton qui apparaît dès le verset … Read more

建立教会的保罗智慧 —— 张大卫牧师

Ⅰ. 保罗以基督的温柔与宽容对待敌对者的态度 张大卫牧师透过对哥林多后书第10章整章的考察,着重指出保罗在哥林多教会中所展现的态度。他特别留意到,哥林多后书第10章从第1节开始的语气与之前的内容有所不同,这与保罗写下严厉而强硬的书信有密切关联。在此背景下,我们可以联想到介于哥林多前书与哥林多后书之间,保罗所写的那封被称为“流泪的信”(责备信)。那封书信包含的严厉口吻,以及哥林多后书第10章再度显露出的坚定态度,都可以看作是保罗对教会内出现的假教师予以明确指正,并藉此彰显使徒权威,以收拾教会紊乱的表现。 在哥林多后书10章1节里,保罗说:“我保罗,就是与你们见面时是谦卑,不在你们那里时是放胆的,如今藉着基督的温柔和宽容亲自劝你们。”对此,张大卫牧师具体分析了保罗当时所面临的情况。即使在他亲手建立、教导的哥林多教会,保罗仍遭受非议。有些人嘲笑保罗:当他不在哥林多,而在其他城市或地区时,就写信严厉斥责;但一旦与他们见面,就显得谦虚,看起来毫无能力。他们以当时希腊文化中重视的“修辞技巧”“雄辩”等标准,根据外表、言语能力、外在条件来评判保罗。因此有人贬低保罗说:“他的书信写得不错,但见面之后,他说话笨拙,身形也不起眼,实在不值得高看。” 张大卫牧师在此特别称赞保罗对待这些敌对者的态度。哥林多后书10章1节所提到的两个词——“温柔(praus, πραΰτης)”和“宽容(epieikes,ἐπιεικής)”——是展现耶稣基督心肠的重要美德。正如耶稣在马太福音11章29节所说:“我心里柔和谦卑,你们当负我的轭,向我学习”,同样,保罗也以基督的温柔与宽容来治理教会。希腊语“温柔(praus, πραΰτης)”的含义涵盖谦卑、柔和、温厚;“宽容(epieikes,ἐπιεικής)”则指“从容且慎重的态度”。也就是说,即便教会内有掀起不和、破坏保罗权威的假教师存在,但保罗并没有任凭怒气爆发,而是以“基督的温柔与宽容”来应对他们。张大卫牧师强调,这并非软弱无力,而是一种“外柔内刚”的态度。 然而,保罗并非毫无反抗地默默忍受这些羞辱。转到哥林多后书10章2-3节时,他明确表示自己将会以果敢的态度来应对。当时在教会中诽谤他的人说:“保罗与同行之人是凭着血气行事”,也就是用世俗手段,只图自己利益。这里也和第8、9章中提到的捐献(奉献)、募集,以及罗马书15章27节等与保罗财政相关的言论相互呼应。敌对者诬告保罗暗地里利用为耶路撒冷的穷乏圣徒筹集捐献的机会,而为其个人图利。 在此情况下,张大卫牧师指出,保罗依然保持温柔与宽容,但同时又非常坚定地要防止敌对者继续搅乱教会、迷惑信徒。保罗之所以不惧这些指控,是因为他深知自己在神和人面前行事诚实无愧。他可以在使徒行传20章33-35节、哥林多前书4章12节等处解释自己的生活方式:亲手劳作赚取生活费;遭受逼迫则忍耐;被咒骂则以祝福回报;从不贪图任何人的金银或衣服。正因为保罗有这样的生活作基础,他才敢大声说自己并未“凭着血气”行事。张大卫牧师也强调,对于当代教会的领袖或同工来说,保罗的这种态度同样是一种好榜样。无论遇到怎样的诽谤与误解,只要自己在主面前清白,就不必动摇,而应当为福音打那“美好的仗”,同时仍不失去温柔与宽容的品格。 尤其是在哥林多后书10章3节之后,保罗表明他争战的目的并非为了“属肉体的事”。他强调:“因为我们虽然在肉身中行事,却不凭着肉体争战”,指出他所有的争战都是为建造神的教会、基督的身体而战。张大卫牧师指出,保罗所谓的“争战”,并不是普通的人际争吵或纠纷,而是为守护福音,并防止教会被虚假教训侵蚀所进行的属灵争战。保罗的“温柔与宽容”与他护卫真理的决心并行不悖,它并非软弱无力,而是一种在福音里头的坚定,二者在保罗身上达到平衡。张大卫牧师认为,这种态度在哥林多后书10章中体现得非常鲜明,也给今日教会和领袖留下深刻榜样。10章开头提到的温柔、宽容,以及随之展现出的果敢和使徒权威,直接带出保罗那善战的心志与福音大能,并最终指向在基督里真正的夸口与蒙称许之道。 Ⅱ. 不凭血气而行的善战与福音大能 在哥林多后书10章4-6节,保罗清晰表达了他作战的方式与动机。他说:“我们争战的兵器本不是属血气的,乃是在神面前有能力,可以攻破坚固的营垒。”又宣告:“将各样的计谋,各样拦阻人认识神的那些自高之事一概攻破。”张大卫牧师指出,保罗所说的“争战”并非单纯地想制伏他人或发泄个人情感,而是要“彻底拒绝那些破坏教会的虚假教训、骄傲、自私、世俗标准,以及人性的自夸”,并以基督真理攻破这一切。尤其值得注意的是,这场争战并不是用人身攻击或血气之力去打,而是以“神所赐下能攻破一切与认识神相敌之高傲”的真理之兵器去征战。 保罗进一步展示福音的大能,宣告“要将人所有的心意夺回,使它顺服基督”(参哥林多后书10:5)。意思是,福音会粉碎人心中那些邪恶、骄傲的念头,使人最终降服于基督。张大卫牧师在解读时强调,在真福音面前,无论是错误的理论,还是高抬自己的虚荣与欺骗思想,最终都会被瓦解。保罗在加拉太书、罗马书、腓立比书等多处已经多次宣扬过,福音能击碎罪和死亡的权势,将人引领到耶稣基督的恩典之中。如今在哥林多后书10章里,他同样表明,教会中那些搅扰的错误言论与毁谤,也完全能被“福音的兵器”所攻破。 然而,在这强大能力的背后,如前所述,保罗同时怀抱着温柔与宽容。张大卫牧师指出,这一点尤为关键。福音的威力并非要将敌人一刀斩尽,或者用愤怒践踏对方,而是为了最终将神的教会建立得更完全。实际上,保罗在10章6节谈到,“等你们十分顺服了,我就要责罚那一切不顺服的人”,他也明言自己会对错误予以严厉惩戒。但这种惩戒的目的,并不是要毁灭对方或分裂教会,而是出于保护教会与信徒,消除假教训,以让教会更加坚固——可见这是一种正面的动机。 保罗指出“你们是看外表吗?”(参哥林多后书10:7),当时的哥林多信徒往往过度依赖修辞、雄辩、外貌等世俗的评判标准,他们嘲笑保罗当面说话笨拙,显得不够自信。保罗却说:“若有人自信是属基督的,他要再想想,他怎样是属基督的,我们也是这样”(参10:7)。也就是,真正决定一个人是否属基督的标尺,并非外在条件,而是看此人是否被神的灵所抓住,是否以福音为动力,是否竭尽全力遵行主的旨意。 张大卫牧师在此结合当代教会容易犯的错误:常常以教会增长或外在能力、甚至是华丽的口才、领导风格等,来评价领导者或群体的属灵状态。保罗同样因这些世俗标准而受到责难,但他却持守福音大能,毫不退让;同时,他也透过所有的争战,最终实现了建造教会的善意目标。在第10章8节,保罗说:“主赐给我们权柄,并不是要拆毁你们,乃是要造就你们。”可见保罗所拥有的“权柄”并不是为了踩踏别人、统治他人,而是为了保护、带领和牧养信徒。因此,如果是为了守护福音真理,无论与谁争战,都必须在爱与温柔的基础上进行那“善战”。 到了10章9~11节,保罗提到有人嘲讽说:“他的书信既严厉又强硬,但他亲身在时却软弱,说话又难听。”面对这种攻击,保罗坦然表明,自己无论在书信中还是当面,所行所教是一致的。他始终记得,自己对哥林多教会负有建造的责任,是被神所设立的使徒。张大卫牧师从此提醒:只要教会领袖持守福音原则,一贯地牧养教会、教导真理,即使遭受批评或误解,也能在动荡中稳住脚跟,继续为教会奠基。 10章12节又提到“我们不敢将自己与那些自荐的人同列相比”,这里保罗透露,当时从耶路撒冷来的假教师向人自我吹捧,且用外在条件左右信徒。保罗认为,他们以“自我为尺度互相度量,互相比较”的方式是毫无智慧的。张大卫牧师借此谈到教会内部各种纠纷:领导者间的竞争,或因外在评价标准而引发的冲突,这些都与“夸口的当指着主夸口”(哥林多后书10:17)背道而驰。跟随基督的人要夸口的不是自己,而是要认识“神是谁”并传扬祂给我们的权柄与恩典。正如耶利米书9章24节所说:“夸口的却要因他有聪明,认识我是耶和华而夸口”,并没有让人夸口自己的外貌、学识或口才。保罗在罗马书15章20节也提过:“不在别人立好的根基上建造。”这显明保罗并不寻求自我炫耀,而是处处为建立教会与推进福音而努力。张大卫牧师再次强调,这才是真正的宣教态度。 因此,张大卫牧师对于哥林多后书10章的解读关键在于:在各种纷争与冲突里,保罗一方面始终保持“基督的温柔与宽容”,另一方面又对那些破坏教会的势力毫不妥协,发挥使徒的权柄。这场争战不出于血气,也不带有世俗目的,而是出于神要建造、扩张教会的权柄,而争战结果就是要“攻破假和骄傲的营垒,使其顺服基督”。在这一过程中,为此甘心劳苦的人,最终将成为“蒙主称许的人”。张大卫牧师提醒现代教会与信徒:当我们面临教会内外的冲突时,应当效法保罗,既持守温柔与宽容,又勇于为真理打那美好的仗。这两者并不矛盾,反而是达至真正成熟的途径。 Ⅲ. 在主里夸口,只求蒙主称许 在哥林多后书10章后半部分,保罗将自己与敌对者的“夸口”做了鲜明对比。张大卫牧师通过这部分的详细解读,再次揭示了当时教会内的核心问题:那些搅乱教会的假教师们,往往跑到别人已打下的根基上炫耀自己的功劳,试图将信徒收归己方。而保罗则说:“我们不越过限度地夸口,只照神所量给我们所能达到的界限”(参哥林多后书10:13)。这里的“度量”和“界限”,指的是神所指派给保罗的宣教范围。就如耶路撒冷教会官方认定彼得、雅各主要在犹太地区传福音,而保罗则领受使命去到外邦地区(如哥林多、加拉太、以弗所等)传讲福音。保罗对哥林多教会的“夸口”,并不是指他本人拥有什么伟大的个人成就,而是说在神给他的宣教领域内,他尽心竭力传扬福音而已。 张大卫牧师在此强调,若教会里出现“越过限度”的夸口,往往会带来分裂和破坏:有人轻视曾经在该处付出许多代价、流泪播种的人,却在对方已建立的工场上夺取果实,把功劳归给自己。这在现代教会里也常见:对先行者的辛劳未予尊重,新到任者却抹去前人的痕迹;这种行为正是保罗所批评的“越过自己界限的夸口”。相反,我们应当效法哥林多后书10章15-16节提到的:“只盼望你们的信心增长,就可以在我们的界限之内,因着你们更加昌大,可以将福音传到你们以外的地方去。”保罗也在罗马书15章20节宣告:“立志不在基督的名被称过的地方传福音,免得建造在别人的根基上。”他对他人付出的尊重,以及要往尚未得之地拓展福音的真心,正是使徒热情的真实体现。 因此,保罗在10章17节引用耶利米书9章24节:“夸口的当指着主夸口”,以此作结论。这里的核心信息是:我们的夸口应该只在于“神以及祂的作为”,而不是我们自己。张大卫牧师指出,对信徒而言,一切的夸口最终都应归结为“主如何施恩给我,我又如何侍奉主”。至于那些像学历、口才、外貌之类的世俗夸耀,并不能帮助建立教会,也难以结出属灵果子。保罗在10章18节说:“因为蒙悦纳的,不是自己称许的,乃是主所称许的。”这句话清楚地表明,要寻求谁的认可——不是向人寻求掌声,也不是不断地自我陶醉,而是要被神所悦纳、所称许。人们的意见朝夕瞬变,但神的称许却是永恒的。 张大卫牧师将这一信息直接应用于当代教会与基督徒的生活中:即便在世俗标准下显得微不足道,或容易被人轻视,只要神与此人同在,并赐给他使命,那他便是蒙福的人。像保罗一样,即使外貌、口才平平,且被人耻笑,但若是为福音献身,又为教会和信徒谋益,将一生摆上,神就会称许他并使用他。反之,那些纵使外表、学历、口才都很出色,却只为自己扬名的人,难以得到真正的称赞与果效。在今天的教会里,如果出现冲突或纷争,最根本的解决之道,正是在于重新找回“在主里夸口,并只寻求主的称许”这份态度。 总而言之,哥林多后书第10章对今日教会仍然具有强烈的启示意义。无论是保罗所展现的温柔与宽容、面对真理问题的坚定与不妥协、以福音能力争战的姿态,还是“在主里夸口并寻求主的称许”的价值观,都值得教会在面对内部纷争和外部挑战时反复省思。张大卫牧师也提到,保罗的生命本身就是福音的讲章。他能在金钱和人际关系等实际问题上被人非议,却始终稳如磐石,正是因为他能在福音之中表明自己的立场。他所走的道路足以证明,他并没有“凭血气而行”,且他所持有的权柄并不是“毁坏人”,而是“建造人”。这些功课也适用于当代教会的领袖:当教会面临财务争端或权威冲突时,先要自问我们是否真的拥有“基督的温柔与宽容”,并且是否仍坚守福音的原则,最终我们的夸口到底是在神的作为上,还是在自我的成就和能力上。 简言之,张大卫牧师将哥林多后书第10章的要义归纳为三点。其一,保罗面对敌对者时的态度:带着耶稣基督的温柔与宽容,同时又能对破坏教会的势力坚定抗衡,展现“外柔内刚”。其二,保罗的争战并非属血气或世俗目的,而是凭借福音的大能攻破坚固营垒,且该争战出于为建造教会的良善动机。其三,真正应当夸口的是神为教会所成就的恩典和工作,而非人自以为傲的能力或外在条件;我们当追求“蒙主称许”,而非自我或世人称许。这三点正是哥林多后书10章对教会、对信徒的核心教导。只要我们遵循这一教训,即使在纷争与矛盾中,也能持守福音的本质并不断成长。张大卫牧师提醒,在这个过程中需要时刻保持谦卑,作出以福音为中心的决断。 最终,哥林多教会内外的一切争议、诋毁和假教师的搅扰,都能因保罗紧抓十字架与复活的大能、并以使徒身份治理教会而得到化解。尽管他遭遇到人身攻击,保罗并未因此动摇;他始终以温柔与宽容对待信徒,却对散布谬误者行使使徒的权柄加以驳斥。之所以能做到这点,是因为他坚信“我们终将在福音里得胜”,并且怀着“只在主面前寻求称许”的属灵价值观。张大卫牧师在此为当代信徒提出发人深省的问题:“我们夸口和寻求称许的根基何在?我们的争战是否真正扎根于福音大能与基督的爱之中?”保罗所说的“建立教会的权柄”,也就是今日主所喜悦的真正领导者权柄;那权柄并不用于维护私利或抬高自己,而是用于建造教会与帮助信徒在信心中站立得稳。 通过哥林多后书第10章,我们能更加深入地洞察保罗的心志与使徒权威。张大卫牧师借着解读本文,系统地强调了我们在教会中应当遵循的属灵原则:第一,即使在教会中遭受诋毁与中伤,也要以基督的温柔与宽容相待。第二,对于试图颠覆教会、攻击信徒的势力,绝不可妥协,而要依靠福音的兵器勇敢地应战。第三,在这个过程中,不要自我夸耀,而要单单夸口神的工作,并期盼最终得主的称许。哥林多教会如此,当今的教会与信徒亦然,只有紧握这几条原则,才能在各种冲突与动荡中守住福音的根基并不断成长。 最后,张大卫牧师再次提起哥林多后书10章17节“夸口的,当指着主夸口”,勉励所有人都要努力活在主所喜悦的道路上。只有当主亲自称许我们的事工时,这才是真正有价值、永不动摇的称许;人们的评价往往转瞬即逝,但主的称许永远长存。教会若谨记这一点,“以温柔与宽容对待敌对者,却不惧怕为福音打美好的仗,并在主里夸口以求得主认可”,就能如同保罗在哥林多后书10章中所教导的那样,在纷争中依然坚固地站立,并得以被神使用。 www.davidjang.org

