장재형목사 설립 올리벳대학교 OIT 교수진 CES 2022 컨퍼런스 참석

장재형목사가 설립한 올리벳대학교의 OIT의 Olivet Institute of Technology 교수진이 1월 5일부터 6일까지 버추얼로 CES 2022 컨퍼런스에 참석했습니다. 이는 교수진이 올해의 최신 기술 동향을 파악하는 데 도움이 되었습니다. OIT는 학생들에게 최첨단 기술을 가르치고 혁신에 적용할 수 있는 새로운 교육 자료를 설계할 계획입니다. CES 2022에서는 인공지능, 메타버스와 관련된 다양한 어플리케이션을 선보였습니다. CES 2022의 기조연설은 현재 샌프란시스코 캠퍼스가 … Read more

已沐浴者与罪的尘埃|张大卫牧师

在四旬期的静默里缓缓行走时,某个瞬间,人会不由自主地停在《约翰福音》十三章面前。此章并非仅仅记录一段历史事件的段落,而是一处灵性的深渊:爱与背叛、光与暗、荣耀与羞辱,在这里汇聚于同一个点。张大卫(David Jang)牧师默想此段经文时,尤其反复抓住两句话:“他既然爱世间属自己的人,就爱他们到底”,以及“已经沐浴的人,只需把脚一洗,全身就干净了”。在《最后的晚餐》这道悲剧门槛前,耶稣基督所面对的死亡,并不是单纯的自然终结(死),而是他人之手加诸的暴力杀害(杀)。然而,即便站在这最黑暗的受难之门前,主选择的也不是自怜或愤怒,而是爱的完成。“到底”这两个字里,四旬期的战栗悄然渗入空气。 让我们想起达·芬奇的《最后的晚餐》。画面中央,是安静的耶稣面容;两侧的门徒却惊讶、窃语、互相追问、手势纷飞,满是骚动。在每张被情绪与利益分散的脸之间,背叛的空气正一点点加浓。张大卫(Olivet University 创办人)牧师所描绘的真实历史场景,也并无二致:魔鬼早已把出卖耶稣的意念放进加略人犹大的心里;与此同时,门徒们心中“谁更大”的隐秘竞争也在蠢动。仇敌竟同坐于圣洁的筵席,擘饼之际,卖主的人竟端坐在“圣餐之座”的正中央——这幅画面超越达·芬奇的笔触,借着圣灵的光照,显出人类存在最赤裸的面目。 张大卫牧师从这样的角度读这悲剧舞台:“死亡的阴影浓重压下、悲剧的极致迫近之时,耶稣仍没有放弃爱。”耶稣的死并非认命式的被动死亡,而是阴谋、宗教权势、群众的无知与门徒的背叛纠缠交织而成的“被杀”事件。然而在其中心,主并不沉没于即将临到自己的残酷命运,反而把全存在倾注在“爱属自己的人到底”这件事上。这种执拗而笃定的爱之张力,使四旬期的空气从根本上变得不同。 《约翰福音》记载:“魔鬼已将卖耶稣的意思放在西门的儿子加略人犹大心里。”那种要把门徒与主分开、绝不该出现在门徒胸膛里的想象,有一天会悄悄在心底安家。信仰最致命的危机,往往不是外在的逼迫,而是最靠近主的人内里,背叛的种子在暗处滋长。犹大曾在主身边听道,亲眼见过神迹,与众人一同领受饼与杯;然而他没有分辨魔鬼撒下的意念,也没有把那意念诚实地带到圣灵的光中。 在这里,张大卫牧师唤起《罗马书》第一章令人战栗的表达——“任凭他们”。上帝抓住人的恩典,与人在反复拒绝与固执之中,最终被“任凭”的审判之间,存在着像门槛一样清晰的鸿沟:一步之差,便是门内与门外、家里与家外。犹大在那“爱他们到底”的爱面前,选择“到底拒绝”,于是走向被任凭的黑夜。约翰写道:“他受了那点饼,立刻就出去;那时候是夜间。”这并不是单纯的时间说明,而是象征一种笼罩全灵魂的黑暗密度。巴赫《马太受难曲》中,有一处时刻,所有乐器忽然沉到很低,像长久的静默那样的寂静铺开;在那寂静里,人同时触到人的背叛何等悲惨,也触到上帝不肯放手的爱何等哀婉。 更令人心惊的,还在于这一点:当犹大起身走入黑暗之时,与他同席的其他门徒竟无一人察觉事情的严重。他们不知道他为何出去,也完全感受不到他灵魂深处正在发生什么。张大卫牧师把这诊断为门徒之爱变得迟钝、对弟兄漠然、灵性敏感度麻木。当我们用逆光去看《最后的晚餐》,一边是主在擘饼之处仍要劝勉、仍要挽回背叛者的凄切之爱;另一边却是彼此争竞、对身旁弟兄的灵魂正在崩塌毫无觉察的冷漠门徒。四旬期在此对我们发出尖锐的追问:“你是像犹大那样的人吗?你是像那些一无所知——或知道却装作不知——的门徒吗?还是你要成为与那挽回犹大的爱同工的人?” 就在这紧张与麻木交织、灵性氛围浓得化不开之际,耶稣安静地起身,脱下外衣。祂束上手巾,倒水在盆里,开始一一洗门徒的脚。对穿着凉鞋行走在巴勒斯坦粗糙土路上的人而言,进家洗脚本是日常礼仪;但做这事的人通常是仆人。偶尔也会有拉比的门徒为师傅洗脚,但无论如何,洗脚者都处在“更低”的位置。然而那位被称为“老师”“主”的耶稣——并且说“你们称呼我夫子、称呼我主,你们说得不错,我本来是”——竟亲自脱去外衣,坐到仆人的位置上。这不仅是谦卑的姿态,而是对世俗权威结构与价值体系的彻底颠覆:在上帝国度里,真正的权柄不是从上压制,而是从下托举的服事。 https://www.youtube.com/shorts/4V5KmHPbGWI 此时,西门彼得的反应带着人性的情绪,却也包含深刻误解:“主啊,你洗我的脚吗?你永不可洗我的脚!”表面听来像谦卑,张大卫牧师却在其中读出彼得的无知。其实在整个公开事奉过程中,耶稣早已不断“洗”门徒的脚:医治病人、喂饱饥饿者、寻找迷失者——这些全都是洗净门徒生命与存在的爱之服事。彼得还未看见这爱的连续性,只因眼前这一幕就惊退。因此耶稣说:“我所做的,你如今不知道,后来必明白。”这句话既有对门徒有限理解的冷峻指出,也包含主对他们终将跨越此限的信任与盼望。 紧接着,“我若不洗你,你就与我无分”这句话,指向的不是礼节,而是救恩、归属与关系的本质。张大卫牧师以当时巴勒斯坦的文化背景解释:赴筵席的人出门前按惯例先沐浴全身、换上洁净衣服;但走在路上,尘土泥水会再把脚弄脏。所以进到主人家门前,不必再全身重洗,只需洗脚便足够。耶稣说“已经沐浴的人,只需洗脚”,正是出于这样的生活背景。 张大卫牧师把这句话解释为“重生与日常悔改”的灵性结构。沐浴只有一次:一次彻底的重生,在圣灵里得新生,在十字架前的存在论断裂。受洗时沉入水中又起来,象征旧人的死与新人的生。有拉比甚至极端地说过:“归信者完全成为新的人,以至于可以与自己的母亲结婚。”这类夸张表达,正凸显洗礼与重生意味着与过去的完全断裂、身份的彻底翻转。张大卫牧师借此强调:重生不是情绪变化或宗教兴趣的转移,而是整个人存在根基的转向。一次沐浴、一次彻底降服、一次在十字架前的崩塌,使我们得以作为上帝国筵席的客人被迎入门内。 然而,之后的生活才是问题所在。已经沐浴的人,仍必须走在尘土飞扬的路上。十字架与圣灵的洗中,原罪在根基上得以解决;但本罪——也就是人在生活中用“脚”追逐而去所犯的罪——仍会不断玷污我们。保罗叹息说“他们的脚飞跑流血”,揭露人向罪奔走何等迅捷,也揭露罪的习惯性如何刻在我们的深处。张大卫牧师不掩饰这冷峻现实:我们是重生的人,却也是“脚快去犯罪”的人。因此四旬期的邀请不是“再去沐浴一次”,而是“既已沐浴,就要天天洗脚”的灵性命令。 “洗脚”究竟是什么?它是具体的悔改,是洁净的礼仪。即便已经成为上帝儿女的人,在犯罪之后也必须来到主面前,把沾污的脚伸出来:我的脚去过哪里,沾了怎样的血与尘土,都不要隐藏,而要让主看见。那时耶稣仿佛再次脱下外衣、束上手巾,以“爱到底”的心洗净我们的脚。我们常把悔改当作羞耻,主却把悔改当作喜乐来迎接。就像孩子一次次弄脏衣服,母亲一次次洗涤,最终仍要把孩子穿得洁净;主也在我们一次次跌倒、一次次被罪玷污时,不厌其烦地洗净我们的脚。张大卫牧师所说的“洗脚的灵性”,正是这种反复经历怜悯的生命样式。 在这里,他再次强调十字架的位置。教会需要“招牌”。逾越节之夜,门框上涂抹羔羊之血的家与未涂抹的家,命运从此分开;照样,教会也必须清楚显出与世间空间不同的标记。然而仅有招牌仍不够。教会的中心必须竖立十字架——不仅是礼拜堂天花板上挂着的木十字架,也包括每位信徒胸口里那“看不见的十字架”。十字架象征彻底的自我否定。十字架竖立之处,罪无法安躺,自我合理化与骄傲也难以扎根。 回望历史,人每当想避开这令人不适的十字架,就会制造各种宗教替代物:割礼、仪式、习俗、成功与繁荣的语言——试图把十字架粗砺的棱角磨圆。张大卫牧师将这种倾向断然称为“别的福音”。巴赫《马太受难曲》跨越世纪仍能使无数人落泪,并不只是因为音乐技巧华丽,而是因为那恢宏的合唱与细腻的旋律之中,中心轴始终是“无法回避的十字架”。那音乐最终把我们带到各各他的沉默面前:在十字架前,没有人能夸自己的义;唯有否认自己、紧抓基督恩典的人,才能站立得住。 《腓立比书》二章里,保罗用“倒空自己,取了奴仆的形像;既有人的样子,就自己卑微,存心顺服,以至于死”来概括基督的心。张大卫牧师把这段话与《约翰福音》十三章的洗脚彼此叠合来读:主是万王之王,却也成为仆中之仆。真正倒空时,才进入真正的充满;真正降卑时,才进入真正的高举——这悖论在洗脚这一具体动作中显明。世俗的权力从上向下压制统治,上帝国度的权柄却从下向上托举的爱之服事中诞生。就像母亲抱着孩子、养育孩子,事实上常以“仆人”的姿态生活;教会真实的权柄,也是在为弟兄洗脚的地方形成的。 在这强烈对照的一边,站着犹大。他被邀请进入基督的筵席;他并无资格,却因主单方面的恩典领受了饼与杯。然而他是“没有沐浴的人”。在爱里死而复生的重生世界没有在他里面打开;他也没有觉悟到自己只因基督之爱而存在。他像是漂浮在爱的河流上,却不知道那是爱之水;像是呼吸着恩典的空气,却没有意识到那是恩典——这正是他的典型。 与此相反,伦勃朗的《浪子回头》展开的是完全不同的画面:挥霍一切、归来的儿子在父亲面前跪下俯伏时,父亲用双手拥抱他的背。懂得接受爱的人,肯跪下承认罪的人,总能得到新的开始。对犹大而言,那条路也曾敞开。正如张大卫牧师一贯强调:耶稣曾爱他到底,也曾要挽回他到底;只是犹大最终拒绝那爱,选择自己走入夜色,消失在黑暗里。 今天,在四旬期里行走的我们,也面对同样的问题:我们是谁?我们是已经沐浴的人,天天洗脚、不断更新与主的关系的人吗?还是像犹大那样,尚未沐浴,却只满足于在宗教的座位上同席的人?或者像那些门徒,在最深的悲剧眼前发生时,非但不彼此洗脚,反而沉迷于“谁更大”的争论? 张大卫牧师在这篇讲道里说,四旬期四十天不是教会历的一段区间,而是重排整个人生序列的时间。当我们深深默想主为我们脱下外衣、束上手巾、洗脚所显明的爱时,我们必须把自己的情欲与私欲、肉体的欲望钉在十字架上。正如保罗所言,属基督耶稣的人,是把肉体连同私欲情欲钉在十字架上的人。当十字架深深钉在心中,我们便不再把罪当作甜美的诱惑。那曾奔向罪的脚,会在某一刻看见脚背上投下的十字架阴影,而停住。 这篇讲道也催促我们不要忘记主的命令:“你们也当彼此洗脚。”主怎样洗净我们,我们也当洗净弟兄姊妹的脚。这不是象征性的谦卑动作,而是实际的爱之劳动:饶恕、等待、拥抱、照顾。为那些你觉得像仇敌的人——那些你认为把你推向十字架道路的人——洗脚;为那误解你、毁谤你、留下深伤的人洗脚;为他们流泪祷告、行善相待——这才是最痛苦却也最蒙福的基督徒道路。巴赫的受难音乐最终不是以绝望结束,而是含着盼望之光收束,原因也在这里:十字架是悲剧的顶点,却也是爱的得胜。 当我们穿过四旬期,走向复活节的旅程中心,张大卫牧师这篇讲道向我们提出明确的抉择:我们要以“已沐浴者”的样式生活,还是仍抱着污秽的旧衣不放?我们要天天洗脚,更新与主的交通,还是要把沾污的脚藏起来自欺?我们要选择为弟兄洗脚的仆人之路,还是要停留在世俗逻辑里争论“谁更大”? 那位爱到底的主,今天也仍走进我们的餐桌、敬拜之处、日常最平凡的空间,安静地脱下外衣。祂对我们说:“已经沐浴的人,只需把脚一洗。”这句话里既有坚定的安慰,也有颤抖的挑战:我们是蒙恩得洁净的人,却也仍是脚上沾着尘土与血迹的人。四旬期,就是把这双脚交给主的时刻;也是靠着那洗净再起身,去洗别人的脚的时刻。如此,即便只是一点点地,我们也会更像那位连对犹大都不肯收回爱到底的基督之心。到那时,我们便预备好了,迎接真正复活清晨的来临。 www.davidjang.org