教会を建て上げるパウロの知恵 – 張ダビデ牧師

Ⅰ. キリストの柔和と寛容をもって敵対者に臨むパウロの姿勢 張ダビデ牧師はコリント人への手紙第二(以下、Ⅱコリント)10章全体を取り上げながら、パウロがコリント教会の中でどのような態度を示したのかを非常に重視して論じている。特に、10章1節から現れるパウロの語調が、これまでのⅡコリントの前半部分と異なっている点に注目し、その背景としてパウロがはっきりとした強い調子の手紙を書いた理由を考察する。ここで私たちは、いわゆる「涙の手紙」と呼ばれる、ⅠコリントとⅡコリントの間に送られたパウロの叱責の手紙を思い起こすことができる。この「涙の手紙」に滲む厳粛な口調、そしてⅡコリント10章で改めて示される断固たる姿勢は、教会の中に入り込んだ偽教師たちをはっきりと指摘し、混乱を収拾するために示された使徒としての権威の発現と見ることができる。 10章1節の「対面しているときはへりくだり、離れているときには大胆であると言われるこのパウロ、私は今、キリストの柔和と寛容によって自らあなたがたに勧める」という言葉について、張ダビデ牧師は当時のパウロの状況を具体的に分析する。パウロは自ら開拓し教えてきたコリント教会からさえ非難を受けていた。一部の人々は、パウロがほかの町や地域にいるときは非常に強い口調で手紙を書くのに、実際に会ってみると謙遜で、大して力がなさそうに見えるとあざけっていた。彼らは当時のギリシア文化圏で重んじられていた「修辞学的技巧」や「雄弁」などを基準に、外見や話しぶり、表面的な資質で人を評価したのである。そこでパウロのことを「文章はうまいが、実際に会うと話し方が下手で、体つきも貧弱で取るに足りない人物だ」と誹謗したわけだ。 張ダビデ牧師は、そうした敵対者に対するパウロの姿勢を高く評価する。Ⅱコリント10章1節に示される「柔和(πραΰτης, praus)」と「寛容(ἐπιεικής, epieikes)」という二つの言葉は、イエス・キリストの心を表す非常に重要な徳目だというのである。実際、イエスご自身がマタイの福音書11章29節で「わたしは心が柔和でへりくだっているから、わたしのくびきを負ってわたしから学びなさい」と語られたように、パウロもまたキリストの柔和と寛容を実践しながら教会を治めようとしていた。ここで「柔和」は謙遜や穏やかさ、優しさを含み、「寛容」は「ゆとりある慎重な態度」を指す。つまり教会内に不和をもたらし、パウロの権威を失墜させようとする偽教師たちがいても、パウロは怒りを爆発させるのではなく、あくまで「キリストの柔和と寛容」をもって彼らに接したのである。これは単なる弱々しい態度などではなく、内に強さを秘めた「外柔内剛」の姿勢であると、張ダビデ牧師は説明する。 しかしパウロは、ただ屈辱を黙って受け入れていたわけではなかった。Ⅱコリント10章2~3節に進むと、彼は「大胆に振る舞う用意がある」ことを明確に表明している。当時の教会で彼を誹謗していた者たちは、「パウロとその仲間たちは肉に従って歩んでいる」と、すなわち世俗的な手段で動き、自分の腹を肥やす者たちにすぎない、と侮辱していた。その背景には、8章と9章にわたって取り上げられている献金の話や、ローマ15章27節などに見られるパウロの財政に関する言及があった。パウロは各地の教会から集めた献金をエルサレム教会の困窮する聖徒たちを助けるために用いると主張していたが、敵対者たちは「実際には、自分の私利私欲のために献金を募っているのだ」と非難したのである。 そのような状況の中でも、パウロが柔和と寛容を保ちつつも、敵対者がこれ以上教会を乱し信徒たちを惑わさないように断固たる処置を取ろうとした点を、張ダビデ牧師は強調する。パウロは自分が神と人の前で誠実に生きてきたという確信があるため、そうした非難を恐れなかった。使徒の働き20章33~35節やⅠコリント4章12節などを通じて、彼は自らの生活を語っている。自分の手で働いて生活費を得ており、迫害を受ければ耐え、罵られれば祝福し、だれの金や銀、衣服も欲しがらなかったと胸を張って言えるのだ。こうした生き方があったからこそ、「肉の思いに従って生きてはいなかった」というパウロの主張は説得力を帯びる。張ダビデ牧師は、今日の教会指導者や働き人たちにとっても、このパウロの姿勢は模範となると語る。たとえ策略や誤解が生じても、自分が主の前で正しいと確信できるならば揺るがされることなく、福音のために善い戦いをしつつも、柔和と寛容の姿勢を失わないことが大切だというのである。 特にⅡコリント10章3節以降でパウロは、自分の戦いの目的が「肉に属するもの」ではないことを宣言する。「たとい肉体をもって歩んでいても、わたしたちは肉に従って戦うのではない」と言い、自分が行う戦いはすべて神の教会、キリストの体を建て上げるためのものだと明らかにする。張ダビデ牧師は、ここでパウロの「戦い」が単なる人間的な争いではなく、福音を守り、教会が偽りの教えに染まらないように霊的な戦いをしている姿であることに注目する。結局、パウロの柔和と寛容は、真理を守ろうとする決心とともに行使されるもので、単なる弱腰ではなく、福音のうちにある断固たる姿勢と結びついたバランスの取れた態度であると、張ダビデ牧師は指摘する。このようなパウロの姿はⅡコリント10章において鮮明に示され、それゆえ現代の教会や指導者にとっても重要な手本となり得る、と繰り返し強調される。10章冒頭に言及される柔和と寛容、そしてそれと共に現れる大胆さと使徒的権威は、すぐにパウロの善い戦いと福音の力、さらにキリストにあって真実な誇りと称賛を受ける生き方の指針へとつながっている。 Ⅱ. 肉に従わない善い戦いと福音の力 パウロはⅡコリント10章4~6節で、自分がどのような方法と動機で戦っているのかを明確に示す。「わたしたちの戦いの武器は肉に属するものではなく、神の御前で要塞をも破るほどに強い力をもつものである」と語り、「あらゆる理屈を打ち破り、神の知識に逆らって高くそびえるものをすべて打ち砕く」福音の力を宣言する。張ダビデ牧師は、このときパウロが言う「戦い」とは、単に誰かをねじ伏せたり、個人的な感情を爆発させる行為ではなく、「教会を破壊する偽りの教え、傲慢、利己心、世俗的な基準、人間的な誇り」などを徹底的に拒絶し、キリストの真理によってそれらを打ち崩す霊的戦いであることを強調する。特にこの戦いは、人身攻撃や肉体的力を使うのではなく、「神を知ることに逆らって高ぶるもの」を打ち砕く真理の戦いである点が核心である。 パウロは福音がいかに強力であるかを示しつつ、「あらゆる思いを捕らえてキリストに服従させる」と述べる(Ⅱコリント10:5)。これは、福音が人間の心に巣くうあらゆる悪や傲慢な考えを粉々に打ち砕き、それらの思いを最終的にキリストの御前にひざまずかせるという意味である。張ダビデ牧師はこの箇所を解説しつつ、真の福音の前では人々のもつ誤った理論や高ぶろうとする虚栄や偽りの思考が根本的に崩れざるを得ないことを強調する。パウロはすでにガラテヤ書やローマ書、ピリピ書などで、福音が罪と死の権威を打ち破り、人々をイエス・キリストの恵みへと導く力をもつことを幾度も宣言してきた。そしてⅡコリント10章においても、教会を混乱させるあらゆる誤った理屈や誹謗も、この「福音の武器」をもってすれば十分に崩すことができると明言しているのである。 しかし、この強力さの背景には先述したように柔和と寛容が同時に置かれている、と張ダビデ牧師は言う。福音のもつ力は、敵対者を一刀両断に切り捨てたり、怒りで踏みつぶしたりするためのものではなく、最終的には神の教会を完全に建て上げるために用いられるものなのだ。実際、パウロは10章6節で「あなたがたの従順が十分に成ったときには、従順しない者すべてを罰する用意ができている」と述べ、誤りに対して厳正に処分する意志を示す。しかしその処罰の目的も、相手を滅ぼしたり教会を分裂させたりするためではなく、教会と信徒を偽りから守り、完全に建てるための、すなわち前向きな動機に根ざしたものである。 パウロは「あなたがたは外見だけを見るのか」(Ⅱコリント10:7)と指摘したように、当時のコリントの信徒たちは修辞学や雄弁、外見など世俗的な判断基準にあまりにもとらわれていた。彼らはパウロが直接会うときには話が下手で自信なさそうに見えるとあざけった。しかしパウロは「もしある人が自分はキリストに属する者だと思っているならば、その人は自分がキリストに属しているのと同じようにわたしたちもそうであることを、自分の心の中で改めて考えなさい」(10:7)と言い、「いったい誰が真にキリストに属する者なのか?」を判断する基準が、外面的な条件ではないことを明言する。神がご覧になるのは、人がキリストの御霊にとらえられているか、福音の動機で行動しているか、主のみこころのために全力を尽くしているかどうか、そこなのである。 張ダビデ牧師は、このパウロの言葉を通して、現代の教会が陥りやすい誤りを指摘する。すなわち、教会の成長や外面的な能力、あるいは華麗な話術やリーダーシップスタイルなどで指導者や共同体の霊的状態を判断しようとする傾向である。パウロはそうした世俗的評価によって押しつぶされ、非難を浴びる立場にあったが、福音の強さを握って一歩も退かなかった。そしてこのすべての戦いを通じて、最終的には教会を建て上げるという善い目的を実現していったのである。10章8節で彼が「主が与えてくださった権威は、あなたがたを破壊するためではなく、建て上げるためのものだ」と語る部分がそのことをよく示している。パウロにとって「権威」とは、人を踏みにじったり支配するための道具ではなく、教会の信徒を保護し、指導し、養うための道具だったのである。ゆえに、福音の真理を守るためであれば誰とでも戦うが、その戦いは愛と柔和に基づく善い戦いであるべきだという点が強調される。 10章9~11節に及ぶと、「彼らは言う、『パウロの手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しく、言葉もつまらない』と」といった外部からの誹謗に直面しているパウロの率直な言葉が続く。だがパウロは、手紙であろうと直接会うときであろうと、同じ働きをしているのだと断言する。手紙においても実際の場においても同じ人間であり、コリント教会を建て上げる責任を与えられた使徒であることを忘れないのだ。張ダビデ牧師はここでも、指導者が福音の原理に従って一貫性をもって教会を世話し教える姿勢を保つならば、たとえ非難や誤解があっても揺るがされることなく教会を建て上げ続けることができると語る。 一方で10章12節では、「わたしたちは、ある自分を誇っている者と並ぶことや、彼らと自分を比べるようなことをあえてしない」と述べ、エルサレムから来た偽教師たちが自分自身を高く評価し、外的条件で人々を揺さぶろうとする態度を暴露する。