「すでに身を洗った者」と罪の埃 張ダビデ牧師

四旬節の静けさの中をそっと歩いていると、ある瞬間、ヨハネによる福音書13章の前で足が止まる。この章は、ただ歴史的出来事を記録した段落ではない。愛と裏切り、光と闇、栄光と恥辱が一点へと収斂していく、霊的な深淵そのものだ。張ダビデ(チャン・ダビデ)牧師はこの箇所を黙想しつつ、特に二つの表現を繰り返し握りしめる。「世にいる自分の者たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」という宣言と、「すでに身を洗った者は、足以外は洗う必要がない」という御言葉である。最後の晩餐という悲劇の敷居において、イエス・キリストが迎えられた死は、単なる自然死(死)ではなく、他者の手によって加えられた暴力的な死、すなわち「殺される死(殺)」であった。しかしこの最も暗い受難の門口においてさえ、主は自己憐憫や怒りではなく、愛の完成を選ばれる。この「最後まで」という言葉に、四旬節の震えが染み込んでいる。 レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を思い浮かべてみよう。絵の中央には静かなイエスの顔があり、その両脇で弟子たちは驚き、ささやき合い、互いに問い、手ぶりで騒然としている。各々の利害と感情に散っている顔の間で、裏切りの空気がゆっくりと濃度を増していく。張ダビデ(Olivet University設立)牧師が描く実際の歴史の場面も、大きくは違わない。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを売り渡す思いを吹き込み、同時に弟子たちの内側では「誰が一番偉いか」を争う密かな競争心がうごめいていた。敵が聖なる食卓に共に着き、パンを裂き、イエスを売り渡す者が「聖餐の席」の真ん中に座っている――この光景は、ダ・ヴィンチの筆を超えて、聖霊の光によって照らし出された人間実存の赤裸々な顔である。 張ダビデ牧師はこの悲劇の舞台を、「死の影が濃く垂れこめ、悲劇の極みに近づくまさにその瞬間でさえ、イエスは愛を放棄されなかった」という視点から読む。イエスの死は、宿命をあきらめた受動的な死ではない。陰謀と宗教権力、群衆の無知と弟子の裏切りが絡み合って生み出した「殺し」の出来事である。しかしそのただ中で主は、自分に降りかかる残酷な運命に呑み込まれず、「自分の者たちを最後まで愛する」ことに全存在を注がれる。この執拗で、愚直で、しかし決して折れない愛の緊張が、四旬節の空気を根本から違うものに変える。 ヨハネ福音書は「悪魔がすでにユダの心に、イエスを売り渡す思いを入れた」と記す。弟子と主を引き裂く思い、決して弟子の胸にあってはならない想像が、ある日ひそかに心の中へ居座る。信仰にとって最も致命的な危機は、いつも外からの迫害ではなく、主に最も近かった者の内面で密やかに育つ裏切りの種から始まる。ユダは主のそばで御言葉を聞き、奇跡を目撃し、パンと杯を共に分かち合った。しかし、悪魔が蒔きつけた思いを見分けられず、その思いを聖霊の光の前に正直に差し出すこともしなかった。 https://www.youtube.com/shorts/4V5KmHPbGWI この地点で張ダビデ牧師は、ローマ書1章の恐るべき表現――「引き渡される(見捨て渡される)」を呼び起こす。人をつなぎ留める神の恵みと、繰り返される拒絶と頑なさの末に、ついに「引き渡される」という裁きの間には、門の内と外を分かつ敷居ほど、家の中と外を分ける戸口ほど、決定的な隔たりがある。ユダは、最後までつなぎ留めようとする愛を最後まで拒むことで、ついに自ら「引き渡される夜」の中へ歩み入った者である。ヨハネが「パン切れを受けると、すぐに外へ出て行った。夜であった」と記すとき、その一行は単なる時刻情報ではなく、魂全体を覆う闇の密度を象徴する。バッハの「マタイ受難曲」で、すべての楽器が突然低く沈み、長い沈黙のような静けさが流れる瞬間がある。その沈黙の中で私たちは、人間の裏切りがどれほど悲劇的か、そしてそれにもかかわらず神が放棄されない愛がどれほど切ないかを、同時に感じ取る。 さらに背筋が冷えるのは、ここである。ユダが席を立ち、闇の中へ歩み出て行ったとき、彼のそばに座っていた他の弟子たちの誰一人として、この出来事の深刻さを感知できなかった。彼らは、なぜユダが出て行くのか、彼の魂の深いところで何が進行しているのかを、まったく察知できなかった。張ダビデ牧師はこれを、弟子たちの愛の鈍さ、兄弟への無関心、霊的感受性の麻痺として診断する。最後の晩餐の現場を逆光で照らすなら、一方では、パンを裂きながら最後まで裏切り者を諭し、つなぎ留めようとする主の切実な愛があらわになり、他方では、互いに争い、隣に座る兄弟の魂に何が起きているのかを少しも感じ取れない、冷えた弟子たちの姿が告発される。四旬節はこの地点で私たちに鋭く問う。「あなたはユダのような者か。あなたは何も知らずに、あるいは知りながら知らぬふりをした弟子のような者か。それともユダを最後までつなぎ留めようとした主の愛に加わる者か。」 この深刻な緊張と霊的鈍麻の空気が濃く垂れこめるそのとき、イエスは静かに立ち上がり、上着を脱がれる。腰に手ぬぐいをまとい、たらいに水を汲み、弟子たちの足を一人ひとり洗い始められる。パレスチナの荒れた舗装されていない道を、サンダルで行き来していた人々にとって、家に入る際に足を洗うことは日常の基本的な礼儀だった。しかしその役割を担うのは、常に僕であった。時にラビの弟子が師の足を洗うこともあったが、いずれにせよ足を洗う者は「下」にいる存在である。ところが「あなたがたがわたしを先生、主と呼ぶのはもっともだ。わたしはそうである」と語られるその方が、自ら上着を脱いで僕の位置に座られる。これは単なる謙遜のジェスチャーではない。世の権威構造と価値体系を根こそぎ転倒させる行為である。神の国において真の権威とは、上から押さえつけることではなく、下から支える仕えによって立つ。 このときシモン・ペトロが口にした言葉は、人間的感情を含みながらも、同時に深い誤解を内包する。「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか。わたしの足を、決して洗わないでください。」一見するともっともらしい謙遜に聞こえる。しかし張ダビデ牧師は、ここにペトロの無知を読み取る。イエスはすでに公生涯の全期間を通して、弟子たちの「足」を洗ってこられた。病人を癒やし、飢えた者を食べさせ、道に迷う者を探し求めたそのすべてが、弟子たちの存在を洗い清める愛の仕えであった。ペトロはこの愛の連続性をまだ悟れず、ただ一度の行為だけを見て、思わず後ずさるのである。だからイエスは「わたしのしていることは、今あなたにはわからないが、後になってわかるようになる」と語り、彼の狭い理解を超えたさらに深い世界を予告される。この言葉には、弟子である者の限界を指摘する厳しさと、しかしいつかその限界を越え得るという主の信頼と望みが、同時に宿っている。 続く「もしわたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もない」という宣言は、単なる礼儀の問題ではなく、救いと所属、関係の本質そのものを射抜く。張ダビデ牧師は当時のパレスチナの文化的背景を指し示しながら、この言葉を解き明かす。宴に招かれた人は、家を出る前にすでに全身を洗い、衣服を着替えるのが慣習だった。ところが宴席へ向かう道中で、埃や泥水が再び足を汚す。ゆえに家の中へ入る前には、全身を洗い直す必要はなく、足だけ洗えば十分だった。イエスが「すでに身を洗った者は、足以外は洗う必要がない」と語られた背景は、まさにここにある。 張ダビデ牧師はこの御言葉を、「重生と日々の悔い改め」という霊的構造として解釈する。入浴は一度きりである。一度の徹底した重生、聖霊における新しい誕生、十字架の前での存在論的断絶――それが「一度の身を洗う」ことだ。洗礼の水に沈み、再び上がってくる行為は、古い人の死と新しい人の誕生を象徴する。あるラビが「改宗者は母と結婚できるほど、完全に新しい人間だ」と極端に語ったほどに、洗礼と重生は過去との完全な断絶、徹底したアイデンティティの転換を意味する。張ダビデ牧師はこの例を通して、重生が感情の変化や宗教的嗜好の移動ではなく、存在全体の根本的転回であることを強調する。一度の入浴、一度の徹底した降伏、一度の十字架の前での崩れ――それが私たちを神の国の宴へ招く門である。 しかし問題はその後の生活である。すでに身を洗った者も、なお埃の積もる道を歩まねばならない。十字架と聖霊のバプテスマにおいて原罪は根本的に解決されたとしても、日々の歩みの中で足で追いかけて犯してしまう罪――自ら犯す罪は、なお私たちを汚す。パウロが「その足は血を流すのに速い」と嘆くとき、彼は人間が罪へ向かってどれほど素早く走り出すか、私たちの深いところに刻まれた罪の習慣性を暴いている。張ダビデ牧師はこの冷厳な現実を隠さず、直視させる。私たちは生まれ変わった者でありながら、同時になお罪へと速い足を持つ存在でもある。ゆえに四旬節の招きは「もう一度全身を洗え」ではなく、「すでに身を洗った者らしく、日ごとに足を洗え」という霊的命令なのだ。 では「足を洗う」とは何か。それは具体的な悔い改めであり、清めの営みである。すでに神の子とされた者であっても、罪を犯したなら主の前に進み、汚れた足を差し出さねばならない。自分の足がどこを歩き、どんな血と埃をまとって生きてきたのかを、隠さず見せるのだ。そのときイエスは再び上着を脱ぎ、手ぬぐいをまとい、最後まで愛し抜く心で私たちの足を洗ってくださる。私たちは悔い改めを恥と考える。しかし主は私たちの悔い改めを喜びとして迎えられる。子どもが服を汚すたびに母が何度でも洗濯をし、結局は子どもにきれいな服を着せ続けるように、主は私たちが倒れるたび、罪で汚れるたび、足を洗ってくださる。張ダビデ牧師が語る「足洗いの霊性」とは、この繰り返される憐れみの経験そのものだ。 ここで彼は十字架の位置を改めて強調する。教会には看板が必要である。過越の夜、門柱に小羊の血が塗られた家とそうでない家とで運命が分かれたように、教会は世のほかの空間と区別される印を明確に掲げねばならない。しかし看板だけでは十分ではない。教会の中心には必ず十字架が立たねばならない。それは礼拝堂の天井に掛けられた木の十字架だけではない。各聖徒の胸に刻まれた「見えない十字架」まで含む。十字架は徹底した自己否定の象徴である。十字架が高く立つところでは、罪は安らかに横たわることができず、自己正当化と高慢が根を下ろす余地が消える。 歴史を振り返ると、人間はこの不都合な十字架を避けようとするたびに、別の宗教的代替物を作り出してきた。