パウロは、彼らが「自分の尺度で自分を量り、自分同士を比べ合っている」こと自体を知恵がないと断じる。張ダビデ牧師は、この箇所において教会内で起こりうるさまざまな争い、特に指導者同士の競争意識や外的な評価基準に基づく対立が、「誇る者は主を誇れ」(10:17)という言葉と正面から衝突する態度だと指摘する。キリストを信じる者は、自分自身を誇るのではなく、神がどのようなお方であり、その方が私たちに与えてくださった権威と恵みがいかに驚くべきものであるかを誇るべきである。エレミヤ書9章24節も「誇る者はこれを誇れ。すなわちわたしを知ることと…」と言っており、「自分の外見や学識、話術など」を誇れとは言わない。パウロがローマ15章20節で「ほかの人が築いた土台の上に建てないように努めてきた」と述べているように、自分の顕示欲のためではなく教会を建て上げる働きであるならば、誰であっても恐れずどこへでも進んでいくこと、これこそが真の宣教的態度であると張ダビデ牧師は改めて思い起こさせる。 Ⅱコリント10章全体を張ダビデ牧師が読み解く要点は、あらゆる争いと葛藤の中でパウロが「キリストの柔和と寛容」を失わず、それと同時に教会を破壊する勢力には明確に対峙するという姿を示したことにある。その戦いは肉欲や世俗的打算によるものではなく、神が教会を建て、拡大するために与えた権威を善用する戦いであった。そしてその戦いの結末は、「偽りと高慢の城壁を打ち壊しキリストに服従させる」というものであり、その過程で労を惜しまなかった者たちには「主からほめられる人」という栄誉が与えられる。そのように、張ダビデ牧師は現代の教会と信徒たちにも、教会内外の争いや誤解に直面するとき、パウロに倣って柔和と寛容を保ちながら、真理のためには善い戦いをいとわない成熟した姿が求められると力説する。柔和と寛容、そして福音の絶対的真理の前での強い対決は決して矛盾するものではなく、むしろ真の成熟に至る道だというのだ。 Ⅲ. 主のうちに誇り、ただ主にほめられる者となれ Ⅱコリント10章の後半部分で、パウロは自分と敵対者たちの「誇り」を鋭く対比する。張ダビデ牧師はこの部分を注意深く解説し、当時教会内で起こった本質的な問題を再度想起させる。教会をかき乱す偽教師たちは、人がすでに築き上げておいた土台の上に入り込んで自分の手柄を誇示し、信徒を自分の陣営に取り込もうとしていた。しかしパウロは「わたしたちは分を越えた誇りはしない。むしろ神がわたしたちに分け与えてくださった計りの範囲に応じて誇るのだ」(10:13)と主張する。ここでいう「分」と「範囲」とは、神がパウロに委ねられた宣教の領域を指す。エルサレム教会で使徒としての権威を公式に認められたペテロやヤコブがユダヤ地方を任されたように、パウロは異邦の地、すなわちコリントやガラテヤ、エペソなどの異邦人都市で福音を伝える特別な召しを与えられていた。ゆえにパウロがコリント教会について誇るのは、自分個人の業績を自慢するのではなく、神が彼に開いてくださった領域において、ただ福音のために労苦したことを語っているにすぎない。 張ダビデ牧師は、「分を越えた」誇りが教会にいかに有害かを強調する。ほかの人が開拓して流した涙の種まきの労苦を軽んじ、その結実を横取りしようとする振る舞いは、共同体を分裂させる原因となる。実際に現代の教会でも、開拓のためあらゆる困難を耐え抜いた人々の献身が軽んじられたり、後任者がその足跡を消そうとするような光景が見受けられる。しかしこれは「他人の労苦をもって分を越えて誇る」愚かな行為であり、まさにパウロが指摘した姿そのものである。むしろ私たちが目指すべき態度は、Ⅱコリント10章15~16節にあるように、「あなたがたの信仰がますます増し加わるにつれて、わたしたちの及ぶ範囲があなたがたの間でさらに大きくなることを願っている」という言葉に示されるように、自らが他人の築いてきた土台の上で自己顕示をせず、まだ福音が伝えられていない未開拓の地へと進んでいこうとする姿勢である。ローマ15章20節でパウロが「ほかの人が築いた土台の上に建てようとはしなかった」と語るのも同じ文脈である。それは他人の労苦を尊重し、まだ福音が伝えられていない地へと足を運ぶ、真の使徒的情熱を体現している。 最終的にパウロは10章17節で「誇る者は主を誇れ」と締めくくる。これはエレミヤ書9章24節「誇る者はこれを誇れ。すなわちわたしを知ることで…」という御言葉の引用であり、その核心は「ただ神とその働きを誇るべきである」というメッセージである。張ダビデ牧師は、この御言葉を通して、信仰者のあらゆる誇りは結局「主が自分にいかなる恵みを施されたのか、わたしがその主にどう仕えているか」に基づくものでなければならないと繰り返し力説する。すなわち、学歴が高いとか、雄弁であるとか、外見が優れているというような世俗的な誇りは何の役にも立たない。そうした誇りは一時的に人の注目を集めるかもしれないが、決して教会を建て上げることはできず、霊的な実を結ぶこともできない。パウロは10章18節で「誉められるべきは自分自身を推薦する人ではなく、主が推薦してくださる人なのである」と宣言し、真に「認められる」ためにはだれの前に目を向けるべきなのかをはっきりと示す。人々の口から出る称賛に酔うことでも、自分自身を高め続けて満足することでもなく、神からのほめ言葉をいただくことこそが本当に価値あることなのである。 張ダビデ牧師はこの御言葉を、現代の教会や信徒たちにも直接的に適用する。たとえ世の基準で見れば弱々しく、人から軽んじられるような条件しか持たない人であっても、神がその人と共におり、その人に使命を与えたのであれば、まことに幸いな者である。パウロのように、外見や話し方が優れていなくても人々にあざけられるようなことがあっても、福音のために献身し、教会と信徒の益のために自らの人生を捧げるならば、神は必ずその人をほめ、用いてくださる。反対に、どれほど派手な外面や学歴、弁舌を誇ったとしても、それを自分の栄光のために使うならば、真のほめ言葉と実を期待するのは難しい。今日、教会の中で対立が起こり、分裂が生じたとき、その根本的な解決策は、この「主を誇り、ただ主にほめられる姿勢」を回復することにある、と張ダビデ牧師は強調する。 そう考えると、Ⅱコリント10章は現代の教会にも深い響きをもたらす。パウロの柔和と寛容、しかし真理のためには妥協しない厳しさ、肉に従うのではなく福音の力で戦う態度、主にあって誇り、人の前ではなく神の前でのほめ言葉を求める生き方などは、教会が争いや誤解によって揺れ動くときにこそ思い起こされるべき指針となる。張ダビデ牧師は、パウロの生き方そのものが福音の説教だったと改めて呼び起こす。パウロが金銭問題や人間関係など現実的な課題で中傷されながらも動じなかったのは、ただ福音のうちに自らの生を差し出すことができたからである。自分が「肉に従って生きていない」という点を実際に示すことができ、「自分に与えられた権威が、人々を破滅に追いやるためではなく建て上げるためのものである」ことをはっきり証言できたのである。この事実は今も、教会の指導者たちに本質的な教訓を与える。教会内で財政問題や権威問題などを巡る対立が生じるたびに、私たちは本当に「キリストの柔和と寛容」を身につけているか、また福音を守るための断固たる態度を貫いているか、そして究極的に自分の誇りは神のなさる御業にあるのか、それとも自分の功績や能力にあるのかを深く点検する必要があるのだ。 まとめると、張ダビデ牧師はⅡコリント10章がもつメッセージを三つの視点に整理して説き明かす。第一に、パウロが敵対者に対して示した態度はイエス・キリストの柔和と寛容でありながら、教会を破壊しようとする勢力にははっきりと対峙するという「外柔内剛」の姿勢だったこと。第二に、パウロの戦いは肉的あるいは世俗的な戦いではなく、福音の力によって要塞を崩す霊的戦いであり、究極的には教会を建て上げようとする善なる動機に基づくものであったこと。第三に、人間的な才能や外見、修辞学的能力ではなく、主が教会のためになしてくださる恵みと働きを誇り、すべての「認め」は「主からほめられること」を求めるべきだという事実である。これら三つの点こそ、Ⅱコリント10章が伝える中心的教訓であり、今日の教会が経験するあらゆる争いと対立に対しても変わることなく示される真理の御言葉なのである。そしてこれを実践するために、私たちは常にへりくだりと福音中心の決断を忘れてはならない、と張ダビデ牧師は力を込める。 結局、コリント教会の内外で噴出した論争や誹謗、中傷、偽教師たちの混乱は、パウロが十字架と復活の力をしっかり握りつつ教会を治めたことで克服された。パウロは自分に対する個人的な中傷にも揺るがされず、柔和と寛容をもって信徒に接しながら、誤った教えを流布する者たちに対しては強い使徒的権威を発揮した。その根底には「わたしたちは福音のうちに最終的に勝利する」という揺るぎない信念があり、「人からではなく主からほめられる生き方をする」という霊的価値観があった。張ダビデ牧師は、そこから現代の信仰者たちに重要な問いを投げかける。「私たちはいったいどこに自分の誇りとほめ言葉を求めているのか。私たちの戦いは果たして福音の力とキリストの愛に根ざしているのか」。パウロが語った「教会を建て上げる権威」は、今もなお主が求めておられる真の指導者の権威であり、それは特権を楽しんだり自分の名誉を高めたりするためではなく、教会を建て、信徒を健全な信仰に立たせるために用いられるべきものである。 このようにⅡコリント10章は、パウロの心と使徒的権威を深くうかがい知ることができる章であり、張ダビデ牧師は本文の解説を通して、私たちが目指すべき霊的原則を体系的に強調する。第一に、教会の中で非難や策略が起こってもキリストの柔和と寛容をもって応じること。第二に、教会と信徒を倒そうとする勢力には妥協せず、福音の武器をもって堂々と戦うこと。第三に、その過程で自分自身を誇らず、ただ神を誇り、究極的には主から認めていただくことを求めること。コリント教会だけでなく、今日の教会や信徒もまた、これらの原則を握るときに初めて、争いや葛藤の中にあっても福音の本質を保ち、成長していくことができる。 張ダビデ牧師は最後に、「誇る者は主を誇れ」(Ⅱコリント10:17)という言葉を再度思い起こさせ、誰もが主が喜ばれる生き方に励むよう勧める。なぜなら、ただ主がわたしたちの働きをほめてくださるときにこそ、それが真の意味でのほめ言葉となるからだ。人々の評価や承認は一瞬にして変わるが、主のほめ言葉は永遠に残る。教会がこの事実を忘れず、「柔和と寛容をもって敵対者に臨みながら、福音のためには善い戦いを恐れず、わたしたちの誇りを主のうちにもって主に認められる生き方をしよう」というのが、Ⅱコリント10章を教える張ダビデ牧師の一貫した呼びかけであり、結論なのである。 www.davidjang.org