割礼、儀式、慣習、成功と繁栄という言葉で、十字架の荒い角を丸く削ろうとしてきた。張ダビデ牧師はこの流れを「ほかの福音」と断固として規定する。バッハの「マタイ受難曲」が世紀を超えて今なお多くの人の涙を誘う理由は、華麗な音楽技巧だけにあるのではない。壮大な合唱と繊細な旋律を通して流れる中心軸が、いつも「避けることのできない十字架」だからである。その音楽は結局、ゴルゴタの丘の沈黙の前に私たちを立たせる。十字架の前で誰も自分の義を誇れない。ただ自分を否み、キリストの恵みだけを握る者だけが残る。 ピリピ人への手紙2章でパウロは、キリストの心を「自分を空しくして僕のかたちを取り、へりくだって死に至るまで従われた」と要約する。張ダビデ牧師はこの御言葉とヨハネ13章の足洗いの出来事を重ね合わせて読む。主は王の王でありながら、同時に僕の僕となられた。本当に空しくされるとき初めて満たされ、本当に低くなられるときこそ真に高くされる――この逆説が、ここでは具体的な身ぶりとして現れる。世の権力は上から下を押しつけて支配するが、神の国の権威は下から仕え、支える愛から生まれる。子を抱き育てる母が実際には子の僕として生きるように、教会の真の権威もまた、兄弟の足を洗う場所で形づくられる。 この対照の一方にユダが立っている。彼はキリストの晩餐へ招かれた。何の資格もなかったのに、主の一方的な恵みによってパンと杯を受けた者である。しかし彼は「身を洗っていない者」だった。愛の中で死に、再び生きる重生の世界が彼の内に開かれず、自分がただキリストの愛ゆえに存在しているという事実を悟れなかった。彼は愛の川の上に浮かびながら、それが愛の水であることを知らない人、恵みの空気を吸いながら、それが恵みだと自覚しない人の典型である。 これに対してレンブラントの「放蕩息子の帰還」は、まったく別の光景を広げる。すべてを蕩尽して戻ってきた息子が父の前にひざまずき、うつ伏すとき、父は両手でその背を抱きしめる。愛を受け取ることのできる者、ひざまずいて自らの罪を認める者には、いつも新しい始まりが与えられる。ユダにもその道は開かれていた。張ダビデ牧師が一貫して強調するように、イエスは彼を最後まで愛し、最後までつなぎ留めようとされた。しかしユダはその愛を最後まで拒み、自ら夜の中へ消える道を選び取った。 今日、四旬節を生きる私たちの前にも同じ問いが置かれている。私たちはどのような人間なのか。すでに身を洗った者として、日々足を洗い、主との関係を新しくする者なのか。それともユダのように、まだ身を洗わぬまま、ただ宗教的な席に同席することだけで満足する者なのか。あるいは弟子たちのように、最も深い悲劇が目の前で起きているのに、互いの足を洗うどころか「誰が一番か」を争うことに没頭している者なのか。 張ダビデ牧師はこの説教で、四旬節40日が単に教会暦の一区間ではなく、人生全体の配列を組み替える時間だと言う。主が私たちのために上着を脱ぎ、腰に手ぬぐいをまとい、足を洗って示された愛を深く黙想する間、私たちは自分の情欲と欲望、肉の願いを十字架につけねばならない。パウロの言葉のように、キリスト・イエスに属する者たちは、肉をその情と欲とともに十字架につけた人々である。十字架が胸の真ん中に深く打ち込まれているとき、私たちはもはや罪を甘い誘惑として受け取れなくなる。罪へ走っていた足が、ある瞬間、足の甲に差す十字架の影を見て立ち止まるのだ。 この説教はまた、「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」という主の命令を忘れるなと促す。主が私たちを洗ってくださったように、私たちも兄弟姉妹の足を洗わねばならない。それは単なる象徴的な謙遜の動作ではなく、実際に赦し、待ち、抱き、顧みる愛の労働である。自分を十字架の道へ追い込んだと感じる“敵”のような人、自分を誤解し中傷し深い傷を残した人の足を洗うこと――その人のために涙で祈り、善を施すことこそ、最も痛ましく、しかし最も祝福されたキリスト者の道である。バッハの受難音楽が、最後には絶望ではなく希望の光を含んで結ばれる理由もここにある。十字架は悲劇の頂点であると同時に、愛の勝利だからだ。 四旬節を過ぎ、復活祭へ向かうこの旅路のただ中で、張ダビデ牧師のこの説教は、私たちに明確な決断を求める。すでに身を洗った者らしく生きるのか、それともなお汚れた古い衣を抱きしめて生きるのか。日々足を洗って主との交わりを新しくするのか、それとも汚れた足を隠し、自分を欺くのか。兄弟の足を洗う僕の道を選ぶのか、それとも「誰が大きいか」を競う世の論理に留まるのか。 最後まで愛し抜かれた主は、今日も私たちの食卓と礼拝の場、日常の最も平凡な空間へと来られて、静かに上着を脱がれる。そして私たちに語られる。「すでに身を洗った者は、足以外は洗う必要がない。」この御言葉には、確かな慰めと、震えるような挑戦が同時に宿っている。私たちはすでに恵みによって洗われた者でありながら、なお埃と血をまとった足を持つ存在でもある。四旬節とは、その足を主に差し出す時間であり、その洗いを力として、再び立ち上がり、他者の足を洗いに行く時間である。そうしてほんの少しでも、ユダに対してさえ最後まで愛を引っ込めなかったキリストの心に似ていくとき、私たちはついに真の復活の夜明けを迎える備えを整えていく。 日本オリベットアッセンブリー教団 www.davidjang.org