The Wisdom of Paul in Building the Church – Pastor David Jang

I. Paul’s Attitude Toward Opponents, Embracing the Gentleness and Forbearance of Christ Pastor David Jang examines all of 2 Corinthians chapter 10, paying close attention to Paul’s stance within the Corinthian church. Notably, he highlights that Paul’s tone in chapter 10 differs from the earlier parts of 2 Corinthians. This shift is closely tied to … Read more

La sabiduría de Pablo para edificar la iglesia – Pastor David Jang

I. La actitud de Pablo al enfrentar a sus adversarios con la mansedumbre y la benignidad de CristoEl Pastor David Jang examina todo el capítulo 10 de 2 Corintios y destaca la importancia de la actitud que muestra Pablo en la iglesia de Corinto. Presta especial atención al tono que adopta Pablo en el capítulo … Read more

교회를 세우는 바울의 지혜 – 장재형목사

Ⅰ. 그리스도의 온유와 관용으로 적대자를 대하는 바울의 자세 장재형(장다윗)목사는 고린도후서 10장 전체를 살펴보며, 바울이 고린도 교회 안에서 어떠한 태도를 보였는지를 매우 중요하게 다룬다. 특히 10장 1절에서부터 나타나는 바울의 어조가 지난 고린도후서 앞부분과 다른 점에 주목하는데, 이는 바울이 단호하고도 강경한 편지를 쓴 이유와 관련이 깊다. 이 맥락에서 우리는 ‘눈물의 편지’라고 불리는, 고린도전서와 고린도후서 사이에 보낸 바울의 책망 편지를 떠올릴 수 있다. 이 편지가 지닌 엄중한 톤, 그리고 고린도후서 10장에서 … Read more

Vers la Croix, la Vérité – Pasteur David Jang

Le texte ci-dessous est un résumé du sermon du Pasteur David Jang sur la Passion de Jésus telle qu’elle apparaît dans l’Évangile selon Jean, chapitre 18, verset 28, jusqu’au chapitre 19, verset 16. Ce passage met en scène l’interrogatoire de Pilate et le dialogue de Jésus, les accusations et l’hypocrisie des autorités religieuses juives, et … Read more

走向十字架的真理 —— 张大卫牧师

以下整理内容,是根据“张大卫牧师”对约翰福音18章28节至19章16节所作的讲道笔记而撰写,聚焦耶稣在彼拉多面前受审的场景、犹太宗教领袖们的指控与虚伪,以及最终走向十字架的耶稣形象,深入探讨作为上帝儿子的耶稣为何甘愿选择那最惨烈的死亡之路,并彰显祂的爱与救赎历史是如何在这过程中被揭示出来的。 Ⅰ. 站在彼拉多面前的耶稣:关于真理与权柄的对话 张大卫牧师借着彼拉多审问耶稣的场景,指出这其实是一场“世界执政者”与“上帝儿子”之间的灵性且历史性的对话。彼拉多是当时罗马帝国的总督,代表世俗权力;而耶稣面对诬告与暴力,被捆绑着以“被告”身份站在他面前,没有武力或世俗地位,却在约翰福音18章28节到19章16节那漫长的问答中,反而以卑微的罪犯之姿势彰显出一种“真理的权威”,使彼拉多感到震撼。 首先,张大卫牧师留意到18章28节所提到的“清晨时分”。犹太宗教领袖们将耶稣从该亚法那里带到彼拉多的官邸时,正值清晨。这表明耶稣在之前一整夜已经遭受凌辱,并经过亚那和该亚法那不公正的审问,身心极度疲惫yet 又被押到彼拉多面前。门徒们都四散逃离,只剩主孤独一人被带走。这幅景象象征了主所走的十字架之路就是必须独自背负、无人同行的道路。理应与祂一同受苦的门徒们皆已离弃主,而耶稣在这严寒的黑夜里饱受嘲弄与殴打、假见证的折磨,却几乎未作任何辩护,沉默地承受了看得见的苦难。 犹太宗教领袖们因为怕进外邦人的官邸而染上不洁,就不肯踏入彼拉多的衙门。他们似乎要守住逾越节的宗教洁净,却同时把“无罪的耶稣”交给彼拉多,意欲置祂于死地。对此,张大卫牧师指出,这是他们“对逾越节的真正意义和那位真实‘羔羊’——耶稣基督的全然不识”的极端证据。他们严守摩西律法中的礼仪规条,却不敬畏、也不承认“上帝的儿子”,这正是宗教外表工夫做得彻底,却在实质上对“神子”毫无敬畏之心的“虚伪至极”表现。 接着,彼拉多问“你们控告这人什么事呢?”(约18:29),他们的回答却是“他若不是作恶的,我们就不会把他交给你”(约18:30),显得含糊不清。彼拉多发现并没有明确的罪证,就说:“你们带他去,按你们的律法审判吧”(约18:31)。但犹太宗教领袖们推说他们无权执行死刑(“我们无权处死人”),其实就是想迫使彼拉多以罗马法对耶稣定罪。这也显露出他们“必欲置耶稣于死地”的强烈意图。 张大卫牧师强调,其实若根据犹太律法,他们认为耶稣犯了亵渎神明之罪,本可用石头打死(就像《使徒行传》中对司提反所行的那样)。但他们要将耶稣交给罗马总督,是想使用更残酷、更可怕的“十字架刑”来加以处决。罗马的十字架刑是对奴隶或叛国重犯才采用的极惨酷的刑罚,被钉在烈日下,忍受极大痛苦缓慢死去,甚至尸身也得不到妥善安葬。张大卫牧师指出,“十字架是人类所发明的最骇人、最严酷的死刑方式之一”。 因此,犹太人的罪恶不仅停留在“要杀耶稣”,而是要用最无情、最羞辱的方式除掉祂;这也呼应了约翰福音18章32节:“这是要应验耶稣所说,自己将要怎样死的话”。张大卫牧师说,“人类的邪恶并不能挫败神的旨意,反而成就神早已计划好的‘被高举’(钉十字架)的预言”。恶人的诡计全都用上了,但神却把它们转化为成就救恩计划的工具。 之后,彼拉多问耶稣:“你是犹太人的王吗?”(约18:33)。耶稣却回答:“这是你自己说的,还是别人告诉你的呢?”(约18:34)。张大卫牧师认为,耶稣并未直接回答,而是反问彼拉多是否真的想知道真相,还是仅是根据犹太领袖的指控而敷衍问话。彼拉多虽然拥有罗马的政治权力,但在与耶稣的对话中,他慢慢认知到“这人并无过错”。 耶稣明确宣告:“我的国不属这世界”(约18:36)。正如张大卫牧师所强调,这表明耶稣的王权是超越武力、政治体制的“上帝之国权柄”。对于彼拉多而言,耶稣并非要推翻罗马的政治革命者,因为耶稣早对门徒说过“动刀的,必死在刀下”(太26:52),祂不是靠武力或世俗方式建国,而是以牺牲与爱彰显真理。 当彼拉多又问“那么你是王吗?”(约18:37),耶稣答:“你说我是王。我为此而生,也为此来到世间,特为给真理作见证,凡属真理的人就听我的声音”(约18:37)。张大卫牧师称这是“极其庄严的宣告”,耶稣虽受鞭打和讥笑,却依然宣示自己是真理的王,毫不退缩地自证“我是王”。在世俗法庭上自称为“王”或可被当作谋反处死,但耶稣明知道这危险,仍坚持见证“真理”。 彼拉多接着问:“真理是什么呢?”(约18:38),而耶稣却似乎没有更多回应。张大卫牧师指出,耶稣已经用生命、行为和言语充分展示了“真理”,再多的解释对于在“政治算计”中挣扎的彼拉多也无济于事。尽管彼拉多人性中有想追求真理的一面,但更顾虑政治得失,最终却口中宣称:“我查不出他有什么罪来”(约18:38),这等于给耶稣的“无罪”和“义”做出见证。 张大卫牧师强调,我们从这段经文中应留意的关键词是“耶稣为真理作见证”。耶稣虽然被捆绑地站在世俗权势面前,却仿佛在反问审判者:“你真想知道真理,还是只在意其他人的说法?”这不仅仅是教会与世间政权的抽象对立,也是“真理的追随者”与“漠视真理者”在现实中真刀真枪般的属灵争战之写照。 由此可见,约翰福音18章后半段所记载的耶稣与彼拉多的对话,实际上向世人表明:被当作“罪人”审问的上帝儿子,才是真理的王。而这位无罪者却被冤枉判死,展现了令人震惊的“真理的悖论”。正如张大卫牧师所言,“耶稣的沉默与从容在此交错出现”,祂有时沉默不语,但又在关键之处明确宣告:“我的国不属这世界”、“我就是王”,显示了祂身份的笃定与真理的稳固。 最后,彼拉多多次想释放耶稣,甚至提及逢节日可释放一名囚犯的惯例,想以此机会放走祂。可犹太百姓却呼喊:“不要这人,要巴拉巴!”(约18:40)。张大卫牧师提到“巴拉巴”这一名字本义是“父亲的儿子(Bar-Abba)”,形成更深讽刺:真正的“神之子”代替了那个“父之子(却是杀人犯)”巴拉巴,从而令后者得以获释。巴拉巴因此象征了所有被耶稣代赎的罪人:因主的牺牲而得自由。正是这极具象征意义的画面,道出耶稣替罪人受刑的本质——“罪犯”得以释放,“无罪者”却被钉死。 然而,犹太首领并不罢手,继续狂喊:“钉他十字架!钉他十字架!”(约19:6)。彼拉多无力改变这个结局,问他们:“我把你们的王钉十字架吗?”他们竟反驳:“除了该撒,我们没有王!”(约19:15)。张大卫牧师犀利点出,“该撒怎么可能成为以色列的王?以色列传统信仰核心是‘唯有耶和华是我们的王’,他们竟如此否定,暴露了为了杀耶稣,他们甚至背弃自己最根本的信仰告白,彻底向世俗权势妥协”。 最终,彼拉多屈服于犹太人的威胁(“若释放这人,就不是该撒的忠臣”),把耶稣交付钉十字架。张大卫牧师将这幕总结为“犹太与罗马联合将上帝儿子杀害,但其实是耶稣为了赎全人类的罪,甘心走上的道路”。耶稣明明有能力翻转情势,也可接受彼拉多暗示式的宽容选择,却宁肯主动承担那最惨烈的刑罚,因为“我若从地上被举起来,就要吸引万人来归我”(约12:32)。只有十字架才能成就普世救恩。 张大卫牧师认为,这一段彼拉多与耶稣的对话所呈现的重点可归结为三点: 总结而言,首个分题“站在彼拉多面前的耶稣:关于真理与权柄的对话”,显示了人间权势与上帝儿子权柄的对比。表面上彼拉多握有生杀大权、耶稣被捆绑,但实际上“所有权柄都从上头而来”(约19:11),耶稣稳稳地宣告真理。张大卫牧师也认为这预表了日后教会面对世界时的见证模式:世界可能审问、逼迫教会,但教会当持守真理、不为利益或方便退缩。就算一时遇到彼拉多式的“部分善意”,最终世俗依旧可能屈服于压力,但神的儿女要始终坚持走主的道路。这番对话为教会身处现世环境的处境提供了深刻的神学与实践启示。 Ⅱ. 宗教领袖的虚伪与耶稣的代赎顺服 张大卫牧师将第二个分题,着重讲述犹太宗教领袖和祭司长的“虚伪”,以及他们怎样以“亵渎神明”为名,一同参与杀害耶稣。他们不愿进彼拉多的官邸,怕沾染“不洁”,妨碍守逾越节,却把那位真正的“逾越节羔羊”交给外邦手中,并厌恶祂的血与肉。表面上他们谨守利未记、出埃及记的条文,吃无酵饼、苦菜、羔羊肉,实际上却密谋杀害上帝的儿子。 张大卫牧师点评此景,认为这是“当信仰仅剩形式与外表时,对神的敬畏与爱已经失落所带来的惨痛后果”。这些人一心维护律法的洁净礼规,却毫不追问耶稣是否真是弥赛亚,只想保住自己的宗教体系地位,甚至要除掉耶稣。虽名义上控诉祂亵渎神明,实际却不承认眼前这位神子,背离了耶稣在马太福音5章等多处教导:“若向弟兄动怒,就难逃审判;若骂他‘拉加’,就当在地狱的火中……”。他们不仅不与弟兄和好,还联手外邦权势要置其于死地。 宗教领袖的虚伪更体现在,为了把耶稣治死,他们不惜借用罗马帝国政治层面加诸罪名,说祂是“煽动百姓不纳税,并自称王”,制造“政治叛乱”之嫌。可见他们宁可同外邦政权合作,也要达到“处死耶稣”的目的。 