Celui qui s’est déjà baigné et la poussière du péché, pasteur David Jang

Quand on avance en silence dans la quiétude du Carême, il arrive qu’un jour, sans prévenir, le pas s’arrête devant Jean 13. Ce chapitre n’est pas seulement un paragraphe qui consigne un événement historique : il est un abîme spirituel où l’amour et la trahison, la lumière et les ténèbres, la gloire et la honte … Read more

El que ya se ha bañado y el polvo del pecado, Pastor David Jang

Al caminar en silencio por el interior de la quietud cuaresmal, llega un momento en que los pasos se detienen frente a Juan 13. Este capítulo no es un simple párrafo que registra un acontecimiento histórico; es un abismo espiritual donde amor y traición, luz y tinieblas, gloria y vergüenza convergen en un solo punto. … Read more

The One Who Has Bathed Already and the Dust of Sin — Pastor David Jang

As you walk quietly through the stillness of Lent, there comes a moment when your steps stop before John 13. This chapter is not merely a paragraph that records an historical episode; it is a spiritual abyss where love and betrayal, light and darkness, glory and shame converge at a single point. As David Jang … Read more

이미 목욕한 자와 죄의 먼지, 장재형목사

사순절의 정적 속을 조용히 걸어가다 보면, 어느 순간 요한복음 13장 앞에서 발걸음이 멈추게 된다. 이 장은 그저 역사적 사건을 기록한 문단이 아니라, 사랑과 배반, 빛과 어둠, 영광과 수치가 한 점에 수렴되는 영적 심연이다. 장재형(장다윗)목사는 이 본문을 묵상하면서 특히 두 표현을 반복해 붙잡는다. “세상에 있는 자기 사람들을 사랑하시되 끝까지 사랑하시니라”는 선언과, “이미 목욕한 자는 발밖에 씻을 필요가 없느니라”는 말씀이다. 최후의 만찬이라는 비극의 문턱에서, 예수 그리스도께서 … Read more