张大卫牧师尤其强调,当大祭司和群众的仇恨与愤怒达到顶点,彼拉多多次表示:“我查不出他有什么该死的罪;鞭打后释放吧”(参看路23:22),但祭司长与群眾依旧呐喊:“钉他十字架!”他们的恶毒与仇恨已经无可抑制。这让人联想到马太福音23章耶稣对法利赛人、文士“外表干净,内里却充满污秽”的斥责,好比“粉饰的坟墓”。 尤其在约翰福音19章6节后,彼拉多问:“我把你们的王钉十字架吗?”,祭司长却喊:“除了该撒,我们没有王!”(约19:15)。张大卫牧师指出,这番话简直荒唐至极:犹太人的基本信仰一直是“耶和华乃我们至高的王”,怎么会把该撒放在神之上?这正说明他们为了除去耶稣,连本族最神圣的告白都可弃之不顾,与厌恶的罗马势力同流合污。张大卫牧师评论,“当宗教沦为自我利益与守权位的工具时,便可容纳一切暴力与谎言,甚至背弃最根本的信仰原则,这便是可怕的警示”。 耶稣却在这“虚伪与暴力”面前,一语不发,完全顺从天父旨意。张大卫牧师说:“当彼拉多给耶稣最后的机会(‘我有权释放你’)时,耶稣也不妥协,因为祂要完成在十字架上为我们代赎的大功。这正是祂绝对使命所在”。因此,耶稣被宗教领袖、世俗权势联手逼至死路,并非意味着祂战败或屈服,而是祂“自己舍命”(约10:18)的主动顺服。 耶稣对彼拉多说:“若不是从上头赐给你,你就毫无权柄办我”(约19:11),显示外表看来是彼拉多审判耶稣,实际上“一切权柄都在天父手中”,耶稣的死也不离上帝的主权计划。张大卫牧师称,此处正体现“上帝绝对主权”与“耶稣绝对顺服”的交汇点:即便神容许恶暂时得势,最终仍完成祂的大善;耶稣虽承受不白之冤,却始终信靠父神的旨意。 同时,张大卫牧师警醒我们,“属灵热心也可能流于表面,落入弃绝耶稣的恶行”。犹太人、法利赛人、大祭司等都自诩最爱上帝律法、盼望弥赛亚降临,却在弥赛亚真的显现时将祂钉死。不排除今日教会中也可能出现类似状况:标榜对传统极度忠诚却与耶稣的真心、真理背道而驰。若我们只执着于宗教形式,而失去“爱神、爱人”的核心,就会和两千年前那些迫害耶稣的人毫无差别。 所以,第二个分题“宗教领袖的虚伪与耶稣的代赎顺服”总结道:他们口喊“洁净”,却在心里杀害神子。耶稣却在这种阴谋与暴力中,拒绝一切短暂妥协,主动走向十字架,成就世人的救赎。这也彰显上帝的智慧:纵使满地是诡诈与谎言,耶稣的十字架之爱依旧站立不倒,而且打开了救恩之门。对我们而言,这段历史再次提醒,“穿着宗教热忱外衣的人,也可成为最激烈的逼迫者”。故我们务必省察自己,谨防像犹太领袖那样走向“外在虔诚、实则敌挡基督”的危险。 Ⅲ. 通往十字架的道路:完全的爱与救恩的果实 最后,第三个分题中,张大卫牧师指出,约翰福音19章16节所叙述的所有冲突,最终导向耶稣被判处十字架刑这件事:“于是彼拉多把耶稣交给他们去钉十字架”(约19:16)。由此耶稣将以人类所能想象的最恐怖方式被处死。 但张大卫牧师提出,“十字架绝非失败的象征,而是救恩最辉煌的胜利之处”。正如耶稣在约翰福音12章24节所言,“一粒麦子若不落在地里死了,就仍是一粒;若是死了,就结出许多子粒”。耶稣的死并非徒劳悲剧,而是一粒埋下的“救恩种子”,带来众多“新生命”。耶稣不是被石头打死那般“普通”的方式,而是接受当时最羞辱、被视作“受诅咒”的十字架死,正好成就谁也未曾意料的神圣救赎计划。 张大卫牧师解释,“十字架不仅象征痛苦与软弱,更是上帝的爱与公义交汇之处”。那无罪的耶稣承担罪犯的刑罚,用流出的宝血替我们付了“罪的代价”。旧约各种祭祀献祭并不能彻底除罪,唯有这位真“上帝的羔羊”以自我牺牲让我们永远得洁净(参看《希伯来书》10章10节)。 此外,“耶稣被鞭打”是指执行十字架刑前罗马兵丁用带有铁块或骨头碎片的鞭抽打犯人,导致皮开肉绽、鲜血淋漓。张大卫牧师指出,耶稣在被钉前就已经几乎奄奄一息,可见祂所受的苦痛超乎想象。这一切,祂都自愿承担,为替我们领受理应由罪人承当的刑罚。十字架既是罗马残酷的权力象征,也是犹太人恶意的极致,更是整个人类罪行的总和。但正是在此最黑暗的暴力之地,耶稣完全奉献的爱反而最强烈地散发光辉。 张大卫牧师说,通过十字架事件,我们能深切体会神的“公义与慈爱”如何完美相交: 因此,十字架并不是耶稣的溃败,而是祂“得荣耀的时刻”(参约12:16)。门徒们在此事发生前尚不明白;等到耶稣复活、升天后,他们才回想:“一切经上早已预言,主也多次提及,如今都应验了”。张大卫牧师建议我们在默想受难周或举行圣餐时,要将焦点放在“耶稣之爱有多深”,尤其透过那令人痛心的受难画面,领受主那无比宽广的怜悯。 十字架上耶稣的态度包含三点: 张大卫牧师呼吁我们效法耶稣。今日基督徒在世上也会遭遇冤屈与逼迫,必须学会像耶稣那样将一切交托给神,坚持真理与爱,而非急于借助世俗势力反击或争权。即使教会内部也可能有人“结党营私”,或有领导者误用真理,但真的依靠神、跟随耶稣的人,必然会像耶稣的神性与圣洁一样,绝不会被任何鞭打与嘲笑剥夺去终极荣耀。 此外,十字架表明“一粒麦子死了,就结出许多子粒”,张大卫牧师说,“正因耶稣的十字架,我们才能得蒙赦罪、得到新生命”,这是人类历史的重大转折点。罗马与犹太领袖,以及全人类都参与排斥并处死耶稣,岂料祂却借复活胜过死亡,并借此牺牲让福音传遍世界、无数灵魂得救。“当我被举起来时,要吸引万人归向我”(约12:32),这宣告也在十字架得以完全实现。 张大卫牧师称,这正是“代赎的奥秘”:若没有十字架,我们依然是灭亡的罪人;唯有耶稣在十字架为我们付出生命,才得以换来我们得“称义”。也因此,悬挂十字架上的耶稣形象,理应常刻在信徒心中,成为我们思念“神的爱”之最高潮。门徒叛逃、宗教领袖虚伪、罗马政治残酷、大众无知与憎恨——所有这些耶稣皆坦然承受,甚至“顺服至死”(腓2:8),因此后来“神又将祂升为至高,赐给祂那超乎万名之上的名”(腓2:9)。 因此,第三个分题“通往十字架的道路:完全的爱与救恩的果实”之结论就是:十字架虽汇集了人类罪恶、暴力与不公,却同时成为上帝全能大爱的祭坛。耶稣卑微到极处,我们却藉着祂的降卑得享永生。祂在犹太与罗马的审判面前似乎落败,实则彰显“神的大胜利”。 张大卫牧师在结尾呼吁:“每次我们阅读此经文,都要反省,是要像耶稣那样默默走十字架之道,抑或像犹太领袖一样,外表具备宗教形式却真正弃绝主?”对基督徒而言,唯一的王只能是耶稣基督;当我们不再以世俗权力或自身利益为先,而是真正跟随“神的真理”,我们才能经历真自由与永生。 总的来说,约翰福音18章28节到19章16节,展现了人类罪性的本质与耶稣甘愿担当罪责的姿态。耶稣以“上帝儿子”的名分,被人憎恨并钉死在十字架——那条最悲惨的死亡之路,但这却是祂“主动的顺服”与“完全的爱”。因这爱,如今福音传遍各地,无数灵魂靠耶稣的功劳得称义。我们也因经历各种患难与背叛,渐渐明白“十字架就是神的荣耀”。 最后,张大卫牧师提醒我们在日常生活中实践十字架信仰。耶稣之所以甘受侮辱与酷刑,乃因唯有此路才是将“最坚实的救恩之手”伸向罪人的道路。若今天教会和信徒也活出这样的爱与舍己,教会就不再是一个表面化的宗教组织,而是真理的群体。我们必须防范只在乎外在礼仪与制度,却将主拒于门外的愚昧,应时刻记住耶稣所说:“凡属真理的人,就听我的声音”(约18:37),并以顺从主声音的生命之路,来彰显我们对十字架的真实信仰。 综上所述,约翰福音18章28节至19章16节,描绘了耶稣在彼拉多的法庭上虽被判“无罪”(“我查不出他有什么罪”),却因犹太宗教领袖的拒绝与操纵,加上世俗政权的妥协,而被送上十字架的讽刺画面。它揭示了以“宗教虚伪与仇恨”为首的人类罪在此集大成,却也通过耶稣“自愿顺服与完全之爱”达到救赎史的最高峰。张大卫牧师特别提醒:基督徒应谨记“像巴拉巴般因恩典被释放,我们也同样是被十字架恩典所赦免”,所以更要效法耶稣不惜遭苦难也要见证神国的真实。在人类最深的阴谋与暴力之中,神却让十字架的死亡转为复活的荣耀,并打开任何势力都无法阻挡的救恩之门。 透过以上三个分题的探讨(与彼拉多的对话、宗教领袖的虚伪,以及十字架的代赎意义),张大卫牧师呼吁我们超越时代地省察——这经文对今日信徒仍具极大挑战,呼唤悔改与抉择。我们能否像耶稣那样,在逼迫或利益诱惑面前“为真理作见证”,坚持走十字架之路,或会像那些宗教领袖般与世俗权力妥协,最终拒绝基督?这是两千年前和当今都亟待回答的问题。 我们若顺从张大卫牧师的洞见,在各样世俗试探与逼迫前,甘愿做“属真理的人”,以十字架为中心,勇敢地作门徒。如此,耶稣所彰显的纯洁而完全的爱,也必在我们生命每个角落发光,成为世界的见证。耶稣在彼拉多、兵丁、祭司长众口一词的控诉前从不退缩,全然信靠父神,并最终显明这才是“胜过世界”的道路——我们也要时刻谨记并跟随这样的主。愿主使我们在此篇经文所启示的真理之光中,坚定不移地走向十字架。阿们。