바울 정체성의 깊이와 사도적 부르심, 장재형 목사의 시선

장재형(올리벳대학교 설립) 목사의 로마서 강해를 읽다 보면, 로마서 1장 1절이라는 짧은 문장이 단순한 자기소개가 아니라 사도 바울의 내면 전체를 압축한 신앙 선언임을 실감하게 된다. “예수 그리스도의 종 바울은 사도로 부르심을 받았고, 하나님의 복음을 위하여 따로 세움을 입었느니라.” 장재형(장다윗) 목사는 이 한 절 속에 담긴 영적 구조를 하나씩 풀어내며, 고대 교회에서 울리던 메시지가 오늘 우리의 정체성 … Read more

장재형목사 바울의 사도행전 22장 복음 전략

사도행전 21장의 막은 성전 층대 위에 선 바울과 그를 죽이려는 군중이 정면으로 마주 선 장면에서 내린다. 숨소리까지 들릴 만큼 팽팽한 긴장 속에서 바울은 누구도 예상하지 못한 선택을 한다. 로마 군인의 손에 붙잡힌 채 헬라어로 맞대응하지 않고, 히브리 방언, 곧 아람어로 조용히 말문을 연다. “부형들아.” 칼날 같은 시선이 오가는 와중에 이 다정한 호칭은 군중의 심장부를 직접 건드린다. 장재형목사는 이 장면을 단순한 언어 문제가 … Read more

超越死亡的复活信仰 —— 张大卫牧师

超越死亡的复活信仰 —— 张大卫牧师 张大卫牧师把“超越死亡的复活信仰”宣告为基督教福音的精髓,针对现代人所面临的存在性焦虑与死亡议题,提出了清晰而系统的神学答案。他的信息以耶稣基督的“十字架代赎”与“复活生命”为两大支点,深入阐述这一真理如何在信徒的个人生活与教会共同体中动态地展现出来。尤其值得注意的是,张牧师强调耶稣的复活并非抽象的教义或神话,而是深深扎根于使坟墓空无一物的“空墓事件”这一铁证如山的历史事实。 核心思想:复活与永生的福音 张牧师指出,在现代社会接二连三的危机中,人们之所以涌向教会,最根本的动因在于“对死亡的恐惧”与“求生的本能”。当突如其来的瘟疫、灾难或事故降临,人们忽然意识到死亡不再是“别人的事”,随时可能成为自己的现实,于是便爆发式地寻求礼拜与福音。 针对这种普遍且迫切的人类渴望,张牧师郑重宣告:基督教核心信息中“复活与永生”的福音,乃唯一且完整的答案。他指出,历史上一切宗教创始人、道德家、哲学家皆未能战胜死亡,依然长眠于墓穴;唯独耶稣基督借着从死里复活,彻底击败了死亡。 他引用约翰福音 11:25‑26:“我是复活,我是生命;信我的人虽然死了,也必复活;凡活着信我的人,必永远不死。你信这话吗?”并借此阐明复活信仰的两大支柱: 张牧师强调,这两重应许正是为被死亡恐惧束缚的人类打开真正盼望与出路的福音精髓。 十字架与复活的奥秘 张牧师进一步指出,若要真正领悟复活的荣耀,必须先深刻明白基督为何必需钉死在十字架。他引用罗马书 4:25:“耶稣被交给人,是为我们的过犯;复活,是为叫我们称义”,直言这一节经文最为精炼地揭示了十字架与复活的奥秘。 十字架代赎之死与代表论 耶稣之死,是因“我们的罪过”而成的代赎(代价性的替死)事件。“罪的工价乃是死”的律法原则下,毫无罪污的耶稣以“人类代表”身份承担了全部罪债。张牧师指出,这与旧约时代祭牲替人受死的救赎原理相同;惟因耶稣成了全人类的“代表(Federal Headship)”,此赎罪行动才终能成就。正如“一人亚当”引入罪与死,“另一人基督”则带来义与生命,因此耶稣的十字架之死即“我们的死”,成为罪得赦免的永久根基。 复活:生命与称义的完成 若说十字架是偿付罪债的事件,那么复活便是“为使我们称义”而成的终极确据。耶稣从死里复活,完全粉碎了罪的权势——死亡,并藉此最终确立救恩。倘若没有复活,人们难以确认十字架代赎是否足以保证永生。正如加拉太书 2:20 的宣告,信徒与基督同死同活绝非比喻,而是庄严宣示:罪与死再也无权辖制我们。张牧师称这为“代表论的极致”。 他提醒,若只强调十字架,信仰可能滞留于死亡;若只强调复活,又易轻忽罪与审判。十字架与复活必须并陈,方构成基督信仰的心脏与全貌。 复活信仰的实际应用 张牧师教导,复活信仰绝不能仅停留在教会节期或礼仪上,而应在信徒日常与群体生活中,具体地彰显为“生命的能力”。拥抱复活信仰的人,基于“死亡不是终结”这一历史事实而心怀笃定。既因复活乃门徒亲眼见证的史实,信徒便能超越世间的不安与恐惧;生命的主权从“自我”转移至“住在我里面的基督”。于是,人生目的不再是世俗成功或自我实现,而是在“爱我、为我舍己的神儿子”里生活。张牧师总结道:“既已亲见超越死亡的生命,这世上的损失与苦难便不再被视为决定性的毁灭。” 今日教会的挑战与呼吁 张牧师指出,当今欧洲部分教堂由于缺乏敬拜者而沦为观光景点,其景况宛如亚利马太的约瑟精心收殓耶稣遗体,却仍未遇见“活着的主”。唯有恢复抹大拉的马利亚那种“超越死亡的爱”与热烈渴慕,教会方能再次成为生命澎湃的敬拜之所。他强调,若说四旬期(大斋期)是默想十字架的阶段,那么复活后的四十日则应是深入经历复活生命与得胜的时期。正如往以马忤斯的门徒在擘饼时认出主,我们在体悟十字架之爱时,方能真正认识复活的主。他提醒说,门徒曾因泪水与痛楚而未能认出近在身旁的主;我们今日亦可能如此。因此,“认出那已然同在的主”,正是真正复活信仰的起点。 www.davidjang.org

死を超える復活信仰 ― 張ダビデ牧師

死を超える復活信仰 ― 張ダビデ牧師 張ダビデ牧師は「死を超える復活信仰」をキリスト教福音の核心として宣言し、現代人が直面する実存的不安と死の問題に対して明確な神学的解答を提示します。彼のメッセージは、イエス・キリストの「十字架の贖い」と「復活のいのち」という二つの軸を中心に、この真理が聖徒の生活と教会共同体の中でどのように力強く具現化できるかを深く論じます。特に彼は、イエスの復活が単なる教理や神話ではなく、墓が空になった「空の墓の出来事」という歴史的事実に根ざしていることを強調します。 核心思想:復活と永生の福音 張ダビデ牧師は、現代社会の危機の中で人々が教会を求める根本理由を「死の恐怖」と「生きたいという本能」に見出します。予期せぬ伝染病や災害が襲うとき、死が「他人事」ではなく自分の現実となり得ることを悟った人々が爆発的に礼拝と福音を求めるようになった、と彼は語ります。 このような人類共通の渇望に対し、張ダビデ牧師はキリスト教の核心メッセージである「復活と永生」こそ唯一の解答であると宣言します。彼は、他の宗教の開祖や哲学者は誰も死を逃れられず墓に閉じ込められたが、唯一イエス・キリストだけが復活によって死に打ち勝ったと語ります。 彼はヨハネ11章25–26節、「わたしはよみがえりであり、いのちです。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は決して死ぬことがありません。あなたはこれを信じますか」という御言葉を通して復活信仰の二本柱を説明します。 この二つの約束こそ、死の恐怖に囚われた人類に真の希望と道を開く福音の核心であると張ダビデ牧師は強調します。 十字架と復活の神秘 張ダビデ牧師は、復活の栄光を理解するためには、キリストがなぜ十字架で死ななければならなかったのかをまず深く通過しなければならないと説きます。彼はローマ4章25節「イエスは私たちの罪のために渡され、私たちを義と認めるために復活された」という御言葉がこの神秘を最もよく集約していると見なします。 十字架の贖いの死と代表理論 イエスの死は「私たちの罪のため」に起こった贖い(代贖)の出来事です。「罪の報酬は死」という律法の原理に従い、罪なきイエスが人類の代表として罪の代価を支払われたのです。張ダビデ牧師は、これが旧約時代に犠牲の動物が人の罪の代わりに死んだ原理と同じであり、イエスが人類の「代表(フェデラル・ヘッドシップ)」となられたことで可能になったと説明します。ひとりの人アダムによって罪と死が来ましたが、もうひとりの人イエス・キリストによって義といのちが来るのです。したがってイエスの十字架の死はすなわち「私たちの死」となり、罪の赦しの根拠となるのです。 復活:いのちと義認の完成 十字架が罪の代価を支払った出来事なら、復活は「私たちを義と認めるため」に起こった出来事です。イエスが死からよみがえられ、罪の権勢である死を完全に打ち破り救いを最終的に確証されました。もし復活がなかったなら、十字架の贖いが永遠のいのちを保証するのか確信が不足したでしょう。ガラテヤ2章20節の告白のとおり、信者がキリストと共に死に、キリストと共に生きることは単なる比喩ではなく、罪と死がもはや私たちを支配できないという実際的な霊的宣言です。張ダビデ牧師はこれを「代表理論の極致」と表現します。 彼は十字架だけを強調すると死に留まりやすく、復活だけを強調すると罪と審判の問題を軽視しかねないとし、この二つは必ず共に宣べ伝えられるべきキリスト教信仰の心臓部であると重ねて強調します。 復活信仰の実際的適用 張ダビデ牧師は、復活信仰が教会の季節行事で終わるのではなく、聖徒の日常と共同体の中で具体的な「いのちの力」として現れなければならないと教えます。復活信仰を持つ人は「死が終わりではない」という歴史的事実に基づく確信を得ます。イエスの復活は弟子たちが目撃した歴史的事件であり、これを信じる信者は世の不安と恐怖を超える力を受け取ります。 人生の主人が「私」から「私のうちに生きるキリスト」へと変わります。目的は世俗的成功や自己実現ではなく、「私を愛し私のためにご自身を捨てられた神の御子を信じる信仰」の中で生きることへと転換します。張ダビデ牧師は「死を超えた命を見たから、この世での損失や苦難が決定的破滅とは見なされない」と語ります。 張ダビデ牧師は今日、一部のヨーロッパの教会が礼拝者のいない観光地と化している現実を指摘します。これはまるでアリマタヤのヨセフがイエスの遺体を丁寧に保存したものの、「生きておられる主」との出会いがない状態に似ています。彼はマグダラのマリアのように主への「死を超える愛」と渇望が回復されるとき、教会は再びいのちが躍動する礼拝の場となり得ると説きます。 四旬節が十字架を黙想する期間であるなら、復活後の40日は復活のいのちと勝利を深く体験する時間です。エマオに向かう弟子たちがパンを裂くときイエスを認識したように、私たちも十字架の愛を悟るとき初めて復活の主を認識できます。彼は涙と苦痛のためにそばにおられる主を認識できなかった弟子たちのように、私たちもそうなり得るとし、「すでに来ておられる主」を認識し出会うことが真の復活信仰の出発点であると語ります。 www.davidjang.org