十字架へ向かう真理 – 張ダビデ牧師

以下は、「張ダビデ牧師」がヨハネの福音書18章28節から19章16節までに記されたイエス様の受難場面について説教された内容を整理したものです。本本文は、ピラト の尋問とイエス様の対話、ユダヤの宗教指導者たちの告訴と偽善、そしてついに十字架へと向かわれるイエス様の姿を通して、神の子として喜んで最も悲惨な死の道を選ばれたイエス様の愛と救いの御業がどのように現れるかを集中して照らし出しています。 Ⅰ. ピラトの前に立たれたイエス様:真理と権威に関する対話 張ダビデ牧師は、ピラトの尋問の場面を通して、この世の権力者と神の御子が繰り広げる霊的かつ歴史的な対話に注目します。ピラトは当時のローマ帝国の権力を代表する総督であり、イエス様は武力や世俗的地位をまったく持たず、宗教指導者たちの謀略と暴力によって縛られた被告の姿でその前に立っておられました。しかし、ヨハネ18章28節から19章16節まで続くピラトとの長い問答の中で、むしろイエス様はみすぼらしい囚人の姿でありながらも、ピラトを圧倒する「真理の権威」を示されます。 まず、張ダビデ牧師は本文18章28節の「夜明けの時間帯」に注目します。ユダヤの宗教指導者たちがイエス様をカヤパ(가야바)の官邸に引いてきた時が夜明けであったという事実は、イエス様がすでに一晩中侮辱を受け、アンナスやカヤパによる不当な尋問にさらされ、極度の痛みと疲労の中で再びピラトに引き渡されていることを示しています。弟子たちはみな散り散りになり、主はおひとりで孤独のまま捕らえられていかれる――この姿は、十字架の道が「主ご自身がただひとりで歩まねばならなかった道」であることを象徴しています。本来なら主と共に歩むべき者たちが皆去ってしまったその夜、イエス様は苛酷な嘲弄と暴行、偽りの証言などに苦しめられながらも、ほとんど言い訳さえなさらず、沈黙のうちに可視的な受難を受けられました。 ユダヤの宗教指導者たちは、自分たちが異邦人の庭に入ると過越の祭りを汚すと考えたため、ピラトの官邸の中には入ろうとしません。しかしその一方で、「罪なきイエス様」を殺そうとしてピラトに引き渡すという矛盾を犯しています。張ダビデ牧師は、彼らの姿を指して「過越の意味とまことの『小羊』であるイエス・キリストをまったく認識していない霊的無知と偽善が極限に達した証拠」であると語ります。まことの過越の小羊であるイエス様を異邦人の手に渡しながらも、自分たちはモーセに与えられた律法に縛られて清めの礼だけは厳格に守ろうとする――まさにここに、宗教的な外面的律法遵守は徹底していながら、その内にあるべき「神の御子に対する真の畏敬や愛」はまったく持ち合わせないという「偽善の極み」が示されています。 続いてピラトが「あなたたちは、どんな罪状でこの人を訴えるのか」(ヨハネ18:29)と尋ねると、返ってきた答えは「もしこの男が悪を行う者でなかったら、あなたに引き渡さなかったでしょう」(ヨハネ18:30)という曖昧な告訴でした。ピラトはイエス様が世間を騒がせているのは知りつつも、具体的な罪状がはっきりしないことを感じ取り、「あなたたちの律法に従って裁け」(ヨハネ18:31)と言います。するとユダヤの宗教指導者たちは、自分たちには死刑を執行する権限がない(「人を殺す権利がない」)と言い、強制的にイエス様をピラトへ渡して処罰させようとします。実際には「何としてもイエスを殺さねばならない」という意図が反映されているわけです。 張ダビデ牧師はここで「もし彼らが律法にしたがって神への冒涜罪で処刑するなら、石打ちの刑に処すこともできただろう」と指摘します。使徒の働き(使徒行伝)でステパノが石打ちにされる場面を見ても、石打ちの刑はユダヤの伝統でした。ところがイエス様をピラトに引き渡したことで、彼らは石で打たれて死ぬよりもはるかに惨いローマの十字架刑に処する方法で、イエス様の死を巧妙に「最大限悲惨」なものにしようと企んだのです。十字架刑は奴隷や反逆者、最も凶悪な重罪人に科される苛烈な刑罰でした。炎天下の木に釘で打ち付けて吊り下げ、激しい苦痛のなかで徐々に死に至らせ、しかも遺体の処置さえ満足にされない刑です。張ダビデ牧師は「人間が考案した最も恐ろしく凶悪な処刑方法の一つが十字架だ」と分析しています。 つまり、ユダヤ人の罪悪性は単に「イエスを殺そうとした」だけで終わらず、「できるだけ無慈悲で恥ずかしめられる方法で排除しよう」とまで執拗に至っていることを示しています。ヨハネ18章32節に「これは、イエスがどのような死を遂げるかを示して語られた御言葉が成就するためであった」とあります。張ダビデ牧師はこれを、「人間の悪意が神のご計画を打ち砕くことはできず、むしろ神のご計画通りにイエス様の『上げられること』(十字架)が実現するように助ける逆説的状況」であると黙想します。悪しき者たちの狡猾さが総動員されたとしても、神はそれすらも救いの大いなる計画に変えて善用されるという事実が明らかになるのです。 一方、ピラトが「おまえはユダヤ人の王なのか」(ヨハネ18:33)と尋ねた時、イエス様は「あなたがそう言うのは自分からなのか、それとも他の人が私についてそう言ったからなのか」(ヨハネ18:34)と問い返されます。張ダビデ牧師はこの対話の場面について「イエス様はピラトの質問に直接的に答えず、むしろピラト自身の『真意』を探っておられる」と見なします。つまりピラトが本当に政治的な反逆容疑を問いただしたいのか、あるいはユダヤ指導者たちの陰謀に巻き込まれてやむなく聞いているだけなのか――イエス様はそれを見極めようとされるわけです。ピラトはローマの権力者ですが、本文をよく読むと、彼もイエス様と静かに対話を重ねるうちに次第に「この人には罪がない」という確信を持つようになります。 イエス様は「私の国はこの世に属していない」(ヨハネ18:36)と明言されます。これは張ダビデ牧師が強調するように「世の武力や政治体制から独立した神の国」がイエス様の王権であることを示す言葉です。ピラトがそれを聞く限り、ローマを転覆しようとする政治的革命家ではないのは明らかです。イエス様は弟子たちに対しても「剣を取る者は剣で滅びる」(マタイ26:52)と教えられたように、世の王権を武力で奪取したり、世のやり方で成し遂げるお方ではありません。真理は暴力や抑圧によって確保されるものではなく、命の犠牲と愛を通して具現されるのです。 この時、ピラトが「では、おまえは王ではないのか」(ヨハネ18:37)と再度問うと、イエス様は「そのとおり、私は王である。私は真理をあかしするために生まれた。真理に属する者はみな、私の声を聞く」(ヨハネ18:37)と答えられます。張ダビデ牧師は「この厳かな宣言は、イエス様が鞭で打たれ、嘲弄される立場にありながらも、『真理の王』としてご自分であることを証言されている」と強調します。世の法廷で「自分が王だ」と公言すれば反逆罪に問われることを承知のうえで、それでもなおイエス様は「私は王である」と宣言することで、「真理」とは何かを最後まで示されるのです。 ピラトが「真理とは何か」(ヨハネ18:38)と尋ねても、イエス様はこれ以上は答えられないように見えます。張ダビデ牧師はこの場面を「イエス様はすでに生涯と行動、御言葉をもって真理を示しておられたので、これ以上いくら説明してもピラトがすべて理解し得なかったであろう」と解釈します。ピラトは「真理」を知りたいと思う気持ちもあったかもしれませんが、同時に政治的計算や損得勘定に縛られた権力者でもあります。しかし結局のところ、「私はこの人に何の罪も見いだせない」(ヨハネ18:38)という無罪宣言をピラトの口から出させたことは、イエス様の完全な無罪と義が世の権力者さえも否定できないほど明らかだったことを示しています。 張ダビデ牧師は、本文で注目すべきキーワードを「真理をあかしされるイエス様」と提示します。一見、ピラトの前に縛られたまま立っておられるイエス様ですが、むしろイエス様が世の権力者を尋問するかのように描かれています。「あなたはユダヤ人たちの言うことをそのまま鵜呑みにしているのか、それとも私から真に知りたいのか」とピラトに問い返されるのです。これは教会と世の権力、真理を追う者とそうでない者との「観念的対立」を描くというよりは、現場における具体的な霊的戦いをよく示す一幕と言えます。 このようにして18章後半に表れるイエス様とピラトの問答は、神の御子が「罪人」として法廷に立たれながら、実は「真理の王」であることが確認される場面であり、同時にこの罪なきお方が不当な告訴によって死刑に処せられるという逆説が繰り広げられます。張ダビデ牧師は「ここでイエス様の沈黙と堂々たる姿が絶妙に交差する」と読み解きます。時には黙しておられますが、「私の国はこの世のものではない」と「私は王である」というはっきりした自己宣言を通して、ご自身の正体と使命が揺るぎない真理であることを宣言されるのです。 結局、ピラトはイエス様の無罪を感じ取り、何とかして釈放しようとします。祭りになると囚人をひとり釈放する慣例に従い、イエスを釈放しようとしますが、ユダヤ人たちは「この人ではなく、バラバを釈放せよ」(ヨハネ18:40)と叫び、強盗や暴動の首謀者・殺人の罪を犯したバラバを選びます。張ダビデ牧師はバラバという名前自体が「父の子(Bar-Abba)」という意味だと指摘し、そこにいっそう象徴的なアイロニーがあると言います。まことの「神の子」であるイエス様が罪人の立場を代わりに背負われたゆえに、結局「バラバ(『父の子』と呼ばれるが実際には殺人者)」が釈放されたのです。彼はイエス様の犠牲のおかげで罪から解放された、ある種の象徴的代表と言えます。これは代贖の本質を露わに示す事件です。すなわち「罪人」が解放され、「罪なき方」が代わりにその場所に立って死なれる――それこそが福音です。 それでもなお、ユダヤの指導者たちはそれで終わらず、「十字架につけろ、十字架につけろ!」(ヨハネ19:6)と叫び続けます。ピラトが無罪を主張して「あなたたちの王を私が十字架につけるのか」(ヨハネ19:15)と問い返しても、彼らは逆に「カエサル以外に私たちには王はない」(ヨハネ19:15)と言い放ちます。張ダビデ牧師は、「カエサルがどうしてイスラエルの王になり得るのか。本来、唯一の王は神であると信じてきたことこそがユダヤ人信仰の核心ではないか。それなのに、彼らは『真の王』であるイエス様を殺したい欲望を満たすために、最も敬虔なはずの信仰告白さえ放り出して世の権力に加担している」と痛烈に指摘します。 結局ピラトは、自分の中に一瞬湧いた恐れやイエス様への好意(こうい)を守り通すことができず、「もしこの人を釈放するなら、あなたはカエサルの忠臣ではない」と迫るユダヤ人たちの脅しに屈して、イエス様を十字架へ引き渡すことになります。張ダビデ牧師は、この最終場面を「ユダヤとローマが共謀して神の御子を殺したが、実はその道こそがすべての人類の罪をあがなう神の摂理のうちにあった道」とまとめます。イエス様はいつでもピラトが提示する妥協案を受け入れることもできましたし、あるいはローマ兵たちを一瞬でひっくり返すこともできるお方でした。それにもかかわらず、自ら「最も惨たらしい死の道」を選ばれました。それは、「私が地上から上げられるならば、すべての人を私のもとに引き寄せよう」(ヨハネ12:32)という御言葉どおり、十字架だけがすべての人類を救う完全なる道だったからです。 張ダビデ牧師は、ピラトとの対話を通してイエス様が強調された「要点」を大きく三つに要約します。 これらすべてが神の救いのご計画の一部であり、決して失敗や敗北ではなく勝利の道でした。真理そのものであるイエス様は暴力や偽善に屈服する姿ではなく、むしろご自分の命を投げ出して悪しき世の罪を背負われる犠牲を選ぶことで完全なる真理を示されました。 要するに、第1の小主題である「ピラトの前に立たれたイエス様:真理と権威に関する対話」は、世の権力と神の御子の権威が対比されて明らかになる場面です。ピラトは政治的権威を持ち、イエス様は縄で縛られていますが、実際にはイエス様が「すべての権威は上から与えられたもの」(ヨハネ19:11)とご存じで、堂々と真理を宣言なさいます。張ダビデ牧師によれば、この場面は後に教会が世に向かって真理をあかしする「ひな型」となるのだと言います。世は教会を尋問し迫害しますが、教会は真理にしっかりと立って揺らがない態度で答えねばならない。イエス様のように目の前の利益や便宜ではなく、神の国と真理のために大胆に語るべきです。ピラトのように部分的に好意的な権力者であっても、結局は圧力に屈する可能性があることを私たちは認識し、最後まで主の道を歩む必要がある――このようにピラトとイエス様の対話は、教会が置かれた世的状況とも結びつき、大きな神学的・実践的示唆を与えるのです。 Ⅱ. 宗教指導者たちの偽善とイエス様の代贖的従順 張ダビデ牧師は第2の小主題として、ユダヤの宗教指導者たちや祭司長たちの姿が、いかに「偽善的」であり、かつ「神への冒涜罪」という名目でイエス様を殺すことに加担したかを浮き彫りにします。彼らは過越の祭りを守るためにピラトの官邸には入らず、「異邦人の庭に足を踏み入れれば自分が汚れる」と言います。しかし当の「真の過越の小羊」であるイエス様の肉と血を憎しみをもって罪に定め、異邦人の手に渡してしまうのです。表面的にはレビ記や出エジプト記の律法を守ると言い、種なしパンや苦菜(にがな)、子羊の肉を食する伝統を厳守していますが、実際には神の御子を殺そうとする恐るべき殺意にとらわれています。 張ダビデ牧師は、ここに「信仰が形式や外形だけ残り、神の御心に対する真の畏れと愛を失ったときに生じる惨たらしい結果」があると診断します。彼らは「過越の清めの儀式」はとても重んじますが、イエス様がまことのメシアかどうかを真剣に問おうとはしません。むしろ自分たちの宗教的体制の中で地位と権勢を守りたいがために、イエス様を抹殺すべきだと信じ込むのです。挙げ句には「神への冒涜罪」という罪名でイエス様を責め立てますが、肝心の神の御子が今まさに彼らの目の前に立っておられることには気づきません。これは「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁判にかけられ、愚か者という者は地獄の火に投げ込まれる」(マタイ5:22)というイエス様の警告に真っ向から背く姿勢であり、「礼拝やいけにえをささげようとするなら、まず兄弟と和解せよ」(マタイ5:23-24)という主の教えとも完全に反対の態度です。 宗教指導者たちの偽善が極まっている証拠として、彼らがイエス様を「反逆者」としてピラトに訴えるため、ローマ帝国の政治的論理を持ち出してまで無実の罪を着せようとすることが挙げられます。「カエサルに税を納めさせないようにしている、自分を王と称している」といった虚偽の罪状を掲げ、どうにかして死刑にもっていこうとするのです。これは単なる宗教的紛争ではなく「政治的反逆」として仕立て上げればローマが死刑を下さざるを得ないことを狙う陰謀といえます。 張ダビデ牧師は、このときユダヤ指導者たちが示す憎悪と怒りがどれほど恐ろしいものかを強調します。ピラトでさえもイエス様を見て恐れを感じ、「私はこの人に罪を見出さなかった。鞭打って釈放しよう」(参照 ルカ23:22)と何度か言います。ですが、大祭司や群衆はそれでも満足せず、「十字架につけろ!」と叫び続けるのです。そこまでイエス様を殺さなければ気が済まないほど鬱積した憎悪の姿は、イエス様がファリサイ人や律法学者の「偽善(外面)」を厳しく糾弾されたマタイ23章の御言葉を思い起こさせます。表面は清く見えても内側はあらゆる悪や貪欲に満ちている「白く塗った墓」というわけです。 特にヨハネ19章6節以降で、ピラトが「私はあなたたちの王を十字架につけるのか」(ヨハネ19:15)と言うと、大祭司たちは「私たちにはカエサルのほかに王はありません」(ヨハネ19:15)と宣言します。張ダビデ牧師は、「この途方もない発言は、ユダヤ人の信仰告白(『ただ主なる神だけが王であられる』)を自ら否定することだ」と指摘します。もちろん旧約の歴史で、イスラエルがサムエルに「王を求める」と言ったとき、サムエルは「主ご自身があなたたちの王であるのに、人間の王を求めるとは」(サムエル上12:12)と責めています。それでも理想的には「イスラエルの真の王は主なる神」という信仰が彼らの土台でした。ところがここでは公然と「カエサル以外に王はない」と誓うように叫ぶ――これは神の民を自称する者たちが口にするはずのない言葉です。 最終的に彼らが日頃あれほど嫌っていたローマ皇帝(カエサル)の権威さえ利用してでも、イエス様を殺そうとする敵意が充満しているのです。張ダビデ牧師は、これを「宗教が神の栄光ではなく、自分の利益や既得権益を守る道具に堕落したとき、いくらでも暴力や偽りを正当化してしまう」という警告的事例だと述べます。このように宗教権力は時に世の権力を借りて自らの目的を達成し、世の権力もまた宗教の支持を利用して自分の利を得るという「共生関係」が生じ得るのです。実際、当時の大祭司たちにサドカイ派の出身者が多かったことも、彼らが政治権力と緊密に結託していたことを示唆します。 しかしイエス様は、その「偽善と暴力」の前にあって終始沈黙され、父なる神の御心に従順であられます。張ダビデ牧師は「イエス様がピラトの与えた最後の機会(『私にはあなたを釈放する権限がある』)にも妥協しなかったのは、結局十字架にかかって私たちの罪を代贖(だいしょく)する救いの御業こそが、主の絶対的使命だったからだ」と語ります。ここが重要な点です。すなわち、イエス様が宗教指導者に敗北してしまったり、この世の権力に服従させられた形で十字架へ連行されたのではなく、ご自身で従順にその道を選ばれた(ヨハネ10:18「だれも、わたしからいのちを取り去ることはできない。わたしが自分からそれを捨てるのです」)ということです。 「上から与えられなかったなら、あなたにわたしに対する何の権限もなかったであろう」(ヨハネ19:11)というイエス様のお言葉は、外面的にはピラトがイエス様を裁いているように見えながらも、実際にはすべての権威は「天から与えられた」ものであり、イエス様の死も結局神の主権のうちにあることを教えています。張ダビデ牧師はこれを「神の絶対的主権と、イエス様の絶対的従順」の交差点であると解説します。神が一時的に悪を許しておられるとしても、最後には大きな善を生み出される摂理があり、イエス様は人間の側でいかに濡れ衣と苦難に遭おうとも、神の御心を遂行する道を決して放棄されません。 さらに張ダビデ牧師は「私たちの信仰がどれほど熱心に見えても、実際にはイエス様を拒み、大敵となる道へ陥る可能性がある」という教訓を提示します。ユダヤ人、パリサイ人、大祭司たちは、神の律法を最も愛すると自負し、「メシアを待ち望む」と口にしていた人々でした。しかし彼らは真のメシアであるイエス様を見極めることができず、むしろ最も苛烈に迫害する側に回りました。教会の中でも、同じような状況がいくらでも起こり得るというのです。熱心に信仰生活をしているかのようでも、形や伝統にこだわりすぎて、実はイエス様の御心と真理――「神への愛・隣人への愛」の核心を蔑ろにしているなら、宗教指導者たちと同じ偽善の道に陥ってしまうでしょう。 結局、第2の小主題は「宗教指導者たちの偽善とイエス様の代贖的従順」に要約できます。彼らは表向き「清さ」を唱えながら、実際には神の御子を十字架に引き渡すという極悪非道な罪を犯しました。イエス様はその裏にある陰謀や暴力を知っていながらも、ピラトが差し伸べた妥協の手さえ退け、みずから十字架につき死なれることで代贖を完遂されました。これこそが福音の逆説であり、神の無限の知恵です。いくら偽善と虚偽が横行しても、イエス様の十字架の愛はくじけることなく、むしろ救いの道を切り開かれます。「神の御子」であられるイエス様を拒み排斥したあらゆる人間の罪が、「宗教的熱心」という衣をまとったとき、どれほど恐ろしいほどに変質するか――この警告を私たちは深く心に刻む必要があります。 Ⅲ. 十字架の道:完全なる愛と救いの実り 最後の第3の小主題において、張ダビデ牧師はヨハネ19章16節まで展開されるすべての状況が、ついにイエス様が十字架につけられる決定的瞬間を予告している点に注目します。ピラトは最終的にイエス様を十字架刑に引き渡し、「そこでピラトは、彼らにイエスを引き渡した。彼らはイエスを引いていった」(ヨハネ19:16)という句で締めくくられます。こうしてイエス様は最も苛烈な刑罰、人類が考案した最も悲惨な死の方法である十字架につけられることになります。 しかし張ダビデ牧師は、この場面を「十字架がすなわち敗北なのではなく、むしろ救いのもっとも輝かしい勝利」であるという逆説によって解釈します。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のまま残るが、死ねば多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)というイエス様のお言葉は、イエス様の死がただの痛ましい悲劇ではなく、「新たないのち」を芽生えさせる救いの種であることを示しています。イエス様が石打ちのような殉教的死ではなく、最も恥ずかしめを受け呪われたものとみなされる十字架で死なれたというのは、だれも想像できなかった神の贖いのご計画の核心でした。 張ダビデ牧師は「十字架は単なる苦痛の象徴や、イエス様の無力さを表すものではない。十字架こそ、神の愛と正義が交わる場所だ」と語ります。罪なきイエス様が罪人の手によって罪人の刑罰を受けられることで、その血が私たちの「罪の代価」となる。旧約の象徴的な犠牲制度が数えきれない動物の血によっても完全に解決できなかった罪の問題が、真の「神の小羊」であるイエス様の自己犠牲によって永遠に解決されたのです(ヘブル10:10)。 さらにピラトが「イエスを鞭打ちした」とあるのは、十字架刑執行前にローマ兵が囚人に加える苛酷な体罰(笞刑)であり、鉛や骨の破片が付いた鞭で打ち据えることで肉片が剥がれ落ち、血まみれになる非人道的な刑罰です。張ダビデ牧師は「イエス様はすでに鞭打ちによってほぼ死の淵に追いやられた後で十字架を負われたのだから、その受難の痛みは想像を絶するほどだった」と黙想します。これほどまでの苛烈な苦しみをイエス様が自ら引き受けられたのは、本来私たちが受けるべき罪の刑罰を身代わりに負う「自発的選択」でした。十字架はローマの残虐性、ユダヤ人の悪意、全人類の罪が入り混じった最悪の暴力であると同時に、イエス様の献身的な愛が最も鮮明に示される場所でもあります。 張ダビデ牧師は「私たちは十字架の出来事を通じて、神の義と愛が出会う場がどれほど驚くべきかを悟らされる」と言います。義とは、罪を裁くことが正しいという原理です。愛とは、罪人を救うべきだという原理です。ところが罪人である私たちが義に従って裁かれるなら、救いは不可能です。しかしイエス様が十字架で私たちに代わって罪の代価を払ってくださったことで、神の義も満たされ、神の愛も完全に実現されました。「キリストがまだ弱かったとき、私たちのために死んでくださったことによって、神はご自身の愛を明らかにしておられる」(ローマ5:8)というパウロの宣言こそが、これを要約しています。 したがって十字架は敗北や絶望ではなく、「イエスが栄光を受ける時」(ヨハネ12:16)として解釈されます。弟子たちは十字架が立てられる前まで、このすべての出来事を正しく理解できませんでした。しかしイエス様が復活・昇天されたあとになって初めて「このすべてが旧約に予言され、主ご自身が語られたとおりに成就していたのだ」と気づいたのです。張ダビデ牧師は、私たちが四旬節や受難週、あるいは聖餐式などでこの本文を黙想するとき、「痛ましく悲惨な場面だからこそ『イエス様の愛』がいかに計り知れないか、より深く悟ることに焦点を合わせるべきだ」と助言します。 十字架が示すイエス様の姿勢は、 張ダビデ牧師は、こうしたイエス様のあり方を私たちも見習うべきだと強調します。現代の教会や信徒も、この世で理不尽なことに遭うかもしれないし、迫害や虐げに直面するかもしれません。そのとき「世の権力を通して無理やり問題を解決しようとするより、イエス様のように神にすべてをゆだね、最後まで真理と愛で勝負すべき」というのが核心メッセージです。たとえ教会の中でさえ悪い企みをする人々がいたり、誤った指導者が真理を損ねることがあっても、真に神を畏れイエス様にすがる者は、ピラトの兵士たちがどれほど殴り嘲弄してもイエス様の神性と聖さを奪えなかったように、最終的には神の善き御心を実現するようになるのです。 最後に、十字架の出来事はイエス様という「一粒の麦」の死が「多くの実」を結ぶという事実を裏づけます(ヨハネ12:24)。張ダビデ牧師は「イエス様の十字架によって私たちが罪の赦しを受け、新たないのちを得るに至った」というのは歴史上もっとも大きな転換点だと見ます。ローマとユダヤの指導者たち、そして全人類が力を合わせてイエス様を排斥し処刑したにもかかわらず、むしろ主は復活によって死を打ち破られ、その犠牲のおかげで福音は全世界へ広がり、多くの人々が救いにあずかるようになりました。イエス様がおっしゃったとおり、「地上から上げられた」その十字架は、「すべての人をわたしのもとに引き寄せる」(ヨハネ12:32)という神的宣言の成就だったのです。 張ダビデ牧師はこれを「代贖の神秘」と呼び、もし十字架がなかったならば、私たちは今なお滅びるほかない罪人のままだったろうと言います。そして十字架上のイエス様こそ、私たちが常に心に刻むべき「神の愛」の絶頂です。主は弟子たちの裏切り、宗教指導者たちの偽善、ローマの残酷な政治的暴力、人々の無知と憎しみ――そのすべての只中にあっても、一切揺らぐことなく「死に至るまで従順」(ピリピ2:8)されました。そしてついには「すべての名にまさる名」(ピリピ2:9)を受け、栄光のうちに復活されたのです。 このように、第3の小主題「十字架の道:完全なる愛と救いの実り」をまとめると、十字架は人間のあらゆる罪が集約された暴力と不条理の場である一方、神の全能の愛が総合的に示された「聖なる犠牲の祭壇」でもありました。イエス様は徹底的に低くなられ、その低くなられたゆえに私たちは永遠のいのちを得ます。ピラトやユダヤの指導者たちの裁きに「敗北」したように見えますが、実はその道が「神の絶対的勝利」だったのです。 張ダビデ牧師は結論として、この本文を読むたびに「イエス様のように十字架の道を黙々と歩むのか、それともユダヤ指導者たちのように宗教的形式は整っていても、実際にはイエス様を排斥する立場に立つのかを自ら省みよ」と促します。私たちにとっての王はただイエス・キリストだけであり、この世の権力や自分の利益ではなく神の真理を優先するとき、初めて「真の自由」と「永遠のいのち」を経験できるのです。 要するに、ヨハネの福音書18章28節から19章16節までに描かれる、ピラトの法廷でのイエス様の尋問の場面は、全人類が犯す罪の実態がどのようなものであり、そしてその罪をイエス様がどのような姿勢で背負われたかを、きわめて鮮やかに見せる旧約預言の成就とも言えます。神の子という理由で憎まれ、十字架につけられるという最も悲惨な死の道でしたが、それは「自発的従順」であり「完全なる愛」の表現でもありました。この愛が今も世界の至る所で福音を通して伝えられ、多くの魂がイエス様の功績によって義とされるに至っています。そして最終的には、地上でのあらゆる試練や裏切り、痛みを超えて、「十字架こそ神の栄光」であることを私たちも悟るようになるのです。 最後に張ダビデ牧師は、私たちの日常生活の中でも十字架の道を歩む「実践的信仰」が重要だと強調します。イエス様が具体的に罵声を耐え、侮辱を受け、激しい暴力までも忍ばれたのは、結局その道こそ「罪びとに最も確かな救いの手」を差し伸べる道だったからです。もしこの地上の教会と信徒がこの愛を持続的に実践すれば、教会は単なる宗教集団ではなく、真の「真理の共同体」となることでしょう。外面的・制度的なことにとらわれて、もし主を退ける愚を犯すことがないように、いつも「真理に属する者はわたしの声を聞く」(ヨハネ18:37)というイエス様の言葉を胸に刻み、「主の声に従順する」道を歩むこと、それこそが十字架を信じる者たちのあるべき姿なのです。 結論として、ヨハネの福音書18章28節から19章16節までのピラトの前に立たれるイエス様の事件は、ピラトを通した世の法廷から「この人には何の罪も見いだせない」という無罪宣言がなされながらも、ユダヤの宗教指導者たちがそれを拒み、世の権力と結託してイエス様を十字架につけるよう要求するというアイロニーを暴き出します。それは宗教的偽善と憎しみが合体した罪悪の頂点でしたが、同時にイエス様の自発的従順と完全なる愛によって救いの歴史(救贖史)が頂点に達する偉大な瞬間でもありました。張ダビデ牧師は、この本文から「キリスト者ならば、バラバが恵みによって釈放されたように、私たちも十字架の恵みによって解放されたことを忘れず、イエス様の道にならってどんな苦難もいとわず神の国をあかしすべきだ」と強く訴えます。人間の陰謀と暴力が最高潮に達したとき、神はその十字架の死を復活の栄光へと一変され、何ものも妨げられない救いの門を大きく開かれたのです。 以上、三つの小主題をもとにヨハネ18章28節から19章16節を考察した張ダビデ牧師の解説では、とりわけイエス様とピラトの対話、宗教指導者たちの偽善、そして究極的に十字架が持つ代贖の意味が強調されています。これらのメッセージは時代を超えてすべての信徒に強力な挑戦を与え、今日の教会内外でも依然として悔い改めと決断を迫ります。イエス様のように終わりまで真理をあかしする道、十字架の道を歩むのか、それとも既得権を守るためにイエス様を排除し、カエサルに頭を下げる道を選ぶのか――その問いは2000年前だけでなく、現代のクリスチャンにも突きつけられているのです。 私たちは「張ダビデ牧師」が提示するこうした洞察を土台として、世からの多くの誘惑や脅しの前でも「真理に属する者」として揺るぎない信仰の道、すなわち十字架を中心に据えた弟子の道を歩まねばなりません。そうすることで、イエス様がお示しになったあの純粋で完全な愛が私たちの日常のあらゆる場面で輝きを放ち、全世界に向かって真の福音のあかしが続いていくことでしょう。イエス様はピラトの前でも、兵たちの嘲弄の前でも、大祭司たちの脅迫の前でも決してひるむことなく、ただ「神の御心」に自分をおゆだねになりました。そしてそれこそが「世に勝利する勝利」であることを、全宇宙が目の当たりにすることとなったのです。

The Truth That Leads to the Cross – Pastor David Jang

Below is a summary of Pastor David Jang’s sermon on the Passion scene of Jesus found in John 18:28–19:16. This passage focuses on the interrogation by Pilate, the accusations and hypocrisy of the Jewish religious leaders, and Jesus ultimately heading toward the cross. Through the lens of this narrative, Pastor David Jang highlights how Jesus, … Read more